第5話 少年、期せずして秘伝を披露する

 安樹は、リルのあとを追った。


 キャラバンのいる街道沿いから離れて、草原のなかほどにあるなだらかな丘にたどりつく。丘の上に一本の大きな桃の木があって、満開の花を咲かせていた。

 丘に登ると、リルが一人、馬たちの世話をしているのが見える。


 少女は馬の背をなでながら歌を歌っていた。

 そのまわりに鳥たちが集まっている。

 歌は、安樹にはわからない異国の言葉だった。

 リルの故郷の言葉なのだろうか。

 声の出し方も、これまで安樹が聞いたどんな歌とも違っている。リルの表情は笑顔でこそなかったけれど、ふだん見かけるどんなときよりも優しく見えた。


 安樹は、少女に話しかけようと一歩足を踏み出した。


「誰だ!」


 人の近づく気配に気づいたリルは、鋭い声で誰何した。彼女のまわりにいた鳥たちがいっせいに飛び立つ。


「あ、あの、ごめん! 怪しい者じゃないよ! ただきれいな声だったんで、つい」


 リルの厳しい口調に、安樹はあわてて頭を下げた。

 遊牧民の少女は、そんな安樹の姿に眉間のしわを解(ほど)いた。


「なんだ、盾売りか」

「オレのこと、覚えてくれていたの?」


 安樹は、小走りにリルに近寄った。けれども少女は馬の方に向きなおり、安樹と顔を合わせようともしない。


「私をバカだと思っているのか? 同じキャラバンの人間くらい全員知っている」

「ご、ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ」

「それに、あの時はなかなか珍しいものをみせてもらったからな。盾というのも案外役に立つものだ。……しかし一度言っておこうと思っていたが、あれで私を助けたつもりなのなら、大間違いだからな」


 そう言うと、リルは振り向いてキッと安樹をにらんだ。


 安樹はそれまでリルのことを、身寄りもなくたった一人で健気に生きている少女だろうと想像していた。でも実際に話をしてみて、それは自分の勝手な思い込みであると気づかされた。

