5-5 進みたい
「林檎ちゃん、あのな……」
「待って」
気持ちを伝えようと動かした口が、林檎の人差し指によって塞がれる。
林檎は笑っていた。何故か楽しそうで、嬉しそうで、自信満々に見える。
「あたし、まだ諦める気はぜんっぜんないの。ごめんね、先輩」
「……でも、な」
「でもじゃない。今回だけは歌恋に譲ってあげてるだけだもん。そりゃ……付き合いだしたらあたしだってきっぱり諦めるよ。でも、二人が付き合うってならない限りは諦めたくないの」
じっと琥珀色の瞳を向けたまま、林檎は小さく息を吸う。
武蔵が戸惑う暇さえもなかった。
「あたしには友達とは違った気持ちもあって、それがなかなか消えそうにないから。……ねぇ、的井先輩。迷惑……かな?」
――頼むからそんな顔、しないで欲しい。
武蔵の中に渦巻くこの気持ちは「友達」としての感情なのかも知れない。それでもやっぱり、林檎の困った顔を見るのは辛かった。
「……わかった」
一つの大きな決断をしたように、武蔵は大きく息を吸う。不安気に揺れる林檎の瞳を、武蔵はしっかりと見つめる。
「かかってこい! 俺は…………嫁を決める気持ちではっきりしっかり悩んでやる!」
「よっ、よよ、嫁ぇっ?」
「そうだ、当たり前だろう!」
狼狽する林檎を見て、武蔵は心の奥底で苦笑する。「なーにが嫁だ」と呆れる気持ちはもちろん自分の中にはあるが、最早今は恥ずかしがっている場合ではない。
「俺にこんなモテ期、もう一生起こらないだろうからな。どちらかを選ぶと言うことは、どちらかと結婚する……と言っても過言ではないと俺は思う!」
「ぃやっ、そのぉ……あのね、先輩。モテ期って言ってもあたしと歌恋の二人だけだよ?」
未だに動揺を隠せない様子の林檎に訊ねられ、武蔵はすぐに首を横に振る。二人だけとかそういう問題ではなく、だいたいモテ期もただの言葉の綾だ。
つまりは何が言いたいのかと言うと、
「林檎ちゃんもいくちゃんも良い子だってことはわかっている。だからこそ、「俺は恋愛とか興味ないから」と言って逃げたくないんだよ。どっちも諦めるとか、そんな馬鹿な選択肢は選びたくない。だから俺、ちゃんと悩みたいんだ」
多分きっと、的井武蔵という男は「キリッ」という効果音が似合いそうな程格好付けた表情をしていることだろう。そりゃあ武蔵自身も、何を格好付けているんだと思っている。でも今は、今だけは、真面目にならざるを得ないのだ。
「……ありがとう、先輩」
「お礼を言われるようなことでもないんだけどな。それに……もしかしたら、いつか林檎ちゃんのことを傷付けてしまうかも知れない」
「わかってるよ、そんなの。歌恋、手強そうだもん。でも、林檎だって負けないよ」
言いながら、林檎は一歩、武蔵に近付く。
何をされるのかと一瞬ビクビクしてしまうと、林檎はクスリと笑って両手を握ってきた。
「だから……覚悟しててね、的井先輩っ」
思い切りアピールするように、林檎はウインクをしてくる。
ずっとわかっていたつもりだった。呉崎家は美形揃いで、理人もそうだが、たまに顔を合わせたことのある両親は美男美女で年齢不詳な感じだ。
ともあれ直視できず、目を逸らしてしまう。
「っ! もしかして照れてるのっ?」
「そ……そんな訳ないだろ。林檎ちゃんはずっと友達として見てきた訳で、そんな急に照れたりなんか……」
「的井先輩が誤魔化してる。何かめずらしー」
じぃっと武蔵を見つめながら、林檎は嬉しそうに微笑む。
林檎も林檎で、最近はシリアスな表情ばかり見せていたのだ。歌恋を心配していた時もそうだが、ついさっきだって悲しい顔をさせてしまった。
今はあくまで友達としての感情ではあるが、林檎が笑ってくれるのは素直に嬉しい。今この瞬間、ようやく歌恋の問題と林檎の問題がどちらも――もちろん、恋愛的には一時的ではあるが――解決したような気がする。
「ねぇ、先輩」
「……な、何だ。悪いが、これ以上のアピールは勘弁してくれ。心が持たない」
「えー? そう言われるとなー。……でも残念ながら違うよ。あたしね、決めたの」
意地悪っぽく微笑んだのは一瞬だけだった。
まっすぐブレない瞳を向け、林檎は言い放つ。
「もう諦めたくないの。簡単に無理だって決め付けたくない」
「それは……」
話の流れ的に、恋愛的な話なのかと思った。でも何かが違う気がして、武蔵もじっと見つめ返してしまう。
