1-4 理人の妹

 ――さて。


 いつまでもふわふわとしたデート気分ではいられない。ここから先はASAnASAのターンだ。歌恋には悪いがそれはそれ、これはこれ。

 何てったって武蔵にとって一番の推しであるASAnASAのライブなのだ。別のことを考えていて楽しみ切れなかった、という状態にはなりたくない。


 ちなみにASAnASAとは、ボーカルの朝瀬川あさせがわ涼花りょうかとギターの奈佐なさ朔太郎さくたろうによる音楽ユニットだ。デビューはゲーム主題歌だったが、ゲームのアニメ化がきっかけで様々なアニソンを歌うようになりアニソンアーティストとして認識されるようになった。爽快感のあるメロディーと力強いボーカルが特徴で、MCは漫才のように面白い。MCとのギャップもまた、ASAnASA好きである所以なのだ。


(MCも楽しみだなぁ)


 なんて思いながらメールを確認すると、理人から「中庭のオブジェ付近で待ってるみたいだよ」というメッセージが届いていた。「みたいだよ?」と首を傾げるものの、きっと誤字だろうと納得する。とりあえず理人はグッズを買い終えて待っているらしい。売り切れていて買えなかったという言葉がないことから、頼んだグッズはすべて買えたのかも知れない。武蔵は安心しつつも急いで会場へ向かった。


 早足になりながら約束の場所へ向かった結果、午後四時五十五分頃に辿り着く。開場時間の五分前だ。なんとか開場時間には間に合って、武蔵はほっとする。


「あっ、的井先輩! こっちこっちー」

(……ん?)


 すると、何故か自分を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。

 確かに理人は男にしては高い方の声ではあるが、まったくもって理人の声には聞こえない。でも、聞き覚えのある声ではあった。


 と、言うよりも。

 武蔵のことを「的井先輩」と呼ぶ女性など、一人しかいないのだ。


「り、林檎りんごちゃん? どうして……?」


 オブジェの下に立っていたのは、理人の一つ下の妹、呉崎林檎だった。

 呉崎家は家族揃ってオタクでイベンターだ。武蔵が理人と仲良くなったのが小学校に入学してからだから、その頃から林檎とも付き合いがある。林檎と理人と三人でライブに参加することも度々あるくらいだ。

 だからすぐに林檎だということはわかった。わかりはした……のだが。


「先輩、あたしがここにいるのが不思議でしょうがないんでしょ?」


 唖然としている武蔵を面白がっているように、林檎はニヤリと笑う。ちらりと八重歯を覗かせ、琥珀色のつり上がった瞳をこちらに向けている。


「理人はどうした、トイレにでも行ってるのか? で、林檎ちゃんは……当日券で急遽参加、とかか?」


 自分なりに考えて訊ねてみると、林檎は楽しげに首を横に振った。

 深紅色の高い位置で結ったサイドテールが揺れる。幼い頃から付けているリンゴのヘアゴムは林檎のトレードマークで、低い身長も相俟って高校一年生には見えない。林檎としては「え、それが武器でしょ?」と思っているらしいのだが、ライブで後ろの方の席になった場合は困るらしい。


 ――でも今日は三列目の神席だ、喜べ。


 という思考になったところで武蔵は眉をひそめた。その神席に林檎も座ることになるのか? 未だに状況が理解できない。


「で、どういうことなんだ?」

「兄貴、風邪引いちゃったの。昨日から調子悪そうじゃなかった? 今朝になって悪化しちゃって……。だから代わりに林檎が来たって訳、ふふん」


 林檎の説明に、武蔵は「ああ」と納得する。

 確かに昨日、ライブ前日だと言うのに理人のテンションは低かった。喉の調子が悪いとも言っていたような気がする。記憶が曖昧なのは主にデートでそわそわしていたからだろう。「理人、悪い」と武蔵は心の中でそっと謝る。


