第19話 幻の国《シャンバラ》へ
その夜、リルは厩舎を訪ねた。
厩舎番は、リルを見ると深々と頭を下げた。夜遅くであっても、馬好きの彼女がここを訪れるのは珍しいことではない。
けれど、その夜にリルが厩舎番に出した注文はいつもと違っていた。
「馬を用意してくれ。長旅に耐えられる強い馬を」
「千里風(せんりふう)では、ありませんのですか?」
厩舎番は首を傾げる。
千里風というのは、リルの愛馬だった。
千里を休まず駆け続けるという意味で、昔から名馬に好んでつけられる名前だ。
リルの千里風は、その能力もさることながら、全身が真っ白で一点の染みもない非常に美しい馬だった。
戦場で白馬を駆るリルの姿は、絶対無敵の勝利の女神として兵士たちからほとんど偶像視されていた。
「千里は置いていく。偵察が目的だから目立たぬ馬が良い」
それを聞いた厩舎番はひとり得心した顔になった。
「シギ様からうかがっております。今夜半、シャンバラへの偵察用に馬を二頭用意しておくようにと」
「シギが?」
厩舎番の話を聞いて、リルは怪訝な顔になった。
シャンバラへの偵察などリルは聞いていない。
もちろんシギは軍師なので、リルの承諾を得ずに偵察を派遣するくらいの権限は持っている。
しかし、次の戦は金帝国が相手とすでに軍議で決められていた。
シャンバラ侵攻がいつになるかは、全くの白紙状態だ。
というのもボドンチャルがシャンバラ攻めに二の足を踏んでいるからだった。
口にこそ出さないが、やはり鉄砲という得体の知れない武器には偉大なるハーンといえども怖れがあるのだろうと周囲のものは噂をしていた。
それはともかく、今の時点でシャンバラに偵察を送る理由はどこにもない。
リルはしばらく考えた後で、厩舎番に命令を下した。
「その偵察用の馬を出せ。それから、シギに伝えておいてくれ。ここは一つ借りておくとな」
「仰せの通りに」
「念のために言っておくが、この偵察は極秘事項だぞ」
「はい、それもシギ様からうかがっております。このことは他言無用」
厩舎番は一瞬言葉を飲み込むと、神妙な顔で続けた。
「――例え相手が偉大なるハーン様であっても、と」
それからまもなく、リルと安樹の乗った二頭の馬はオルド・バリクを出て夜の草原を南へと向かった。
夜空には満天の星がかかる。
星の海の中を二人の馬は走り続けた。
「これから、どこへ行きましょうか」
ひづめの音と風を切る音にかき消されないように、安樹はリルにむかって叫んだ。
「自分で逃げようと誘っておいて、どこに逃げるかも決めていないのか。まったくおまえってヤツは」
リルは呆れた声で答える。
「私にもあてくらいはあります。しかし金帝国も南宋も早晩キヤト族に併合されてしまうでしょう。下手なところに逃げても仕方ないですからね。姫様に良いお考えがあればと思ったのですが」
「私にだって良いお考えくらいあるぞ。でも私は、アンジュと一緒ならどこでもかまわないんだ。それにこれからは、つ、妻になるのだから、夫を立てておまえの意見から先に聞いてやろう」
「そうですか、確かに私は姫様の夫となるわけですからね。では、私の考えですが……」
すると、突然リルは声を荒らげた。
「ちょっと待てぇっ! アンジュ、おまえはそんなに亭主関白な奴だったのか!」
「えっ、なんですか」
「今まではあんなに姫様、姫様と私のことを立てておきながら、結婚するとなったらもう主人顔(しゅじんヅラ)か!」
「……だってそれは、さっき姫様が『夫を立てる』って言ったんじゃないですか」
「うるさいっ! そこをもう一度、『いやここは君の方が地理に詳しいだろうから、まず君の考えを聞かせてくれよ』とかなんとか私にふってよこすのが筋ってもんだろう」
「……わかりましたよ。じゃあ、姫様の方が地理に詳しいでしょうから、まず姫様の考えをお聞かせください」
「じゃあとはなんだ! そんなの、まるで私が鬼嫁みたいじゃないか! もう知らんぞ。私の良いお考えは絶対おまえに聞かせてやらないからな!」
「そんな駄々をこねないでくださいよ」
「うるさい!」
ツンとそっぽを向くリルに、安樹は苦笑いでこう言った。
「ではこうしましょう。今からどこに向かうか、思いついたところを二人で同時に言い合いましょう。それなら平等でしょう。これからずっと二人一緒なんだから、仲良くしましょう」
傍からみると恋人同士がただイチャついているだけだ。
それでもリルは、安樹になだめられてようやく機嫌を直した。
「わかった。二人でせぇので言うんだな。それならいいぞ。言っとくけど、私の言う場所はおまえのような凡人には思いつかない、ものすごぉく意外なところだぞ」
「私のだって、この世界で唯一キヤト族の追っ手の届かないところですからね。姫様、びっくりなさいますよ」
「よし、いくぞ! せぇの!」
安樹とリルは、同時に各々の考えた目的地の名前を叫びあった。夜の世界にその名前が響きわたる。
二人が叫んだのは、同じ言葉だった。
「「シャンバラ!」」
口に出してから二人は、その響きのおどろおどろしさに少し戸惑った。
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