「声優を目指したいってことか?」
出てきた言葉は、夢のことだった。
林檎は優しく微笑み、小さく頷く。すると何故か、武蔵の心がちくりと痛んだ。
「実は今朝、江ノ本先輩に会ったんだ」
「え、委員長にか? 顔見知り……ではなかったよな?」
「うん。昨日、あたしが的井先輩との会話を盗み聞きしてたのがバレちゃってたみたいで。それで、色々話をしたの」
どこか楽しそうに、林檎は話す。
君華は、時々教室に顔を出す林檎のことを知っていたらしい。それに、林檎の噂はクラスメイトの演劇部から聞いていて、衣装作りの評判が高いという。
「……せっかく可愛いんだから演技も見てみたいって。本当はそう思ってくれてるみたいなんだ」
決して、演劇部のみんながわざと林檎を避けている訳ではない。
林檎が演劇部で浮いてしまうのは、周りの環境が原因という訳ではないのだ。
「でも何か話しかけづらいオーラが出てるんだって、あたし」
原因はむしろ、林檎の方にある。そう理解した上で、林檎はしっかりとした声色で話している。逃げたくない。諦めたくない。そんな気持ちがひしひしと伝わってきた。
「林檎ちゃん。変なことを言うが……何か、楽しそうだな」
「だって、馬鹿みたいなんだもん。自分から心を閉ざしてるだけで、林檎のことを気にしてくれている人も実はいましたー、なんてさ。あたし……家族と的井先輩さえいれば満足だった。でも歌恋と知り合って、凄く毎日が楽しくなって、京堂先輩との問題が起きた時は歌恋が心配でたまらなくなって……」
話す林檎は生き生きとしていて、武蔵は見つめ返すので必死だった。
未だかつて、こんなにも希望に溢れた林檎の笑顔を見たことがあっただろうか。ライブに行っている時の無我夢中な笑みとはまた違った、堂々とした表情をしている。
「これって、頑張らなきゃ知らない感情だったと思うから。だからあたし、諦めない。演技の勉強もしたいし、歌も……な、なるべく上手くなりたい。でも衣装作りも好きだからやめたりしないよ。むしろ、いつかあたしが声優デビューして、やがて声優アーティストデビューしたら、自分で衣装作ってみたりとか……ふふ、してみたいなぁ」
徐々に妄想が漏れだしてくるように、林檎の笑顔はだらしないものへと変わっていく。しかし武蔵は茶化す気分にもなれなかった。
「凄いな、林檎ちゃんは。夢がハッキリしてるし、林檎ちゃんなら全部叶えられる気がしてならないって言うか」
「全然凄くないよ。凄いのは的井先輩の料理でしょ?」
当然のように聞かれ、武蔵はまた心が痛むのを感じる。きっと、苦笑してしまっていることだろう。
「それはただ、オタク的な趣味以外だと料理が好きってだけで、具体的な夢があるって訳じゃないからなぁ」
「ふぅん、そうなんだ。でも先輩って家族想いだから、保育士さんとか向いてそう」
「そ、それは随分と急な提案だな……。まぁ、俺はゆっくりと考えるよ」
力なく笑いながら、武蔵は話を逸らそうとする。
正直、今の林檎は眩しく見えた。嬉しいことのはずなのに、痛む心が邪魔をする。将来のことなど、あまり考えたことがないのだ。毎日が楽しくて家族や友人が元気ならばそれで良い。そんなスタンスで生きているものだから、夢のことを考えると頭が痛くなってしまうのだ。
「うん、それで良いと思うよ。的井先輩なら何にだってなれる気がする。林檎が保証するよ」
「なんだそりゃ。でもありがとうな、林檎ちゃん」
「うん。ところで的井先輩。あたしとデートしない?」
「…………きっ、急だな! 話の流れはどうした!」
沈み気味だった気持ちが、一気に騒ぎ出す。いやまぁ、ただ単に驚いただけではあるが、空気がガラリと変わったのは事実だ。
「だって、歌恋ばっかりずるいんだもん。駄目?」
「い、いや……まぁ、覚悟は決めたんだ。断る理由はない、な」
「……ふぅん」
林檎が不服そうにジト目でこちらを見る。もちろん、「何でそんなにも不服そうなんだ」と疑問に思う程武蔵は鈍感ではない。
この視線は多分、もっと喜んで欲しいということだろう。確かに「駄目?」と小首を傾げるのは反則的に可愛い。それはもちろん武蔵だってわかっている。――が、如何せんこういうあざといとも言えるアピールは何度も何度もされている訳で、慣れてしまったと言うか、何と言うか……。
「はぁーあ、もう良いよ。どっちにしろ林檎は諦めないし。そんなことより先輩、付き合って欲しいの」
