第110話 断ち切る牙
魔神王と真っ向から壮絶な打ち合いを繰り返し、マーリアは肩で息をしていたが静かに長槍を構え直し、一息で呼吸を整えた。
「何故だ?何故動かん……俺は人間など遥かに超越した筈だ……」
がしゃり、とフェンリルは剣を杖に膝を付いて項垂れた。己の無力への絶望の果てに憎悪の悪魔に成り果てた男の胸中は、いまや計り知れない。
「馬鹿ね、アンタは人間で居る事に堪えられなかっただけよ」
何故、今、あの時の事を思い出すのか。
捨て去った筈の過去が今更、この
「黙れ!」
フェンリルの外骨格の中で今一度絶対の殺意が凍て付いた、消えぬ憎しみが地獄の業火の様に燃え盛った。尾も手伝って地面を蹴り、魔神王の巨躯が人智を越えた速度で踏み込んだ。一切の呵責なくマーリアへ大剣を振り下ろす。
マーリアは巧みに長槍の柄を使って、魔神王の必滅とも呼ぶべき一撃を真っ向から受け流した。
ブランフォード流、"朧月"。
相手の攻撃に己の一撃を加勢させる崩し技。魔神王と言えど概ね人型で剣を振るう以上、崩し技は有効だとマーリアは見切った。
「何ッ……」
激烈を極めた大剣の打ち込みが仇となる。魔神王が晒した無防備な隙に、マーリアが長槍をしならせ身体ごと一回転。渾身の
「ぐ、うゥおッ………!?」
外骨格の断片を撒き散らし、大きくたたらを踏んだフェンリル。恐るべきは白狼将軍マーリア。生身であのフェンリルを押していた。
先程の一撃、破壊力、速度に於いてフェンリルは完全に人智を越えていた。人であった頃から死線の只中に身を投じ、力だけを追い求めて来た。そして修羅道の只中、人である事さえ捨てた。それでも、まだ技量で劣っているというのだろうか。
否。これでもまだ、ギリギリのところで"手元が狂って"いる。
おまけにフェンリルは、あの凶悪極まりない魔術の数々を行使できずにいた、"紅雨"や"黒狼災禍"を放つ為には、魔神王としての精神体が安定していなくてはならない。
この期に及んで己の剣に、憎悪に、迷いがある事を漸く機能を取り戻しつつある魔神の俯瞰的視点が告げる。何故こんな時に、もう取返しの付かない日々の記憶が、今更この
逡巡する魔神王。マーリアが再度一撃を叩き込むには十分過ぎた。
フェンリルは、今度は頭部にマーリア渾身の一撃をまともに受けた。尾を含めて330㎏を下らない巨躯が宙を舞う、いつぞや同様に、王都宮殿地区の高級建築を瓦礫の山に変えながら吹き飛んでいく。
ばっくりと外骨格が吹き飛んだ頭部。
どす黒い魔力エネルギーが逆流し、直ちに再生を始める。鎧形態のフェンリルはたとえ頭を吹き飛ばされようとも、戦闘継続が可能だ。だが、フェンリルは起き上がろうとしなかった。
ノイズと呼ぶには喧し過ぎた。
今や魔神王の脳裡に浮かんでいるのは、至極人間らしい感情。逡巡、躊躇、或いは悔恨。憎悪には程遠いものばかり。
『その通りだ。お前があの日目指した騎士道では、何一つ護れやしなかった。
黒い狼の唸り声が、何より鮮明に響いた。
そしてマーリアの長槍が、とどめの一撃がフェンリルの胸部外骨格を深く貫いた時。猛り狂う黒い炎が燃え上がった。
漸く理解した。
マーリアは、何もフェンリルを抹殺しようとしている訳ではない。マーリアは、魔神王フェンリルの中に消えた実の弟を力づくで引き摺り出そうとしているのだ。
成功確率とか、実現の可能性を考慮するでもなく、力づくで実行に移す。
そしてそれは半ば実現しかけていた。現にカゼルの名残が、魔神王として戦闘する事を阻害している。これは地上での継戦能力の為、ハイブリッド型の魔神として顕現した事の欠点だと言わざるを得ないだろう。
マーリアの蛮勇と、それを叶える武力。その人生を勝利で彩って来た
だが、光が強ければ強い程、闇は深くなるもの。
その憐憫が、家族愛が、肉親を慮るというマーリアの人間として至極当然の感情が、憎悪の悪魔に成り果てたフェンリルを沸騰させた。
肉親一人斬れずして、何が魔神王。何が憎悪の悪魔、何が終焉を告げる者なのか。
「カゼルなどとうに死んだ。"弱者"は淘汰されるのみだからな」
フェンリルは槍の穂先を握る、ビキ、と音を立ててアルグ鋼製の刃を砕いた。マーリアは咄嗟に引き抜こうとしたがびくともしない。振り払うように長槍ごとマーリアを投げ飛ばす。
人の身に余る憎悪を贖うためではなく、力にするため、ただそのためだけに魔神王に転生した。死んで逝った奴等が、帝国特務騎士達が、エーリカが、アーシュライアが無駄死にでなかったことを、他に誰が証明できる?
