第21話 キヤト族の追手
安樹とリルがオルド・バリクを出て、三日が過ぎた。
モンゴルの草原は、やがて砂漠へと姿を変えていった。
砂漠といっても、中央アジアのそれは北アフリカにあるような砂の海ではなく、ごつごつした岩場の目立つ荒れ野原というほうが近い。こんなところにもキャラバンの往来はあるようで、岩場の中に一筋の道が続いていた。
安樹は、地図をながめて言った。
「思ったほど来ていませんね。砂漠の入り口は、予定であれば昨日の朝に通過しているはずだったのに」
リルは少し困った顔になる。
「そうだな。でもまあ焦ることはないだろう」
それを聞いて、安樹ははじめて足手まといになっているのが自分だということに気がついた。
当初の予定、一刻五十里というのは馬に慣れたキヤト族での話なのだ。
当然ながら、リルは安樹の馬が遅いことに気がついていただろう。
それでも黙っていてくれたのだ。
(私が頑張らなければ)
安樹は、ぐっと唇をかみしめた。
しかし、砂漠に入ってからの道行きはそんな精神論ではどうにもならないほど困難を極めた。
ちょっとしたはずみで、馬が砂や岩に足を取られて動けなくなってしまう。
安樹が二度目の落馬をしたところで、二人は安樹が一人で馬に乗るのをあきらめ、リルの馬の後ろに安樹を乗せることにした。
速度は出なくなるけれど、その方が結果的には早いというリルの判断だ。
安樹の馬は途中の村で食料と水にかわった。
安樹はリルの腰に手を回すと深くうなだれた。
「姫様、すみません」
「何言ってるんだ。おまえの馬の扱いが悪いのは昔からだろう」
砂漠の気候は厳しい。
昼は暑く、日が暮れると極端に寒くなる。
リルにとっては自分の庭にも等しい土地柄だけれど、慣れない安樹にはつらい旅だった。
二日が過ぎた。
まだ、砂漠は続いている。
リルが頻繁に後ろの方を振り返るようになった。
何があるのかと、安樹も後ろに目をやる。
しかし、後方に広がっているのは今まで旅してきた無人の荒地だけだ。
「どうしたんですか」
安樹がたずねると、リルは言葉少なに答えた。
「地平線に土煙が立っているのがみえるだろ。追っ手だ」
驚いてもう一度振り返る。
けれど、地平線は強い日差しを受けて揺らめいているだけだった。
「煙の量からして、百騎くらいだな」
キヤト族の視力は漢族とはくらべものにならない。
百騎の追っ手と聞いて安樹の顔色はみるみる青ざめた。
だが、リルは平然としている。
「たった百騎じゃ、ただの偵察だろう」
「こちらに気がついているのでしょうか」
「どうもそうらしい。さっきから見てると一直線にこっちに近づいてくる。前の村で私たちのことを聞きつけたようだ。こんなことなら、村人は皆殺しにしておくんだったな」
「えっ!?」
安樹が驚くのをみてリルは笑顔になった。
「冗談に決まってるだろう」
しかし、そう言った彼女の目はまったく笑っていなかった。
リルは馬の速度を少し上げた。
無理に急ぐことはできない。ただでさえ二人乗りで負担が多くなっているのだ。馬がつぶれてしまう。
じりじりした時間を安樹は過ごした。
午後になると、安樹の目で見ても追ってくる騎馬の姿が見えるようになっていた。
リルの予想どおりその数は百騎近い。
すでにリルの目には、兵士一人一人の表情まで見えているようだった。
「そろそろ来るな」
リルがつぶやいた。
「来るって、何がです」
「この距離ならキヤト族の弓は届く」
「射ってくるでしょうか、姫様を相手に」
「さあな」
突然、追っ手の騎馬隊から叫び声が聞こえた。
まだ一里ほど距離はあるが、キヤト族には離れた距離で会話を交わすための独特の発声法がある。
追っ手の隊長は言った。
「リルディル様、今ならばまだ間に合います。お戻りください」
リルは無言でたずなを握っている。
追っ手との距離はさらに狭まった。再び、追っ手からの叫びが聞こえた。
「偉大なるハーン様からは、生死を問わずリルディル様を連れ帰るようにとの命令を受けています。ですが、我々はあなたを討ちたくありません」
リルはこれにも返答をせず、安樹に言った。
「盾の準備をしておけ。こっちはおまえの得意技だろう」
「もちろんです」
安樹は、これだけはと大事に持ってきた盾を馬から外し、しっかりと握りしめた。
作ったばかりの最強の盾だ。
鉄砲からリルを守るために作ったものだけれど、弓矢の防御にも絶対の自信がある。
追っ手から三度目の叫びが聞こえた。
今度は意味のある言葉ではない。
「なんです、あの声は?」
安樹が聞くのと同時に、多数の矢が空を切って飛んできた。
安樹は急いで盾を構える。
「攻撃の合図だ」
今度はリルの答えと同時に数十本の矢がふりそそいだ。
まだ距離が遠いためか、ほとんどの矢が的を大きく外しており、盾の出番はなかった。
「ヤツら本気だな。すぐに二射目が来るぞ」
「矢ならばこの盾で防げます。このまま真っ直ぐ進んでください」
「よし、わかった」
続く二射目は最初よりは正確に飛んできた。
数本が二人の馬に近づく。安樹は盾でそれを弾き飛ばした。
矢を受けても安樹の盾はかすり傷一つ負っていない。
そこから先は、五月雨式に矢が射かけられてきた。
キヤト族の兵士には弓自慢が多い。彼らは数を撃つごとに狙いを調整しているようだった。
安樹はリルの後ろにつかまりながら、必死で盾を構えた。
安樹の盾はキヤト族の矢を完全に防いでいた。
しかし、弓矢による攻撃が有効でないとわかっても、キヤト族の騎馬隊は射撃をやめようとしない。
二人の乗った馬は、恐怖のためか自ら速度を上げていた。
おかげで追っ手との距離は縮まらないが、その走りが長続きしないことは素人の安樹にも察しがつく。
戦いに不慣れな安樹を焦りが襲った。
百騎の騎馬に追いつかれれば、例えリルといえども勝負にならないだろう。
なにしろ、こちらには刀一本の武器もない。
(彼らに投降しよう。そうすれば、私はともかく姫様の命まではとられまい)
安樹は意を決してリルに声をかけた。
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