第109話 蘇る記憶
魔神王と白狼将軍、両者は真っ向から火花を散らす。力を求め人を捨てた黒い狼、人ならぬ強さで君臨してきた白狼将軍。
今や全力で互いの首を掻き斬り、心臓をブチ抜く為に
殺戮の旋風となって荒れ狂う大剣が紙一重、マーリアの兜を掠めて装甲を抉った。ほぼ同時にマーリアの操る長槍が魔神王の胸部外骨格に突き刺さった。肉体がある存在なら心臓を穿っている。
「死ね。"
フェンリルは槍刃に貫かれながらもお構い無しで暗黒の魔力の奔流を放つ、"黒狼災禍"に合わせてマーリアは長槍を引き抜き、そして投擲した。
「せいやッ!」
黒狼災禍を突っ切り、在ろう事かフェンリルの胸部外骨格を貫いて再び長槍が刺さる。その穂先は、周到なことにメイヴァーチルの
「小賢しい……」
マーリアは柄に巻き付けられた鎖で長槍を引き抜いて構え直す。動作に一切のブレがない。これは、ブランフォード流というよりはマーリアのオリジナル。
打てば全てを闇に飲み込み、世界を黒く引き裂く絶対的な破壊の奔流である筈の"
人は怒りによって視野が狭まり、思考が短絡化して騙されやすくなる。結果、動きも直線的になる。魔神王とて半分ほど当てはまる。マーリアの挑発はフェンリルに対して覿面に効いており、魔神の俯瞰的思考が機能不全を起こした。吸収してきた人間の魂、精神体の統合にさえ支障を来しつつあった。
結果として、カゼルが復讐の為に練り上げた剣捌きがまるで鋭さを失っていた。
それは、ブランフォード軍を束ね、同軍最強を謳われるマーリアにしてみれば止まって見える様な剣だった。かつてブランフォード家で一戦交えた時のカゼルの方が余程鋭く、凶悪であったほどだ。
フェンリルの素体であるカゼルの残滓が、この期に及んで憎悪以外の何かを主張している。それによって魔神王も激しく動揺し、精神体の統合に異常をきたしていた。
何時だ、これはいったい何時だ?
戦いの中、在ろう事かフェンリルは混乱した、時間が溶ける、記憶の前後が失われていく。
今まさにマーリアと戦っている最中だと言うのに、憎悪が焼き尽くした筈の記憶がフェンリルの内に蘇る。錯乱した思考を俯瞰視してしまい、余計に混乱が加速した。
*
何時だ。
誰だ?
それは、最早前世に等しく隔絶した過去の記憶。
フェンリルがまだカゼル・ライファン・ブランフォードとして、帝国貴族の次男として、家で訓練と勉学に励んでいた頃だ。
「兄上ー!姉上ー!」
「俺も、父上に恥じぬ立派な騎士になります!」
誰だ、コイツは?犬なんざ、飼ってなかった筈だ。
後からとって付けた様に、少年の側で飼い犬の様に走り回る小さなフェンリルの姿。
記憶の全てが錯乱していた、何一つ正確な記憶には思えなかった。にも関わらず間違いなくそれ等の混濁した映像は、魔神王フェンリルの戦闘を阻害し、見る影も無く弱体化させている。
「
「それが家の為なら、喜んでお受けします!」
ああ、なんだ……このガキは、俺か。
俺は知っていたよ、マーリア。知ってて俺は、南部に行った。
*
フェンリルの振るう剣が勢いを失った。しなる長槍が、フェンリルの頭部外骨格を破砕する。
「ぬゥあッッ!」
頭を砕かれながらも、フェンリルは努めて大剣を振り抜いた。だが、まるで何十年も油を差し忘れた機械人形の様にぎこちない。
「はァあッ!」
長槍ベリトラと大剣マスティフが真っ向から火花を散らす。絶対的な力を手にした魔神王はあらゆる人間が眼中から消えた、筈だった。だがその半身がカゼルである以上、マーリアを倒さずして前に進めない。
しかしマーリアは一歩も譲らない。生身で真っ向から魔神王と打ち合って、押している。
人間風に言うなら最悪のコンディションである事も災いした。神聖な霊的存在の女神を喰らって消化しながら、度重なる戦闘による魔力の消耗、おまけに相手もすこぶる悪かった、