こんな所で終わっていい筈があるか。
「……
フェンリルの右腕の外骨格が盛り上がった。鞘の音一つ鳴らさずに、気が付くとその左手に魔剣マスティマが握られていた。
「……」
途端にマーリアには魔神王の存在感やプレッシャーがほとんど認知出来なくなった、まるで轟々たる濁流がぴたりと止んだように。
「貴様との
魔神王に成り果てて初めて、フェンリルは"絶対鏖殺の構え"を取った。
右に大剣マスティフ、左に魔剣マスティマを握って静かに構えた。ゆらり悠然と其処に立つ。人間だった頃の実姉、マーリアと相まみえ漸く今ここに、魔神王は破壊と殺戮の化身に成り果てた。
死そのものの様な静謐の中、黒い狼と白狼将軍は今一度、得物を構えて対峙した。
*
マーリアにはもう、フェンリルから何も感じ取れなくなった。ただ其処にあったのは、世の全てを憎むどす黒い憎悪のみ。それがたまたま、魔神王という形を取っているだけのように思えた。
突如、フェンリルは素早く大剣を握る右手を頭部の亀裂に翳す。魔神王として、魔術を行使した。それは"映し出す影身"。
「行け」
その亀裂から、もう一体。フェンリルと全く同じ黒い鎧姿の悪魔を引き摺り出した。分身が先に二刀を構えて飛び出す、本体は夜の王都の闇に紛れ、姿を消した。
分身の二刀流に先程までのぎこちなさは一切なかった。飽くまで滑らかで、しかし打ち込みは激烈だった。マーリアは分身の放った魔剣マスティマの二連斬りを躱した、後退した所を狙って振り下ろされた大剣の一撃をなんとか長槍の柄で受け止めたが、骨身が軋む様だった。
そこへ、本体のフェンリルが闇の中へ姿を隠したまま"しがみ付く暗黒"を使う。
そうして大地に連なるあらゆるものを闇に誘った。分身ごと、マーリアの両脚を絡め取った。マーリアの動きを封じたところに、すかさず左手の散弾砲を発射した。命中したかより、すぐさま闇の中からマスティマを構えて飛び出した。
あろうことか、魔神王が賭け値無しの本気の攻撃を敢行したのは、生身の人間であるマーリアが初めてだった。フェンリルの放った"大切断"は長槍ベリトラの穂先ごと、マーリアを袈裟に叩き斬った。
「カ、ゼ……」
人智を越えた速度で振り抜かれた刀身が閃いた。蒼白い文目が走るばかり、何かを言おうとしたマーリアの口から出たのは掠れた呼吸と血のあぶくだけだった。
フェンリルが猛然たる勢いで魔剣を血振りし、残身する。
修羅道に引き返す道など有りはしない。
*
壊れた記憶も、呪縛にも似た家族との
「俺はまだやれるぞ……」
「ほんっと、しつこいわね!」
「その辺にしておいたらどうだ、マーリア、カゼル」
何時の日かは分からなかった。それはまだ若かりし日の三人が、兄、姉、弟が揃って稽古に励んでいた姿。
カゼルの記憶の断片が、どす黒い炎に包まれて燃え盛った。
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