第20話  逃避行のはじまり

 シャンバラは、幻といわれた地図にない謎の国である。


 いつの頃からだろう。


 東西貿易を営む商人たちの間には、大陸のどこかに「シャンバラ」という国が存在するという伝説があった。


 その謎の国は周囲の国々と関わり合いを断ち、外交はおろか交易すらも行っていないのだという。


 伝説によると、シャンバラ人は魔術師や異民族の末裔で見たこともない武器や魔術を使うのだそうだ。その他にも、魔物や妖怪が住んでいるとか、空を飛ぶ船をもっているとか、にわかには信じられない逸話が数多く伝えられていた。


 しかし、今はその不気味さが、キヤト族という強大な追っ手から二人を守る盾となってくれるかもしれない。


 夜の闇の中を、安樹とリルの乗った二頭の馬はシャンバラがあるという南を目指して飛ぶように走った。

 


 朝になって、二人はオアシスの村にたどりついた。

 そこで食料と水を調達する。

 木陰で、安樹は持ってきた地図を広げた。


「シャンバラの場所は地図にはないんだろ?」


 リルが覗き込んでくる。


「この地図は特別です」


 安樹の地図は、五年前に田常から託されたものだ。

 釈放される人間の入れ替わりが急だったので、地図だけは安樹の手許に残っていた。


 それによると、シャンバラはオルド・バリクから約千里ほど行った所にある。


 まずモンゴル平原を南へ五百里。 次にゴビ砂漠を南西に五百里。

 すると周囲を高い山脈に囲まれた盆地帯があって、シャンバラはその盆地の中に隠れるようにひっそりと存在していた。


「地図にある、この線はなんなんだ」


 リルが地図を覗き込みながら指をさした。

 そこには砂漠地帯とシャンバラとを分けるように太い線が引かれている。


「おそらく、国境という意味だと思うんですが」


 安樹は首をかしげた。


「とにかく、この線の所まで行けば、そこはもうシャンバラ領内と考えていいでしょう」

「キヤトの馬は、一刻に五十里を走ることができる。でも、続けて走れるのは二刻までだな。それ以上は馬がつぶれる。朝二刻、夕二刻。それが限界だ」

「そう考えると、シャンバラまでざっと五日ですね。追っ手が来ると思いますか?」


 安樹がたずねる。リルは北の草原を振り返って答えた。


「父様はネチっこいからな。私たちが逃げたと知れば、血相変えて兵士たちに行方を捜させるだろうさ。キヤト族が本気で急ぐときは、代えの馬を連れて馬をつぶしながら全力で駆けさせる。そうすれば一日千里を走ることだってできないわけじゃない」

「一日で、千里ですか」


 安樹の顔が曇るのをみて、リルはその背中をバシンと叩いた。


「そう心配するな。父様はまさか私たちがシャンバラを目指しているとは思うまい。キヤトのものたちが気づくころには、もうシャンバラに着いているはずだ」


 リルに励まされて、安樹は気を取り直す。


「そうですよね。それに私たちが駆け落ちしたことがハーン様にばれるまで、まだしばらく時間がかかるはずですし」


 すると今度は、リルの表情が暗くなった。安樹がそれに気づいて尋ねる。


「どうしたんです。変な顔をして」

「ははは、オルド・バリクから出て来る時にさ、いい気味だと思って父様に手紙を残したんだ」

「……なんて書いた手紙です?」


 安樹がおそるるおそる聞くと、リルもおそるおそる答えを返した。


「『アンタの言う通りにはもうしない。そんなにケレイト族が大事ならアンタが嫁に行け』って」


 ボドンチャルが駆け落ちに気づくのが早ければ早いほど、追っ手に捕まる可能性も大きくなる。

 リルが残した手紙は二人にとって大きな危険因子だった。

 しかし、今の安樹とリルはそんな未来の危険よりも、二人きりでいる現在の幸せに心を奪われていた。


「……ハーン様が……花嫁に、プププ、ダメです、想像してしまいました」


 リルから手紙の内容を聞いた安樹は、思わず吹き出してしまった。それに釣られてリルも笑った。


「や、やめろよ、アノ顔で花嫁衣裳を着るのか」

「クックックッ、苦しい、笑い死ぬぅ」


 二人の笑い声が、雲ひとつない青空に響き渡る。

 このときはまだ、安樹にもリルにも過酷な旅の行方は見えていなかった。

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