第108話 誰が為の鎮魂歌
フェンリルはエストラーデを捕縛した、とどめは刺さなかった。すべてを奪われてそれでもまだ生き続ける、それがどれ程の苦痛なのかフェンリルはよく知っているからだ。彼女の処遇を決めるのはこの"解放"戦争が終結してからでも遅くはない。
『もう戻らない家族を悼む気持ちは、人間の愛ゆえじゃないかな』
何故だか、フェンリルは脈絡も無くメイヴァーチルのやけに意味深な言葉を思い返していた。メイヴァーチルは勿論、たとえばエストラーデにそんな血の通った感情がまだ残っているとは考えもしなかった。
愛。その響きに、ただでさえ女神エルマを"消化"しているというのに、フェンリルは反吐が出そうになった。憎悪の悪魔として顕現している以上、人間の愛など欠片ほども摂取したくはない。そういうのはベレトの好物だ。
エストラーデが先程流していた涙、妹エーリカを悼む気持ちはあったのだろうか。仮にも血の繋がった姉、無理もない話ではある。
姉と言えば、カゼルにも……
突如、砲弾が降り注ぐ。やはりというかフェンリル達が王国軍の残党を掃討している間にブランフォード軍によって逆包囲が展開されていた、王都東側からのブランフォード軍の砲撃によるものだ。
砲撃が始まったということは、東側街道に配置していた
それを十数体街道の脇に潜ませておいた、フェンリルの予測では人間には突破できない戦力配置のつもりだった。
直ちにフェンリルはベリアル、彼に搭乗するベレトに航空偵察を命じた。アスモデウスには自身の後衛を命じ、ブランフォード軍の攻撃に備える。
女神を抹殺し、
戦力的にこの二人は人類の中でも非常に高い戦闘能力を誇る部類だが、性格的にも訓練状況的にも、緻密な連携が行える間柄ではないのが不幸中の幸いといえる。
フェンリルは直撃する軌道の砲弾に角を叩き付けて打ち砕いた、魔神王が人間の発射した砲弾を避ける道理はない。フェンリルはかぶりを振り、大剣を構えて次の砲撃に備えた、第二射の気配はなかった。
「来るぞ、アスモデウス」
となると、次にブランフォード軍が仕掛けて来るのは白兵戦。丁度、その長槍を振るう勢いだけで煙幕を振り払い、いつか見慣れた白い甲冑を着込んだ長身の女が悠然と戦場を闊歩する。
そこに居た魔神の誰もが目を奪われた。
ベリアルは何か強大な存在から逃れる様に目を逸らす。アスモデウスはそのまま舌なめずりをした、フェンリルでさえ一瞬ばかり目を奪われた。それほどまでに悠然と歩を進める白狼将軍ことマーリアが気高く、美しく、そして力強い人間として映ったからだ。
そして、魔神王にカゼルとして人の記憶や心が未だ残っているのだとすれば、彼女こそ最も憎んだ肉親の一人だった。
マーリアに続くのはブランフォードが"七本槍"。彼等は白狼将軍マーリア直属の護衛。代々ブランフォード家の将の側を固める、槍であり、盾だ。精強無比のブランフォード軍から更に選び抜かれた剽悍な騎士達。
しかし、マーリアの長槍"ベリトラ"を含めた八本の長槍の穂先に、メイヴァーチルの神聖浄化魔法の反応があった事はフェンリルも予想外だった。成る程、ブランフォード軍が冒険者ギルドと手を組んだのならば、魔神鎧など容易く突破するだろう。
「アンタが魔神王?」
マーリアはがしゃ、と長槍の柄を地面に立ててそういった。
「……来たかブランフォード軍、白狼将軍と七本槍が直々に御出座しとはな」
フェンリルはくっくっ、と不敵な笑いを溢す。
「
マーリアは頭からつま先迄のほとんどをアルグ鋼製の白甲冑に包んでいる。
これは白狼将軍の為、ブランフォード領の職人ギルドによって作られた特注品。長槍の銘は"ベリトラ"、古代アルグ語で"貫き穿つもの"という意味だ。
彼女が携える武器は槍と腰に差したサーベルのみ。マーリアは戦場ではいつだってこの姿だ。兜に覆われ、そのプラチナブロンドの長髪を棚引かせている以外、マーリアの表情は全く伺い知れないが、決してその声音は明るいものではなかった。
「貴様がそう感じるのも無理はない、確かにこの
最早その鎧姿にほとんど原型はない。
人間の装甲には程遠い分厚い両肩の外骨格、天を脅かす様な二本角に槍にも鞭にも成り得る様な爬虫類の骨の尾。外骨格に浮んだ金色に輝くリサール語のタトゥーさえも、悪魔の為に歌われているかの様に禍々しくそこにあった。
彼こそ憎悪の悪魔。終焉を告げる者にして、魔神王フェンリル。
「で?御大層な"芸名"を名乗って、一体何をやらかそうって言うのかしら」
カゼルはもう死んだ、だが何も変わらないものもある。マーリアはまるで弟の悪戯を叱る様な口調だった。
