第18話 盾作り、決意する

 安樹には、はじめリルの言葉の意味がわからなかった。

 しかし、凍りついたようなリルの表情を見て、自分の求婚が退けられたのだと理解した。


「そ、そうですよね。姫様と盾作りでは、身分の違いは天と地ほどにありますからね。すみません。私が調子に乗っていました。姫様が優しくしてくださるので、バカみたいですよね。自分と姫様にはそれを越える絆のようなものがあると勝手に思い込んでいたみたいで……本当に、申し訳ない。今のは忘れてください。というか、冗談です。まさか本気にしちゃいましたか? 冗談に決まってるじゃないですか」


 安樹はあわてて取り繕う。

 そして、気がついた。

 リルの両の瞳から涙がこぼれていることに。


 リルは言った。


「私は、物心ついた頃から戦場にいた。将来の夢は世界一の将軍になることだった。周りの女友達が花嫁にあこがれる気持ちなどまったく理解できなかった。ただ、アンジュ、おまえは別だ。おまえと一緒にいると心が休まる。おまえと一緒にいると笑顔になる。本当だ。私は、おまえ以外の男の花嫁になるなど考えたこともなかった」

「それでは、なぜです!」

「伯母が死んだんだ」


「はい?」


「伯母が死んだ。伯母は母の姉で、私は会ったこともないが、蒙古族で二番目に大きいケレイト族のハーンに嫁いでいたんだ」

「それは……」

「我々の民族は、血のつながりをとても大事にする。部族間で結婚があって嫁いだ女性が亡くなると、代わりに女性の姉妹が嫁に行かなければならない。姉妹がすでに亡くなっていたとか、結婚していた場合は、その娘が嫁いでいくしきたりになっているんだ」

「では、姫様は、その伯母様のかわりになるというのですか?」 


 妻に死なれた夫が妻の姉妹を娶る順縁婚の習慣は、契丹人を中心に蒙古人、吐蕃人の間でも広く行われている。婚姻による部族の結びつきを断たないための風習だけれど、キヤト族のような力のある部族がわざわざ行うこととは思えなかった。


「父様が、そうしろと」

「どんな方なのです? ケレイト族のハーン様とは」

「知らない。会ったこともないし。話では、父様より二つ三つ年上なんだそうだ」

「バカな。そんな話をお受けになったのですか!」

「しかたないじゃないか。父様は、私がケレイト族に行けば、アンジュを迎え入れてくれると」


 安樹の頭に殴られたような衝撃が走った。

 先日聞いたシギの話が頭に浮かぶ。

 ボドンチャルがリルを疎ましく思い、結婚させ、引退させたがっていると。けれど、どこの世に娘を自分より年上の男に嫁がせようとする父親がいるものか。


「姫様がそんなところに嫁ぐのと引き換えにだなんて、そんなことをして私が喜ぶとでも思ったのですか」

「だって、だって、……私は、ずっと、ずっと謝りたかったんだ」


 リルの目から涙があふれた。


「五年前のこと。ずっと謝りたかった。あの時私はまだ子供で、ただアンジュと一緒にいたくて、父様に頼んでアンジュとじい様を入れ替えさせたんだ。ごめん。本当にごめん。それがアンジュにとってどんなことになるのか考えもしなかった。こんなに長くアンジュの自由を奪うことになるなんて思ってもみなかったんだ。だから、今度は私が……私がどんな目にあってもアンジュを自由にしてやりたいって、ずっと、ずっと、ずっと思ってた」


 安樹は、子供のように泣きじゃくるリルをしっかりと抱きしめた。


「今からでも遅くありません。お断りになってください。偉大なるハーン様とて実の父親、姫様が本当に嫌がることはなさらないはずです。私のことは大丈夫。姫様にそこまで思っていただけるなら、一生石牢の中にいたとしても、私は世界一幸せな男です」

「もう無理だ。父様はケレイト族に承諾の知らせを出してしまった。あの人は、部族同士の約束事は何があっても守る人だ」

「だからって、そんな年寄りの見知らぬ男に私の大事な姫様をやれるわけないじゃないですか」

「私だって、アンジュと離れたくない」


 二人はあふれる涙をぬぐおうともせず互いにみつめあった。


 子供だった二人は、もういない。


 安樹は、自分の腕の中で震える姫君にそっと接吻した。リルは両目を閉じて、生まれて初めての接吻を受け入れた。


 それは一瞬だったけれど、二人にとっては長い長い時間だった。


 そして安樹は言った。


「私はこのオルド・バリクから脱獄しようと思います」


 この五年間、頭に浮かびすらしなかった言葉だった。

 リルさえいれば、安樹には監獄でさえ天国だったからだ。

 彼女がいなければ、オルド・バリクは石の棺桶でしかない。


「一緒に来てくださいませんか。誰に許されなくてもかまわない。私の妻になって下さい」

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