「付き合う……?」
「うん。林檎、カラオケに行きたいの。歌、少しでも上手くなりたくてさ。だから、付き合って欲しいなって……」
正直、林檎の提案は意外だと思った。デートじゃなくても、歌の練習のためのカラオケならいくらでも付き合う。友達としてでも普通にできることだ。もっとデートっぽいことはたくさんあるはずなのに、林檎にしては遠慮がちだと思う。
「水族館とか遊園地とか、もっとデートっぽいところに行きたいって言うと思ってた。……って、思ってるんでしょ?」
「なっ……よ、よくわかったな」
「ずっと見てたもん、わかるよ。的井先輩は林檎の憧れの人で、いつの間にか友達になってて、先輩としてもたくさん頼りにしてきた。だから、ね」
少し、ほんの少しだけ、林檎は表情に苦みを含ませる。
「先輩を困らせたくない気持ちも、あたしの中に確かにあるの。だから、今はまだ少しずつで良いかなって。えへへ」
林檎は武蔵を見て、照れ笑いを浮かべる。
正直、反応に困ってしまった。困ったり悩んだりしてしまうのは仕方のないことだ。林檎も歌恋も、武蔵自身も、誰が悪いって訳ではない。
むしろ、武蔵は目一杯悩みたいと思っている。
だけど、だからこそ。
目の前の林檎に何かを伝えたい衝動に駆られてしまった。
「うわっ、もうこんな時間だったんだ。確かに真っ暗だもんね。的井先輩、今日はあたしの話に付き合ってくれて……」
鞄から携帯電話を取り出して時間を確認した林檎は、もう帰るつもりで言葉を発している。だからこそ変に焦ってしまい、心よりも言葉が前に出てしまった。
「ありがとう」
「……へっ?」
ほとんど無意識だった。多分、話の流れ的に林檎もお礼の言葉を口にしようとしていたのだろう。でも、お礼を言わなきゃいけないのはこっちの方なのだ。
「いやっ、き、急に悪い。何と言うか、言葉にしづらいんだが……。色々悩むことはある。簡単に答えなんて出せない。でもそれ以前に、幸せな状況なんだなって思ってな」
「……堅物な振りして、本当はハーレムだひゃっほい! って思ってるってこと?」
おどけた顔で訊ねてくる林檎に、武蔵は「おいおい」と突っ込みを入れる。でも確かに、堅物とまでは言わないが真面目すぎるとは思う。アニメや漫画のラブコメものは普通に楽しんで見るし、好みのヒロインだって一作品に一人いたりもする。
でもやっぱり、現実はそんなに簡単ではない。三角関係とも言えるこの状況は頭がパンクしそうになる。でも、それでも、決して忘れてはいけない気持ちが湧き上がった。
「誰かに想いを寄せられているのに、悩むだの何だのが先に出てきてどうするって話だよ。だからありがとう、だ。それから……今までずっと、恋愛には興味がないからって無視してきて悪かった」
言って、武蔵は林檎に向かって頭を下げる。
「…………」
林檎は驚いたように武蔵を見つめていた。あまりにも沈黙が長いものだから武蔵が首を傾げると、ようやく林檎は「ふふっ」と微笑む。
「やっぱり先輩は真面目だよ。だから大好きなんだけどねっ」
「う、ぐ……あ、ありがとう」
「もー、からかってごめんってば。あたしはもう満足したから帰ろ? ずっと的井先輩と二人きりだから、林檎の心臓も限界だよ」
冗談でも何でもなく、本音を零すように胸元に手を当てながら呟く林檎。やがて小さく息を吐き、自然なトーンで言い放つ。
「それに、そろそろ歌恋とバトンタッチしてあげないとね。先輩だって、本当は歌恋とじっくり話したかったでしょ?」
「……そう、だな。でも林檎ちゃんと話せて良かった。これも本音だ」
「あはは、正直者め。でも今は、あたしも同じ気持ちだよ。的井先輩と友達って思うだけで嬉しいなんて、あたしもチョロイなー」
――でも、ありがとう。
小さく囁き、林檎は去っていく。武蔵も「また明日」と手を振るが、すぐにはっとなった。家が近いとはいえ、もう暗い。ここは紳士的に送り届けなれば! と思い、慌てて林檎を追いかけた。
的井武蔵には大切な友達がいて、趣味を共有できるイベンター仲間がいる。──でも。
育田歌恋と呉崎林檎。
いずれ、どちらかとは友達と呼べなくなるだろう。
そうするためにも、武蔵はしっかりと前を向いていた。
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