第89話 Darkness within.

 フェンリルは隊伍を壊滅され、散り散りに逃げていく王国駐屯軍を傲然と見送った。突如現れたフェンリルによって拠点から叩き出された彼等を、追い打つ手段は幾らでも思い付くが実行には移さない。


 駐屯軍の撤退先は北部スラーナの首都、駐屯軍の要塞と目される。この猛吹雪の中、要塞まで生きて到達できる者は恐らく3割にも満たないだろう。つまりこれも作戦の内だ。


 いかに魔神王とて無尽蔵の魔力がある訳では無い。ただ彼が生まれた"帝都跡地"と、この世界は余りにも憎悪が満ち溢れている。結果的に無尽蔵に近い力を誇っているのだ。


「魔神王様、物質を届けに来ました」


 いつものように拠点攻略後の補給に来たベレトから、フェンリルとベリアルはごく少量の魔石を受け取った。

 二人はそれぞれ憎悪と悪徳を司る悪魔だ。どちらも地上における継戦能力は申し分ない。魔力の結晶体である魔石の補給は万が一、魔力を使い果たしてしまった場合の予備である。


「死体はいつもの様に回収して魔界樹の肥やしだな」


「承知しております、地下茎もこの地点まで伸ばしておきますね」


「ああ、頼む」


 ベレトは少女の姿のまま無理ない程度に重力魔術を発動させ、死体運搬作業を開始する。と言っても、フェンリルの"黒狼災禍"で抉られた地中に魔界樹の地下茎を誘導し、皆殺しにされた駐屯軍兵士の死体を放り込んで上から土を掛けるだけだ。

 あとは勝手に魔界樹の肥やしとなり、跡地に生える樹の枝先から魔石が精製される。

 彼等は丁度人間が果物を栽培するのと同じ要領で魔石を生産しているのだが、スケールと人道の観点で悪魔的と言える。


 魔界樹そのものを植林せず強引に地下茎を伸ばしている理由の一つは、まだこの世界において魔界植物の栽培に適しているのは、彼らの地上拠点である"帝都跡地"だけだからだ。


「魔神王様よ、俺様は敵勢の偵察に行って来るぜ」


 魔神形態を維持するベリアルはフェンリルに一言告げる。近頃彼は益々力を取り戻しており、その実力は今や"素"のフェンリルと肩を並べる程だ。

 彼とて、ベレトの配下になって1000年近くを生きた正真正銘の魔神。いちいちフェンリルの指示を仰がずとも次の作戦行動が可能である。


「この吹雪だ、発見され辛いだろうが用心はしろよ?」


 一方で、倒壊した瓦礫の山に腰かけながらフェンリルが部下であるベリアルに忠告する姿は、いよいよ堂に入っている。魔神王に居城はない、彼が座す所が玉座だ。


「ご忠告痛みいる」


 ベリアルは翼を広げ、飛び立ったのち、翼の挙動は姿勢制御に移行し、魔術による浮力飛行に切り替わる。彼が空を飛ぶのは毎度のことだが、巨体ながら機敏な空中行動を可能とする高度な飛行能力を有している。


 魔神帝国"軍"に於いて飛行可能なのはベレトとベリアルのみ。しかし、慢性的な"人間の愛"不足によってベレトがほぼ機能不全である以上、相変わらずフェンリルにとってベリアルは唯一の飛行戦力だ。ならばたとえ憎悪が祟って悪魔の王となった男といえど、少々の悪態にも目を瞑ろうというものだ。


*


「フェンリル。俺もお前に聞かなきゃならん事がある」


 ベレト、ベリアルに続いてツヴィーテもフェンリルに何やら用件があるようだ。


「……やめておけ」


 フェンリルは魔神の俯瞰思考故に、ツヴィーテの問いを先読みした。そして彼が真実を知る苦痛を察したのだろう。それは世にも珍しい憎悪の悪魔の恩情だった。


「……エーリカ様とアーシュライアは何処にいるんだ?お前、俺に隠しているだろう」


 しかしツヴィーテは有無を言わさぬ様子で、真実を知るために魔神王さえ問い質す。ここだけ見れば、以前の関係とは逆だ。


「……」


 大変珍しい事に、魔神王となったフェンリルが言葉に詰まった。


「……そうだな。これはお前に渡しておこう」


 フェンリルは、懐から取り出した透き通る様な水色の魔石をツヴィーテに手渡した。


「おい、なんだよ?これは……」


 ツヴィーテとて馬鹿ではない、頭ではすぐに理解できた。フェンリルから渡されたそれが何なのか。だが感情が理解を拒んでいた。


「そいつは形見にしろ。魔石ってのは人の魂を抽出、結晶化させて造る。人の精神エネルギーの塊だ」


「俺が聞いてるのは……そんな事じゃねえ……」


「……その魔石は、アーシュライアだ」


 決定的な真実を告げる言葉が、金槌の様な衝撃と共にツヴィーテに告げられる。ツヴィーテの中で容易く理性が弾けた。


「カゼルッ、貴様あァッ!!」


 激昂したツヴィーテは抜刀し、渾身の一撃をフェンリルに見舞った。

 凄絶な火花が飛び散るも、フェンリルは前腕で受け止めた。フェンリルはどこか、安心しているようにも見えた。まるで、ずっと誰かにそう問い質して欲しかった様にも見えた。

 

