第9話 黒の砦《オルド・バリク》

 安樹と田常を捕らえたキヤト族は、一晩中行軍を続けた。

 朝になっても簡単な休憩を取っただけだ。慣れない馬に手をしばられた状態で乗せられているため、安樹の疲労は頂点に達していた。

 おまけにキヤト族の本拠地に近づくにつれて空はどんよりと曇りはじめる。

 心なしか空気までが重く感じられた。


 安樹たちが目的地にたどりついたのは、その日の午後遅くだった。

 目的地とは、黒のオルド・バリク

 キヤト族の本拠地であるそこは、族長であるボドンチャルが世界征服の拠点とするために建造した巨大な城砦だった。

 安山岩や玄武岩を用いて築き上げられた城砦は黒々として、見るものに圧迫感を与える重厚な造りである。


 もともと遊牧民であるキヤト族に定住の習慣はないため、キヤト族の人間は、族長を含めオルド・バリクの外の草原に天幕(ゲル)をたててそこで生活をしている。

 

 つまりオルド・バリクは、よくある王様のお城ではなかった。

 言ってみれば国会議事堂のようなもので、主に政治や軍議、祭祀のために用いられている。


 そしてもう一つ、この黒い城砦には用途があった。


 囚人や捕虜の収監である。オルド・バリクの地下には、最大で二百人の囚人が入れるだけの石造りの牢がつくられていた。


 安樹と田常は、一緒に地下の湿った石牢の中に放り込まれた。

 リルやシギと離された安樹は不安で一杯になる。

 しかし縄をはずされ手足を伸ばして石の寝床に倒れこむと、移動の疲れからあっというまに眠りに落ちてしまった。


 翌日。安樹と田常は、また縄をうたれて牢から連れ出された。


「よう、アンジュ、良く眠れたか?」


 牢から出たところでリルとシギが待っていてくれた。


 リルは、昨日までのおどろおどろしいいでたちとはうって変わって簡素なチュニック姿だ。裾の開いた半ズボンからのぞく素足がまぶしい。

 こんな状況でも安樹の目はリルに釘付けだった。


「あ、うん、ええと、おかげさまで無事に」

「なんだ、そりゃ? あいかわらずヘンなヤツだな」


 しどろもどろな受け答えにリルが微笑んだ。

 その微笑は安樹に少しだけ安堵を与える。


 しかし、二人に連れられてたどりついた軍議の間は、そんな安堵感を完全に打ち砕くほど重苦しい雰囲気に満ちていた。


 円形の広間の上座に座った大男が、おそらくキヤト族の族長ボドンチャルなのだろう。派手な外套を着て大きな羽根のついた帽子をかぶり、たくさんの高価そうな貴金属を身につけていた。

 顔には深い皺が刻まれ、顎には長い髭がたれさがっている。

 その表情は遠くからでははっきり読み取れないけれど、どうみても機嫌が良さそうには見えなかった。


 シギが田常に耳打ちする。


「我が族長のことは『偉大なるハーン』とお呼びください。『偉大なるハーン』は、ちょっとした機嫌の良し悪しで身内の首を刎ねることもあります。くれぐれも言葉遣いにはお気をつけください」

「やれやれ、これでは洛陽で顔役に詫びを入れるほうがどんなにマシだったか」


 田常は思わず愚痴をこぼし、安樹に顔を向けると力なく笑った。


 偉大なるハーンの周りは、キヤト族の長老や幹部、それにケシクと呼ばれる側近たちで囲まれている。彼らの話す言葉は安樹たちにはまったく意味不明だったけれど、軍議の内容はリルとシギがおおまかところを通訳してくれた。


 まずリルが、ボドンチャル及びその取り巻きに「河西回廊皆殺し大作戦」の概略と結果を報告した。


 火薬をシリア方面に運んでいたキャラバンを殲滅したこと。

 キヤト軍の損害はほぼ皆無であったこと。

 強奪した火薬は二度と使えないようにオルホン川に流したこと。

 その他の得られた戦利品の種類と数について。


 続いてシギが広間の中央に進み、火薬についての説明を行った。この部分はリルに通訳してもらっても安樹には何のことやらさっぱりわからなかった。

 理解できたのは、火薬が恐ろしい兵器として使われるということだけだった。


 それから、シギは自らの功績をボドンチャルに訴えた。


「私めは、我が偉大なるハーン様にお約束いただいた十回目の勝利を捧げることができました。五年前のお約束を、もちろん、我が偉大なるハーンは覚えておいでのことと存じますが」

「うむ、シギよ。おぬしのこの偉大なるハーンに対する貢献と忠誠は高く評価している。そこでどうだ? おぬしに、偉大なるハーンの娘であるリルディル万人隊長を嫁にやろうではないか」


 一同は、おおっとどよめいた。

 リルがあわてて抗議の声を上げようとするが、それよりもシギのほうが早かった。


「お約束が違います。私めが偉大なるハーン様にお約束いただいたのは、セトゲル様との結婚です」


 それを聞いたボドンチャルは、不機嫌そうな顔を一段と曇らせる。


「約束が違うか。約束が違うのはどちらのほうかな。我が命はキャラバンの皆殺しであったはずだぞ。捕虜は取るなと言い渡してあったはずだ。しかるに、あの者たちは何だ」


 偉大なるハーンが羽扇子で指した先には、安樹と田常がいた。


「そ、それは」


 軍師シギは言葉に詰まった。

 安樹の隣に控えていたリルが、あわてて広間の中央に飛び出す。


「父様、それは私が」


 飛び出したリルを、ボドンチャルは言葉で制した。


「偉大なるハーンと呼べ、リルディル。例えおまえが我が娘でも、また万人隊長の地位にあったとしても、偉大なるハーンの命に逆らった罰は受けねばならぬ」


 ところがリルの方もボドンチャルに対して一歩も引かなかった。


「なんだよ。こっちは何ヶ月もキャラバンに潜り込んで散々苦労したっていうのに。だいたい娘を嫁にやるのはよくって妹はダメって、どういう理屈だ」

「セトゲルは偉大なるハーンのたった一人の妹だ。娘はまだ何人もいる」

「ふざけんなよ、このシスコン親父!」


 けんか腰になるリルを、シギがあわてて押しとどめる。


「お待ちください。この者たちは捕虜として連れてきたのではありません。彼らは盾作りです。キヤト軍の騎兵にはこれまで防御の概念がありませんでした。騎兵の装備に盾を採用することで、我が軍の損害は格段に小さくなるはずです」


「我が軍の装備をどうするか、それはこの偉大なるハーンが決めることだ。リルディル万人隊長、軍師シギ、お前達に命令違反の罰を与える。リルディルよ、おまえには今後一年間、戦闘に出ることを禁じる。母親の元で花嫁修業でもするがよい。シギよ、おぬしとの約束、無論このボドンチャル忘れてはおらんぞ。だが此度の罰として、さらに十の勝利を重ねること。さすれば我が妹はおまえに嫁そう。これは偉大なるハーンの決定じゃ」


 ボドンチャルの言葉には有無を言わせぬ迫力があった。


 リルとシギは反論しようと試みたけれど、長老たちからやめておくように諭され、しぶしぶ安樹たちの元に戻ってきた。


「漢族の盾作りよ。これへ参れ」


 ケシクの一人が、今度は田常を呼び出した。


「偉大なるハーン様の御前である。くれぐれも粗相のないように」

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