「ん? ということは物販って……」

「ふっふっふっ。兄貴から聞いて、あたしが的井先輩の分も買っといたよ! 今は色々売り切れてるけど、無事頼まれたものは買えたから」


 物販の袋を見せつけながら、林檎はドヤ顔で胸を張る。

 男の友達である理人だからあの量の物販代行を頼んだのだ。林檎は疲れた素振りを見せていないが、女の子一人に頼んでしまった罪悪感が武蔵を襲う。


「まじかぁ。悪い。ありがとうな」

「もー、そんな顔しないでよ。的井先輩のためならそのくらい余裕って言うか! むしろ的井先輩の役に立てて嬉しいって言うか!」


 さっきから林檎のテンションが異常な程に高い。いやそれは言いすぎか。でも凄く楽しそうにしていた。

 思えば、林檎と二人きりになるのは物凄く久しぶりな気がする。それには理由があり、兄である理人が引く程にシスコンだからだ。林檎が「的井先輩とライブに行きたい!」と言っても理人は許さない。もしくは理人もついて行くのがオチだった。

 しかし体調不良ばかりはどうにもならなかったのだろう。チケットを無駄にするくらいなら誰かに譲った方がマシだ。で、結果妹の林檎になった。

 ただそれだけの話。……なのだが。


 ――家族以外の男の人と出かけるの自体、初めてで……。


 という、歌恋の言葉を思い出してしまう。

 更には、


「そういえば的井先輩。今日はこの時間まで何してたのかなぁ、なんて」


 と、林檎に上目遣いで訊ねられてしまう。

 この時ばっかりは、林檎のつり目がまるで凶器のように感じられた。突き刺すような視線に、武蔵は内心ビクビクだ。


「あー。ちょっと、家族の用事があって……」


 そして、咄嗟に嘘を吐いてしまう。

 いや、実際には「嘘を吐こうとしてしまった」が正しいか。


「いや、違う。今のは違くて……だなぁ」


 歌恋に対しては「この人には嘘を吐きたくないな」と思ったのに、林檎に対しては平気で嘘を吐くのか。そんなの最低すぎるじゃないかと、武蔵は必死に言葉を探す。


「ちょっと言いづらいことで……。きっと、いつかはバレることだと思うから。今はそれで勘弁してくれないか?」


 結果的には誤魔化してしまった。でも嘘を吐くよりかはマシだろう。

 林檎も「気になるなぁ」と興味を示しながらも一応は頷いてくれた。あとは理人に、デートをことは言わないでくれと念押しすればとりあえずは大丈夫だろう。


「っと。もう開場時間だな。行くか」


 腕時計を確認すると、すでに午後五時を過ぎていた。自分達も入場列に並ぼうと動き出すと、林檎が小首を傾げる。


「あれ? 先輩、パネルは撮らなくて良いの?」


 今回のライブツアーのビジュアルに会場限定のサインとメッセージが添えられたパネルを指差す林檎を見て、武蔵は「そうだった」と納得する。

 武蔵はパネルとフラワースタンドは記念に撮りたい派の人間だ。あまりに開場時間ギリギリに着いてしまったものだから忘れるところだった。


「ああ、そうだな。撮っとくか。フラワースタンドは……」

「ええっとぉ……」

「……?」

「会場の中だと、思いますよ?」

「どうした急に敬語なんて」


 突然の林檎のキャラ崩壊に、武蔵は目を剥く。

 林檎とは長い付き合いだ。小・中・高と同じ学校で「的井先輩」と呼ばれているが、昔からため口で話している。武蔵としても今更気にすることでもない……と言うか、本当にどうして急に気になったのだろう。


「な、何か。改めて二人きりになったら、あれ? ため口で良いんだっけ? ってなって……。兄貴が一緒にいると全然気にせず話すんだけど」

「……なるほど、な……」


 林檎の発する「二人きり」というワードに、武蔵は思わず渋い表情になる。デートが終わったら理人と気兼ねなくライブを楽しめると思っていたのに。理人じゃなくて林檎だとわかった瞬間も、普通にはっちゃけられると思っていたはずなのに。

