第4話 少年、墨家の秘伝を伝授される

 それから約一ヶ月後。


 安樹と田常が世話になっているキャラバンは無事に洛陽を出発し、延安にたどりついていた。延安の周辺は牧草地帯で、見渡す限りのどかな平原が続いている。


 季節も春。いい気候だ。


 田常と安樹は食客扱いで、特にすることもなく馬車の中で盾を作って過ごしていた。


 当時の延安は金帝国の最も西にあたり、そこを過ぎると西夏国(せいかこく)になる。安樹や田常のような金帝国や南宋の人間の感覚として、西夏国は、韃靼や蒙古ほど野蛮な国ではないものの、やはり文明国ではない。

 そういう意味で、延安は文化の果てる土地、そして真の西域への旅が始まる場所と言える。


 キャラバンは街の外れに馬車を止め、みな忙しく最後の街での買い物に追われていた。


 ところが、安樹の頭の中は他の人々とは違うことでいっぱいだった。


 この一ヶ月の間に、安樹はあの遊牧民の少女を何度も見かけていた。なんと彼女は、馬の世話係として安樹と同じキャラバンに雇われていたのだ。


 少女は名前をリルと呼ばれていた。


 最初会ったときは小さい子供だと思ったけれど、よくみると十一、二歳、安樹と一つ二つしか離れていないようだ。肌は浅黒く、痩せていて手足は棒のようだった。

 四六時中むっつりしていて笑顔など見せたことがない。そのくせ仕事振りはまじめで、まるで小鹿のようにいつもまめまめしく動いていた。


 声をかけようと何度も思ったけれど、忙しそうにすばしこく働いているので、なかなかタイミングがつかめなかった。


(それに話しかけると言ったって、一体何を話すんだ? まさか「洛陽で助けてあげたから礼を言え」とでも言うのか?)


 今もリルは十頭近い馬たちを餌場へ連れて行こうと、安樹の馬車の前を行き来している。

 遊牧民の少女は、キャラバンの誰よりも上手に馬を扱えていた。



「ほほう、最近呆けていると思ったら、あの娘にご執心か。さすがわしの孫じゃな。あの娘は五年も待てば、そりゃあ美しい娘になるぞ。まあ、わしならさらに五年じっくり寝かせるがな」


 安樹の背後から田常が声をかけた。


「何言ってんだ。そんなんじゃないよ」


 田常のいやらしい物言いがいつも以上に安樹の癇に障る。だが、あとに続く田常の言葉は安樹にとって意外なものだった。


「なんにしても早く声をかけた方がいいぞ。わしらは、じきにキャラバンを離れるからな」

「えっ?」


 突然のことに戸惑う安樹に、田常は地図を開いて説明した。


「このキャラバンは、天山北路、つまりこの道を進んでいく。西夏国から北にぬけて黒契丹にむかう道じゃ。だが、わしらの目的はもう少し南。ここじゃ」


 そういって田常の指差した先には、何も書かれていなかった。その一帯だけ、地図が空白になっている。


「ここって、なんだよ」

「幻の国、シャンバラじゃ」

「シャンバラ?」

「ああ、シャンバラは地図にも載っていない謎の国なんじゃな。その入り口に天翔山(てんしょうざん)という山があって、開明獣(かいめいじゅう)という古代からの怪物がいるのだそうじゃ。開明獣の鱗は硬く、いかなる矢も刀も受け付けることがない。その鱗を使えば、念願の『最強の盾』を作ることができるはずじゃ」


 田常は長く伸ばした自慢の顎ひげをしごきながら、自らの言葉に大きくうなずいた。その姿に、安樹は田常がしばらくみせなかった盾作りとしての情熱を垣間見た気がした。


「最強の盾って、じっちゃん、本気だったのか?」

「師匠と呼べ。当たり前じゃないか。わしらが旅をする理由が他のどこにある?」

「いや、あの、女の人のことでいろいろ揉めて……」


 田常はカラカラと笑った。


「ははは、それはそれ、これはこれじゃ。まあ、わしはちゃんと教えたからな。あの子のことは後悔せぬようにするのじゃぞ。それに、このキャラバンは少し怪しい。染料を運ぶだけにしては、護衛の人間を多く雇いすぎておる」


 田常は、「ちょっと体でも動かすか」と馬車を降りようとした。


「じっちゃん! じゃなかった、師匠!」


 安樹は居ても立ってもいられなくなり、思わず田常に声をかけた。

 田常が最強の盾を作るというのは大歓迎だ。しかしそれでキャラバンを離れるのなら、リルと一緒にいられる期間はわずかしかない。


「あの、オレ、あの子になんて話しかけたらいいのかな」


 安樹の戸惑う様子に、田常は思わず噴き出した。


「なんじゃ、珍しく教えを乞うたと思えばそんなことか。まあいい。確かにこんな大事なことを今まで教えてこなかったとは、この墨田常、一生の不覚じゃな。いいか、よく聞いて肝に銘じるが良い」


「はい、師匠!」


「女子に声をかけるときはな、まず謝れ」


「……謝るって? 何を?」


「何でもいい、何かあるじゃろ。とりあえず、ひたすら頭を下げる。まずはそこからじゃ。わしはいつもそうしておる」


(だめだ、こりゃ)

 安樹は、祖父に教わろうとしたことを激しく後悔した。


「そして次に、相手の心がちょこっとでもこっちに向いたと思ったら、すかさず約束を交わすのじゃ」


「……約束って? 何の?」


「何でもいい、何かあるじゃろ。できれば遠い先の話が良いな、十年後とか二十年後とか」


「……はあ」


「わしに教えられるのは、そこまでじゃ」


 田常はそう言うと、さも満足気に遠くを見る目つきで空を眺めた。


「何で今の話で、そんなドヤ顔ができるんだよ!」


 安樹は頭を抱えたけれど、とりあえず、思い切ってリルに話しかけてみることにした。


(だからって別にあの子のことを好きとか、そういうことじゃないんだ)


 安樹は自分に言い聞かせていた。


(洛陽で矢が来ることを教えてくれたのがあの子なら、オレのほうが礼を言わなきゃいけないし)


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