「"人類の完全支配"。それにより成立する"完璧な世界"こそが我等の目的だよ、マーリア」
「……馬鹿なの?」
フェンリルは右手を広げて語った、まるで政治家の様に。
マーリアは首を傾げてそれを罵った、丁度、出来の悪い弟を叱る様に。
「最早、貴族支配や神権政治も黴の生えた代物。これからは魔神が人類を支配する、
「はぁ~……くっだらない。
マーリアは深いため息を吐いて、呆れた様に左手で頭を抑えた。
「要するに、リサール帝国の焼き直しじゃない。ウチは自領民を食わせるには足りているのよ」
「そんな平穏など容易く崩れ去る。お前が今、此処にいる事がその証明ではないのか?力による支配こそが秩序を維持することを理解しているからこそ、我々を倒しにやって来たのだろう」
「ええ、そうね。少なくとも今まさに世界の秩序を乱しているのはアンタよ、カゼル」
「世界の統一の為、既存の秩序を破壊するのは"必要経費"だ」
「私だってエルマ人が何人死のうと知った事じゃない。けどね、何万もの人間を虐殺し、神まで喰い殺して、必要経費?そんな国家ハナから破綻しているわ」
「下らぬ騎士道など重んじる貴様には理解できんだろうな。力を持つ者が、力をどう扱うかについて考える内は二流だ。力有る者は、その力で以て世界を牽引すべきなのだ」
「アンタはそんな姿になっても何も変わらないのね、カゼル。革命なんてものが如何に無謀で短絡的で欺瞞に満ちたものか、アンタも
「まだ俺をカゼルだと思っているのなら、それは大きな間違いだと言っておこう」
「地に足の付いてない革命なんて、肥大化した大衆の欲望に圧し潰されるだけ。昔、アンタも学んだ筈よ」
「フン……」
「武力によるごり押しで大陸の統一を成功させたとしても、行き着く果ては同じよ。権力の腐敗。それに絶望した新たな軍閥、新たな王による簒奪。テロ紛いのやり事は文明を逆行させるだけって、分からないのかしらね」
マーリアは完全武装して現れたにも関わらず、まるで講義する教師のようだった。彼女とて伊達に貴族の令嬢ではなく、血筋だけでブランフォード軍を束ねている訳ではない。将として必要な教養と知識と、類稀な武勇を身に付けている。
それはそれとして、何時でもその長槍を叩き込む事もできる。
「……勘違いするなよ、マーリア。俺は世直しや革命など考えていない。必要なのはどうやって
がしゃりと外骨格に覆われた両腕を組んで、マーリアだけではなく全てを見下ろすフェンリル。いつぞやと同じだった、たとえ魔神王に成り果ててもフェンリルの中に残っているカゼルは、マーリアを見れば戦いを挑まずには居られないのだ。
「究極の帝国主義ってワケ?足りないモノはヨソから奪う野蛮人のやり方なんて、黴が生えるどころか腐り切っているわ」
「所詮この世は弱肉強食。手を汚さずに国家の運営などできるものか」
「話にならないわね……曲がりなりにも次期ブランフォード軍の将として育てられた筈が、何をどうトチ狂って魔神王なんかになり果てたのか。父上も母上も、草場の陰で泣いているわ」
「……貴様がそれを言うのか?俺を"力"に駆り立てたのは他でもない貴様だろう。マーリア・ライファン・ブランフォード……!」
打って変わって底冷えする様な声音。俄かに魔神王の胸中を満たしたのは憎しみではなく、怒り。この違いは大きい。
「へぇ……案外まだカゼルが残ってるのね。安心したわ」
「幾ら貴様でも、今の
「魔神王だかなんだか知らないけど、カゼル風情が私に勝てる道理はないわ。姉より優れた弟なんて存在しないもの」
「ハッ……ハハハハハハ、ウハハハハハッ!」
フェンリルは天を仰いで高笑いした。
「……アスモデウス。お前は七本槍を殺れ、この女は俺が殺す」
一頻り笑い終え、フェンリルの頭部の亀裂から覗く幾多の目が赤褐色に輝いた。怒りと殺意に満ちた、危険な輝きだ。
「りょうかぁい」
アスモデウスの身体が比喩ではなく燃え上がり、灼熱の炎に包まれた。
魔神形態、巨大な蜘蛛の下半身に上半身は黒い外骨格を纏った女騎士の姿に四本の武器を構えた。この姿になると、
「惰弱な
大剣マスティフを青眼に構えた。槍相手、フェンリルはマーリアを初撃で叩き斬るつもりだ。
「これ以上家名に泥を塗る前に私がブチ殺してあげるってのよ」
マーリアも長槍を振り回し青眼に構えた。得物は違えど基本は同じ構え、一切侮りはなく真剣そのものだった。
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