 変に心がもやもやする。

 せっかく楽しみにしていたライブなのに。「早く心を切り替えなくては」という気持ちでいっぱいになってしまう武蔵だった。



 パネルを撮ってから入場して、今度はフラワースタンドをいくつか撮って、ようやく席に着く。そこで武蔵は重大な事実に気が付いた。

 これもまた、相手が理人ならまったく気にならなかったことだった。


「えっ? こここ、これ、何かまるで映画館のカップルシートみたいな……!」


 林檎が興奮気味に声を荒げる。

 どうやら林檎は、言ってしまってから自分の声のボリュームが大きいことに気付いたらしい。両手で口元を塞いで「てへっ」とわざとらしく笑う。

 実は、林檎の言うカップルシートはあながち間違いではないのだ。

 三列目ではあるものの、一・二列目はなく実質最前列だ。というのも、左右の端の席は斜めになっていて、三列目は二席、四列目は四席、五列目は五席――というように、十列目辺りまでは徐々に席数が増えていく仕様になっている。

 で、武蔵と林檎の席は右端の三列目。つまり、二つの席が仲良く並んでいる席なのだ。


「ちょ、ちょっと先輩ぃ。そんな微妙な表情しないでよ。何かショック……」

「あぁ、すまん。ちょっと色々あってな……」

「色々?」


 思わず遠い目になる武蔵に、林檎は首を傾げる。でもそれ以上は聞いてこなかった。そんな林檎に感謝しつつも、武蔵は「こんな態度じゃいけない」と思う。林檎は確か、理人よりはASAnASA好きのイメージはない。元々参加する予定じゃなかったライブに付き合ってくれているのだ。


 もっとテンションが上げなければ。と言うよりも、これはASAnASAを布教するチャンスなのだ。武蔵はとりあえず物販の袋の中身を確認し始める。すると、何故か林檎の口角が嬉しそうにつり上がった。


「頼まれたもの、全部あるでしょ? Tシャツとマフラータオルがリストになかったのが意外だったんだけど」

「それはもう事前通販で買ってあるんだよ。Tシャツが通販限定のデザインがあって、マフラータオルと一緒に買っといたんだ」


 言いながら、武蔵は来ていたパーカーを脱ぐ。

 そこに堂々と現れる、通販限定の黒Tシャツ。歌恋といる時も実はパーカーの下にライブTシャツを着ていた……なんて。今思うと罪悪感でいっぱいだが、着替えている暇がないかも知れないと思って着て来てしまったのだ。


「うわぁ、さすがガチ勢。でもあたしもTシャツとタオル買ったよ。ほら!」


 マフラータオルを片手に、じゃーんと両手を広げるポーズをする林檎。マフラータオルは一種類だけだから武蔵のものと同じデザインだが、Tシャツは赤地のポップなデザインだ。白いレースのスカートも相俟って、可愛らしい印象がある。


「おぉ、やっぱり赤Tか。林檎ちゃんは赤ってイメージだもんな。うん、似合ってるんじゃないか?」

「え~。的井先輩が褒めるなんて珍しい。な、何か林檎、恥ずかしいんだけど」


 武蔵としては何気なく褒めたつもりだったが、林檎は全力で顔をニヤけさせている。テンションが高い時の林檎は一人称が「林檎」になるため、相当嬉しいのだろう。


「理人がいたら「やめろやめろ」って俺が睨まれてるところだったな……」

「ほんっと、あのくそ兄貴がいなくて良かった」


 今頃、理人はベッドの中でくしゃみをしているだろうか? なんて思いながら、武蔵は苦笑する。酷い言われようだが、こればっかりは仕方がないと思った。普段からシスコンすぎる行動をしてしまう理人が悪いのだ。


「あとはリストバンドくらいしか買ってないんだ。ほら、来週あたしの本命があるからさ。あーあ、来週も的井先輩と連番だったらなー」


 小さくため息を吐く林檎。

 武蔵と林檎には来週もライブの予定があるのだが、二人で連番する訳ではない。林檎と理人と二連番で、武蔵もまた別の人と連番でチケットを取っているのだ。


「ああそうか。俺も林檎ちゃんも二週連続でライブに行くことになるんだな。……って、んん……?」


 武蔵の頼んだものとは違うカラーのリストバンドを付けている林檎を横目で見ながら、武蔵はグッズを探る。パンフレット、ポスター、リストバンド、ペンライト、マグボトル、トートバッグ、缶バッジセット。頼んだものはすべてある。

