第47話 お約束の触手回

 二人は一瞬互いに顔を見合わせて、それから水中へと目をやった。

 真っ暗な水面に映るものは何もない。


(!?)


 ふと振り返ると、二人の背後に大きなさざ波が立っていた。

 さざ波は徐々に大きくなる。

 ただの水の流れや風のせいでないことは明らかだった。


「あ、アンジュ、」

「姫様、落ち着いてください。落ち着いて。合図したら、全力で前方にバタ足してください」

「わ、わかった。落ち着いてだな。よし、いつでも来い」

「せぇの!」


 安樹の合図で二人は、狂ったように足を動かして木箱を前進させた。


「どうしたんじゃ。おまえら?」

「この水路の中、何かいます! 何か大きな化物です!」

「じいさん、急げ!」


 必死の形相の二人を、イズナと田常は鼻で笑った。


「まさか」

「そんなバカなことあるはずがなかろう。ここは湧き水の水路じゃぞ」


 ところが、安樹たちの後ろを大きな波が追いかけてくる。

 やがて馬ほどの大きさをした細長い岩塊が水の下から顔を出した。


「なんなんじゃ、あれは!?」


 現れたのは、どうやら岩ではなく生き物らしい。

 その証拠に、顔とおぼしき部分から無数の細かいヒゲのような触手が出てうねうねと蠢いている。


「これは! ブドーと呼ばれる沼エビの一種です! 水路の浄化のために飼われていると聞いていましたけれど、まさかこんなに大きいなんて……でも安心してください。ブドーは本来おとなしく、人に危害を加えるような生き物ではありません」


 イズナの言葉に、リルは悲鳴に近い叫びで異議を唱えた。


「ホントにおとなしいのか? そんな話、カギューの時にも聞いた気がするぞ!」 


 その叫び声に反応してか、化け物はリル目掛けて突進してきた。


「ちょ、ちょっと、こっちくんな! バカやろう!」


 麦わらのような細い触手がリルの身体を絡め取る。

 陸の上では無類の強さを誇るキヤトの赤き狼も、自由のきかない水の上では化け物のなすがままだった。

 彼女のむき出しになった肌の上を、無数の触手がまるで刷毛でなでるように弄りはじめる。


「や、やめろぁ!」


 痛いわけではない。ただ、ゾクリとするような鋭い感覚がリルを包む。

 やがて触手は、彼女の衣服の中へと侵入を開始した。


「……やめて……くれ」

「姫様!」


 あわてて安樹が助けに入る。

 手にしたノミで触手を切り払うと、リルの身体を腕に抱き寄せた。


「安樹、嬢ちゃん、頑張れ。出口はもうすぐじゃぞ」


 田常が二人を勇気づける。

 既に夜は明けているらしく、老盾作りの指した先は朝日に照らされて金色に輝いていた。


「姫様、もう少しです!」


 リルを抱えたまま、安樹は泳ぎだす。

 だが、一行の行く手にまたさざ波がたった。

 その数、三つ。

 盛り上がった水面から、三匹のエビの化物が顔を出した。


「ダメだ。じっちゃん、こっちにもブドーがっ! 囲まれてる!」

「ちぃっ、あと一歩じゃというのに」


 ブドーたちは大きな身体に似合わない素早い泳ぎで四人に近づくと、触手を伸ばしはじめた。

 毛羽立った竹箒のようなその枝は、わき目もふらずリルに向かって襲い掛かってくる。


「こいつら、なんで姫様を!」


 安樹とリルは必死に触手を振り払うけれど、水の中ではやはりブドーのほうが一枚上手だ。

 たちまち、たくさんの触手がリルの肌を嘗め回しはじめる。


「や、やだ、きもち・・・・・・わるい。アンジュ、助けて」

「姫様、気を確かに」

「ああっ、ダメ。もう……やめて、お願いだから」


 リルは、触手のおぞましい感触と刺激に息も絶え絶えになっていた。

 吐息と一緒に吐き出した水が泡になって口の端を流れる。


「田常様、いったん水路から出ましょう。こっちに抜け道があります」


 イズナが水路の壁に開いた小さな穴を指差した。

 水面よりやや上に、ようやく人一人が通れるくらいの通路が開いている。


 ブドーは図体の大きなエビの化物だが、リルに触手を絡めてくるだけでハサミのような凶器で攻撃してくるわけではない。

 大人しいという評判からしても、陸に上がればもう襲ってこないだろう。


 田常とイズナが穴に近寄る。

 リルを連れた安樹が続こうとするが、触手に絡み取られたリルの身体は思うように動くことが出来なかった。


「あ、あっ、……あんじゅ、わらし……もう……ダメかも」


 そうしている間にも、ブドーたちの触手はリルの身体をまさぐり続けている。

 その何本かはすでに彼女の肌着の奥まで入り込んで、上半身下半身となく桃色に上気した肌をもてあそんでいた。


「……ダメ、ダメ、ダメーッ!」


 リルの悲鳴が水路に響く。

 肌も露わに悶えるリルの痴態に、安樹は思わず息を呑み、それから大きく頭を振った。


「なんだって姫様ばかり……そうか、もしかして馬の脂?! イズナさん、馬の脂の軟膏を下さい!」

「えっ? 何?」

「こいつら、水路の汚れを食べてるんでしょう。きっと、姫様の身体に塗った脂を狙ってるんです」


 安樹は、イズナから馬の脂の壷を受け取ると水路に向かって投げ込んだ。

 するとリルの身体に取り付いていたブドーたちの触手が、今度は水路に落ちた軟膏壷に向かい始める。


「よし、今のうちじゃ! 抜け穴に飛び込め!」

「下り斜面になっているようです。私が先に行きます」


 イズナが横穴に入ると、滑るように姿が見えなくなった。すぐに田常もその後を追う。


「姫様、行きますよ!」


 安樹は半ば失神状態のリルを水路の上に押し上げた。

 抜け穴の中は滑り台のようになっていて、更に地下へと下っているようだ。

 リルと木の鞄をギュッと抱えて飛び込む。二人の身体は、暗い暗い闇の中を猛スピードで滑り降りていった。


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