 日頃、遊牧民としてさげすまれることが多いせいか、リルは漢族の安樹に対して必要以上に対抗意識を持っているようだ。


 だが、にらまれているというのに安樹はリルの吊り上った眦(まなじり)から目を離せなくなっていた。

 急に鼓動が早くなり、心臓が苦しくなる。


「あの程度のごろつきなら、私一人でも簡単にやっつけることができたんだ。だから、おまえのやったことは、おまえたちの言葉で言う『大きなお世話』ってやつだ」

「ご、ごめん」


 安樹はまた頭を下げた。それを見て、リルは小さく笑った。


「なんだおまえは? 謝ってばかりだな。わざわざこんなところまで謝りに来たのか」


 少女の笑顔は、鉄壁の防御を誇る盾作りの胸に深々と突き刺さった。


「そ、そうじゃないけど、お礼を言いたくて、リルちゃんに」

「リルちゃんだと! バカにしているのか」

「ごめん! リルさん……ひょっとして、リル様?」

「リルでいい。だがな、もしおまえが私の名前を知っていることを自慢しているんだったら、それは、おまえたちの言葉で言う『お門違い』ってやつだぞ」

「はい?」


 リルは馬の方に向きなおると、その背にブラシをかけながらさも得意そうな声を出した。


「私だって、おまえの名前くらい知っているのだ。おまえは、アンジュっていうんだろう」

「えっ?」


 安樹は思わず聞き返した。


 リルが自分の名前を知っているのも驚きだったけれど、聞きなれた名前が少女の口から出ると普段とはまるで違う美しい響きで聞こえたからだ。


 そうと知らないリルは、安樹に聞き返されてちょっと自信をなくした声になった。


「アンジュ、だろ?」


「えっ!?」


 安樹はまた聞き返した。リルは、名前を間違えたのかとバツが悪そうに振り返る。


「アンジュ、じゃなかったっけ?」


 リルが振り返ってみると、安樹は彼女の声にうっとりと耳を傾けていた。

 リルはカッとなって叫んだ。


「……何、ニタニタしてるんだ! やっぱり、おまえ、バカにしているだろう!」


「ごめん、あの、名前知ってくれてるなんて思ってなかったから」


 繰り返し頭を下げる安樹をみて、リルは半分あきれながら背を向ける。

 馬のブラシかけを再開しつつ、背中越しに言った。


「私に礼が言いたいといっていたな。礼ならいくらでも聞いてやるぞ。言ってみろ」

「ええと、あの、洛陽の広場で矢が飛んでくるって教えてくれたの、リルだよね」

「もちろんだ」

「やっぱりそうか。リルが声をかけてくれたおかげで命拾いしたよ。ありがとう」

「うむ、そうか。じゃあ、私はアンジュの命の恩人というわけだな。感謝しろよ」


 それからリルは馬にひらりと飛び乗った。

 キャラバンで使われる馬は、西域の馬と違って極端に背が低い。

 それでも、鞍もあぶみもない裸馬を乗りこなすリルの技術は相当なものだといえた。リルが命令すると、馬はゆっくりと歩き始める。


「リルは、優しいんだね」


 安樹は(馬には)という言葉を省いて言った。

 それでもリルの反応は同じで、安樹が一言言うたびに声を荒げる。


「優しいだと! おまえ、バカにするのもいい加減にしろ!」


 安樹の方も、もはや反射的に頭を下げてしまっていた。


「ご、ごめん、……でも、なんで優しいがだめなの?」

「よくわからないけど、優しいって弱いみたいじゃないか」

(……よくわからないのに、怒鳴られたのか)


 リルの安樹に対する仕打ちは理不尽きわまりないけれど、不思議と腹立たしい気持ちにはならなかった。


「優しいっていうのは、好きな気持ちの表れじゃないかな。リルは馬が好きだから、馬に優しいんだろ」


 そう言われて、リルは少し考え込む。


「そうか、……私はあんまり優しくないが、母様(かあさま)は優しいな。そうか、母様は私のことが好きだから優しいのか。早く会いたいな、母様に」

「……お母様って、生きているの?」

「縁起でもないことを言うな! 生きてるに決まっているだろう。ふふん、私はもうすぐこのキャラバンと別れてふるさとに帰るんだ。そうしたら、母様にも、別に会いたくないけど父様(とうさま)にもあえる」


 リルは無邪気に微笑んだ。その笑顔は、安樹がいままで見た中で一番美しい微笑だった。洛陽の大市や芝居小屋でも、これほどの美人にお目にかかったことはない。


 けれど、それを見た少年の胸はちくりと痛んだ。


(そうか、リルとはもうすぐお別れなんだ)


 この延安から西に行くと、遊牧民の集落はあちこちにある。そのどこかにリルの家族がいて、彼女はそこに帰るのだろう。安樹は、リルとの別れが思っていたよりずっと早いのだと悟った。


 そんな安樹の想いにまったく気づくことなく、リルは放していた馬を集める仕事にとりかかっていた。安樹もリルの仕事を手伝ったけれど、馬の扱いには慣れない安樹はてんで役に立たない。

 不器用に馬に引きずられる安樹の姿を見て、リルは手放しで笑った。


 別れ際に、少女は思い出したように言った。


「母様ほどじゃないが、アンジュも優しいな」


 その一言が、疲れ果てていた少年の心に力をみなぎらせる。

 安樹は、思い切って言った。


「オレ、今日の馬の世話はだめだったけど、盾には自信があるんだ」

「知っている」


 リルは涼しげな瞳で安樹の顔を見た。

 その瞳にまた胸を射抜かれて、安樹は夢中で続けた。


「もうすぐお別れかもしれないけど、また会うときがあったら、十年後でも二十年後でも、オレの盾で必ず君を守るよ」


 リルは唐突な少年の申し出に目を丸くして、やがてニヤリと笑った。


「私は、アンジュに守られるほど弱くない」


 そして最後に、声をひそめてこう言った。


「おまえはいい奴だから教えてやる。夜中にトンビの鳴き声が聞こえたら、絶対に馬車から出ないで隠れていろ。おまえのじい様にも伝えておけ」


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