 が、しかし。頼んだもの以上のものがあるのだ。


「これ林檎ちゃんのじゃないか? 確かに買おうか悩んだが、頼んでないと思うぞ」


 入っていたのはタイアップをしたアニメとコラボをしたキーホルダーだ。ASAnASAのキーホルダーは前回のツアーグッズのものを持っているし、他のアーティストグッズでもキーホルダーはよく買っている。つまり、新しくキーホルダーを買っても付ける場所がないのだ。

 だから今回は良いや、と思っていたのだが。


「あっ、やっと見つけたんだ。それ、あたしからのプレゼントだよ」

「……え?」

「ふふん、的井先輩驚いてる。誕生日おめでとうございますっ、先輩!」


 得意気に微笑みながら、林檎は武蔵の顔を覗き込む。ふわりと甘い香りがした、ような気がした。そんな錯覚が襲ってしまう程、林檎との距離が近い。ただでさえ隣同士の席で時々肩と肩が触れ合ってしまうというのに。今日の林檎はいつも以上に遠慮がないように感じる。


「あ……ああ! ありがとうな、林檎ちゃん!」


 通路に囲まれた席なのは幸いだった。

 武蔵は思い切り身体を逸らして林檎から逃げる。もちろん、嬉しいことには嬉しいのだ。今まで呉崎家に招待してもらって誕生日パーティーを開くことはあっても、林檎個人からプレゼントをもらうことはなかった。


 だから、嬉しい。でも、それ以上の感情――例えば鼻の下を伸ばしたりとか――はあってはいけないと咄嗟に思った。あくまで林檎は友達の妹だ。それ以上でも以下でもない。趣味第一で恋愛は二の次だった武蔵は、今までそう思って過ごしてきた。

 それに――歌恋のことが頭をよぎる。もしここで照れてしまったら、と思うと心が痛んで仕方ないのだ。


「はぁーあ。的井先輩、もうちょっとデレてくれたって良いのに。つまんないの」


 林檎は顔を近付かせるのをやめ、不貞腐れている。唇を尖らせ、ジト目でこちらを見るという、明らかな不満の主張。


「ちっ。兄貴がいなかったら少しは近付けると思ったんだけどな」


 更にはわざとらしい舌打ちをして、ぼそりと呟いてきた。

 武蔵は気付かない振りをして、笑顔を張り付かせる。


「で、でも本当にありがとうな、林檎ちゃん。プレゼントもだけど、今日付き合ってくれてさ。林檎ちゃんって、俺達程ASAnASAのファンじゃないだろ?」

「あっ、そうそう。それなんだけど」


 武蔵の言葉で、何故か林檎の表情がころりと変わった。鞄から物販の袋を取り出し、一枚のCDを見せてくる。


「これ、買っちゃった」

「おぉ、ベストアルバムか。……あれ、でも理人がそれ持ってたような」

「まぁね。でもこれバージョン違いだから、DVDの内容が違うはずだよ。だから良いの。って言うか、兄貴から借りた音源だけじゃなくて、自分でも欲しくなったの」


 楽しそうに微笑みながら、林檎はアルバムを見つめている。

 その発言と表情は、正直ASAnASAファンとして嬉しくて仕方がない。


「兄貴がファンだから、音源自体はある訳じゃん? だから物販並んでる間ずっと聴いてたんだけど、結構ノンタイでも格好良い曲いっぱいあるんだね。あたしアニタイの曲しかちゃんと聴いたことなかったからさ」

「おう、それで?」

「うわーお、凄い食い付きっぷり。だからまぁ、あたしもファンになろっかなって。CD特典でポストカードも付いてきたんだよ。複製サイン入りの!」


 言いながら、林檎は自慢げにポストカードを見せつけてくる。しかし、武蔵が何か反応する前にささっと引っ込めてしまった。

 ニヤリ、と林檎は楽しそうに笑う。


「でもこれはあげないよ! これはあたしの、ファンになった記念に取っておくんだから。ふふん、残念でした!」


 林檎は、付き合ってくれるどころかライブを楽しみ気満々でいるのだ。

 心の底からの笑顔に、武蔵はやっぱり嬉しい気持ちでいっぱいになる。


 ――と、同時に。


 武蔵は気付いてしまった。


「はー、もうすぐ開演時間だね。楽しみだなぁ。推しが増えるのって嬉しいことだし、それに……今日は大好きな的井先輩と一緒だし」


 ずっと前から、林檎は武蔵に好意を抱いてくれている。

 理人のシスコンガードだったり、武蔵自身が恋愛に興味がなかったりで、今までちゃんと考えたことがなかった。でも林檎は今でも当たり前に「大好きな的井先輩」とか言ってくる。自分はそれを無視し続けていたということだ。


