第22話 ゴビ砂漠無情、生皮剥がし大作戦
「……姫様」
安樹の声にリルが振り返る。
振り返った姫君の表情を見て安樹は驚いた。
彼女は、笑っていた。
「アンジュ、楽しいな」
上ずった声でリルは言った。
「私はこれまでキヤトのために戦ってきた。でも、今は私たち二人のためだけに戦っている。そしてこの方がずっと戦い甲斐がある。死ぬも生きるも、アンジュ、おまえと一緒だ」
「姫様、しかし」
「戦いのことは私に任せろ。私を誰だと思っている、キヤトの赤き狼だぞ。いや、違うな。キヤトの赤き狼はもう死んだ。今日から私は、アンジュ、おまえの赤き狼だ」
そう叫ぶと、リルは馬を止めた。
そして安樹と荷物を馬から下し、安樹の盾だけを手に取る。
「いつもながら良い盾だ。借りるぞ」
「はい、姫様のために作りました。しかし一体どうなさるおつもりなのです。戦うにしたって武器もないのに」
「まあ見ていろ。おまえの妻になるのがどんな女か教えてやろう。この程度の人数は、赤き狼の敵ではない」
リルは馬を反転させると、追っ手の騎馬隊にむかって全速力で駆け出した。
重い荷を解かれた馬は、今までの歩みが嘘のように鋭い走りをみせる。
突然のリルの針路変更に追っ手たちは浮き足立ったようだ。放物線を描いて飛ぶ強弓は、素早く距離をつめてくる相手には不向きでもある。
ふりそそぐ矢をかいくぐって、リルの乗った馬は騎馬隊に接近した。
キヤトの兵士は弓を捨てて得物を円月刀に切り替える。
しかし幾人かの兵士は、これまで勝利の女神とあがめていたリルを相手に剣を抜くことができなかった。
そんな兵士たちを隊長が叱咤する。
「手ぶらで帰れば、偉大なるハーン様にどんな仕置きをされるかわからんのだぞ!命が惜しくば、迷いは捨てよ!」
そう叫んで振り返った瞬間のことだった。
隊長の眼前に何かが飛び込んできた。
リルが、自らの馬から跳躍して隊長の馬に飛び移ったのだ。リルは手にした盾で隊長の頭部を横殴りにすると、走っている馬の上で仁王立ちになる。
そして、なかば気を失っていた隊長の髪の毛をむんずとつかんで目を覚まさせ、口から泡を吹いている隊長にむかって言った。
「おまえ、この私に情けをかけるとは、ずいぶん偉くなったな!」
「いえ、その」
「なんという作戦だ」
「……はい?」
「私を捕まえる作戦に、どんな名前がついているのかと聞いている。元ではあるがキヤト族の万人隊長を相手にしようというのだ、さぞかし素晴らしい名前がついているのだろう」
リルは、馬上に立ったままで隊長の首を締め上げる。隊長は苦しげにもがいた。
「いえ、別に、作戦の名前などは」
「何! 名前がないというのか!」
リルの執拗な追求に隊長は力なく首を縦に振ると、そのまま白目をむいて気を失ってしまった。
「赤い狼もなめられたものだ。おい、おまえら!」
リルは叫んだ。
「その足りない頭でよぉく考えてみろ! 本当に怖いのはどっちだ! 偉大なるハーン様か? 確かにあいつはおまえらの首を刎ねるかもしれん。だが、それはずいぶん優しい仕打ちだな。この赤き狼は、そんな風に楽には死なせてやらんぞ。今から私が作戦に名前をつけてやる!」
そう言うとリルは隊長の体を馬から投げ捨てて、今度は別の騎馬にむかって突進した。
馬上の兵士はあわてて刀を振ろうとするが、軽々とかわされ馬に飛び乗られてしまう。
刀を持つ手を足で踏みつけられ、兵士は苦悶の表情を浮かべた。
「獅子の檻で浮かれる小ねずみは自らの運命を知らない、『ゴビ砂漠無情、生皮剥がし大作戦』! これはもちろん、この赤き狼が哀れなおまえたちを最後の一人までなぶり殺しにする作戦だ!」
安樹はリルの戦いぶりをただ呆然とながめていた。
しかし、それはすでに戦いとは呼べなかったかもしれない。騎馬隊の兵士たちはすでに戦う気力をなくしていた。そんな兵士たちを相手に、ただリルだけが一方的に襲いかかっていく。赤き狼の攻撃は兵士が落馬するまで続いた。
とうとう残った兵士たちは自らすすんで馬をおり、徒歩で敗走しはじめた。
「帰って父様に伝えろ。私を捕らえられる兵士などキヤトにはいない。それは父様が一番よく知っているはずだ。私に割く兵があるのなら、とっとと金帝国を、南宋を滅ぼすように。大陸制覇の悲願、陰ながらお祈り申しておりますとな」
リルは逃げていくキヤト兵の背中にそう叫び、ゆっくりと安樹の所へ戻ってきた。
あれだけの痛手を与えておきながら、追っ手の騎馬隊には一人の死者も出ていないようだ。馬にいたっては傷一つ与えていない。
「待たせたな」
リルは安樹の呆けた顔をみてニッコリ微笑むと、一人勝ちどきを上げた。
「『ゴビ砂漠無情、生皮剥がし大作戦』大成功! 我らの勝利だ!」
それから、リルと安樹は再び南へと出発した。
二人を乗せた馬は、またゆっくりとした歩みに戻っている。
そこから先、二人を追うものの姿は安樹にもリルにさえもみつけられなかった。
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