この状況がメイヴァーチルやバルラドの作戦なら、魔神王とて見事というほかない。それほどフェンリルは苦戦を強いられていた。
魔神王と白狼将軍が真っ向から打ち合い、大剣と長槍がぶつかり合う。
凄絶を極めた激突に雷雨さえ両者を避けて降り注いだ。大剣と長槍が激突を繰り返し、蒼白い火花が閃く。舞う火花、血飛沫、そして何よりもフェンリルを構成する闇の魔力の多くが飛び散った。
かつて、まだブランフォード家に居た若かりし日のカゼルは誰よりも姉マーリアに憧れ、誰よりも憎んだ。誰よりも強く、女だてらにブランフォードの騎士達を率いる女将軍を。届かぬ己の弱さを呪った。
だから彼は、力を求める様になった。南部で仲間や家族を惨殺されてからそれはより顕著になった。
故に、カゼルのその憎悪の源泉はブランフォード家にある。
バルラドは、長く続いたブランフォード家でも屈指の秀才だった。それは、彼が家督を継いでからのブランフォード家の繁栄や領民の豊かさから見て取れる。
マーリアは生まれながらに戦乙女とでも呼ぶべき存在だった。それは今現に、魔神王と成り果てた筈の自分を討伐しに来ているところから見て取れる。
俺は?
俺がこんなザマに成り果てて尚、今も再び貴様は俺の前に立ちはだかるのか。
カゼルの残滓が軋みを上げる、フェンリルの動きが更に鈍った。
一合斬り合うごとに、どす黒い炎に焚べた記憶が微かに蘇る。
火花を散らす刹那に、どす黒い炎が焼き尽くした情景の断片が魔神王の脳裡を過る。
思い出せねェ……
誰だ、この女は?
顔が真っ黒に塗り潰された女。
誰だ、いったい。
それ以外の視覚的情報から、エーリカでも、アーシュライアでも、アルジャーロンでも、まして対峙するマーリアでもない。あのクソったれのメイヴァーチルでもない。
笑っているのか、泣いているのかさえ分からない。
怒っているのか悲しんでいるのか、何も分からない。なのに、なぜ?
『……』
何だ?何を言っている?
この感情はなんだ?
認知、処理できない感情が、計算機に於ける不可解なエラー同然に魔神王の俯瞰思考を妨害する。
誰だ、この女は。
なぜ、闘いの中でこんな幻影を見る?
不可逆の記憶を辿ってカゼルの残滓が憎悪以外の、何か激しい感情に打ち震えた。
ゴシャ、と長槍の突きを受け損ね、激しい音を立ててフェンリルの肩部外骨格が、薙ぎ払う長槍に打ち砕かれた。マーリアの一撃の直撃を受ける度、壊れた記憶が蘇る。
だが、取り戻すことは悪魔にも出来ない。少なくとも、それが可能だった72柱に連なる悪魔は消滅してしまった。
同様に、カゼルという男の精神や魂はとっくに破損している。それが、魔神王フェンリルという容器の中で未だ軋みを上げているに過ぎない。
*
まただった。
両腕が軋み、満足に剣が振るえない。なんてザマだ。
闘争の為だけに、この姿になった、憎悪の悪魔になった筈だ。
魔神王フェンリルは、完全に劣勢に陥った。カゼルだった頃は、苛烈な攻撃こそ絶対の防御。それを信条としていたにも関わらず、その成れの果ては大剣マスティフを防御に用い、峻烈な稲妻の如きマーリアの長槍の猛襲を防ぐので精一杯と言った有様。
挙句、十文字状になった槍の穂先で受けに構えた大剣を崩された。
もう幾度目かになるか分からない程、薙ぎ払い、存分に遠心力の乗った穂先で叩き斬られた。フェンリルの頭部の亀裂、幾多の瞳に映るのは壮絶な火花。
戦いでは圧倒的な優勢に立ちながら、何故だか必死の形相を浮かべた白狼将軍の面貌。まるで、今まさに地獄に堕ちようとしている肉親へ手を差し伸べているかのような。
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