「……そうだな、楽しみだ。あぁそうだ、電源切らないとな」


 武蔵は一人、独り言のように呟き、携帯電話の電源を切る。自然と声は弱々しくなってしまった。まるで全然楽しみじゃなさそうな声色だ。

 咄嗟に、心の中で「いかんいかん」と首を振る。


 それはそれ、これはこれ、だ。今はライブと関係ないことで悩んでいる場合ではない。林檎がこんなにも楽しそうにしてくれているのだ。自分が浮かない顔をしていては、それこそ申し訳がない。

 だから武蔵は、笑顔を張り付ける。


「今日は林檎ちゃんがASAnASA推しになる記念の日だからな。俺も何か、色んな意味で楽しみになってきた」


 あくまでイベンター仲間としての話題を振る。

 これは逃げの行為なのかも知れない。それはわかっているけれど、今から向き合えっていうのも無理な話だ。だからこれは仕方がないことなのだと、自分に言い聞かせる。


「えー何それ。確かにアルバムは買ったけど、推しになるの決定? ……まぁ、ワンマンライブに参加したら必然的にファンになっちゃうよね。そしたら今度は、今日みたいな代理じゃなくて、最初から的井先輩と二連番で……むふふ」


 しかし相変わらず林檎は攻め攻めだった。理人がいない時の林檎は遠慮を知らない。嬉しそうにニヤニヤと笑う林檎を見て、武蔵は思わず苦笑してしまう。


 ――まさか自分が、こんなことで悩む日が来るなんて。


 今武蔵は、贅沢な悩みに直面しているのかも知れない。

 でも、胃がキリキリしてたまらなかった。

 もうすぐライブが始まるドキドキと、慣れない悩みによるキリキリ。

 今はライブに集中しろ! という気持ちと、ちゃんと考えろよ! という気持ち。

 正直、ライブが始まる直前の心境ではないな、と思った。様々な感情が混ざり合って、最早意味がわからない。

 始まってしまえば身体は勝手に動く。ペンライトを片手に、曲によって色を変えつつ、タオルを振る曲もあったりして……。

 だから大丈夫だ。今は楽しもう。

 武蔵は自分に言い聞かせて、ライブが開演するまでの時間を過ごすのであった。



 ――そして、約三時間後。

 ライブが終演し、武蔵と林檎は会場の外に出る。外はもちろん暗いけれど、口々にライブの感想を漏らしている人達がまだ周りにいるため、まだライブ中の楽しい気持ちは残りつつある。

 武蔵は乗り切った。いや、乗り切ったというよりも普通に楽しんだ、と言った方が良いだろう。やはりライブの力というのは恐ろしいもので、ただただ無我夢中で時間が過ぎていくのだ。横を向けば林檎がいるけれど、悩みが押し寄せてくるというよりも楽しんでくれて嬉しいという気持ちが勝ってくれた。

 しかし、


「ありがとうな、林檎ちゃん。また次の現場でな」

「うん、そうだねー、また来週……。あーあ、あっという間だったなー。……でも、今日は的井先輩を独り占めできて嬉しかったよっ。じゃあね、先輩!」


 林檎の発言により、ライブ中の魔法も完全に解けてしまった。上目遣いでウインクを放ってくる林檎のあざとさ満載の攻撃に、武蔵は思いっきりうろたえる。


「うぐ……ぉおう、じゃあな」


 わかりやすい武蔵の反応を見て満足したのか、林檎は笑顔で去っていく。残された武蔵だけが、複雑な心境で小さくなっていく林檎の後ろ姿を見つめ続けた。


 ――この問題は、早めに解決すべきだろうか。……いや、でもどうしたら。


 再び現実が襲ってきて、武蔵は顔を引きつらせるのであった。

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