「前にも言った筈だツヴィーテ。力が無けりゃ、何一つ守れやしねェと」


 魔神王は、これ以上ない程に優し気な口調で事実を述べる。今のフェンリルの声は地獄から聞こえてくるようで聞くに悍ましい響きだが、それでも出来の悪い部下を諭すような口調だった。だがその対応が、更にツヴィーテの怒りに油を注ぐ。


「てめェ……てめェはッ……!その兜の下で、どんな顔して言ってんだッッ!?」


 ツヴィーテはフェンリルの頭部外骨格を思い切り殴り付けたが、びくともしない。拳を痛め、皮膚が裂けるばかりだった。

 もはや人間ではないフェンリルに表情筋どころか憎悪以外の感情は存在しない、在るのは破壊と殺戮の化身としての機能のみ。


「なんとも思ってねえのかッ!?カゼル!おいッ!何とか言えよッッ……!」


 ツヴィーテは叫びながら、とうとう泣き崩れた。


「なんとも思ってなければ、化けて出たりしねェ」


 フェンリルは元来どんな人間であったかに関わらず、物理的に涙を流す事ももはやできない。その代わりありったけの憎悪を込めた怨嗟の言葉を吐いた。

 フェンリルとて、最早引き返す事叶わぬ修羅の世界の只中にいる。今更顧みる事などなにもない。


「なァ……カゼル……俺は……」


 項垂れたツヴィーテは、滔々と語り始めた。

 その絶望に打ちひしがれた姿は、まるで背教者が今一度神に縋る様に見えた。


「俺は、何度もやったんだ……!助けようとした!何度も、何度も治癒魔法を掛けたんだ!だが、どんなにやっても、蒼い炎が消えなくて……」


 涙さえ凍て付く白銀の世界で、ツヴィーテは懺悔する。


「カゼル……俺はな……!二人を見捨てて、逃げ出したんだ……!」


「俺は……ッ!」


「自分が生き残っただけでも一先ず良しとしろ」


 如何なる因果か、ツヴィーテはかつてのカゼルとまるで同じ道を歩んでいる。だが修羅道の先達としてフェンリルに出来るのは、悪魔の取引を持ち掛けることだけだ。


「ツヴィーテ、あの時の俺達ときたら笑っちまうぐらい無力だったな」


 フェンリルは空を仰いだ。頭部外骨格の亀裂から覗く瞳達はまさに遠い目で空を映し出す。


「足掻いても、結局何一つ変えられなかった」


「だから俺は魔神になって力を得た。この世界に人類と憎悪ある限り、無限に等しい力をな……」


「……」


「俺がこの下らねェ世界を終わらせる」


「ツヴィーテ。お前も魔神になるがいい。この俺"憎悪の悪魔"がお前に人を超越した力を与えよう」


「なん……だと……」


「契約は単純だ」


「お前にとって最も大切な者を俺に差し出せ。人間には耐えられぬ絶望と苦痛が、"力"を得る代償だ」


「そのアーシュライアの魂を自らの手で砕くがいい、ただそれだけだ」


 フェンリルのその言葉は絶望の極致に差し込んだ、ただ一つの希望の光にさえ思えた。否、この絶望から解放されるのであれば、悪魔にでも縋る。今まさに一切合切すべてを失ったツヴィーテの絶望はそれほど深かった。


 滂沱と涙を流しながら、ツヴィーテは右手に握り締めた水色の魔石に力を掛けていく。ぎし、と水色の魔石が鳴る。


 アーシュライア……俺は、弱い。

 弱いからお前を助けられなかった。

 こいつの言う通りなのか?

 力が有れば、もう誰も失わずに済むのか?ならば俺は……


(確かにカゼルは強い、だが戦で強い事と人として強い事は全く別の事だと、私は思っている)

 

 何故、今、あの時の事を思い出す……?

 あれは何時の頃だったか。隔絶した過去の日の記憶が、ツヴィーテの脳裡を過る。


(やはり人として強くなければ、何かを守ることはできないのだろうな)


(……俺には、守れないってのか?)


(ふふふ、お前は優しい人だよ。ツヴィ)


 記憶の断片。優しく笑う水の魔女の姿、どれだけ暗澹たる絶望の只中でも、彼女は……

 限り無い絶望の極致に居たツヴィーテに、何かが「待った」をかけた。


「悪魔になった時、アンタはいったい何を差し出したんだ」


「俺は、"愛の悪魔ベレト"に"帝国特務騎士"を差し出し、己のぞうおを司る悪魔になった。だから、奴等は今もここに"居る"」


 フェンリルが親指で顔の亀裂を指差すとぎょろぎょろ、と多くの瞳が覗く。

 なるほど。通りで、ツヴィーテにとって懐かしさと悍ましさが同居している訳だ。


「俺は……」


 もはやツヴィーテにも何も残っていない。運命に翻弄され続けて来た今日の日ではフェンリルの言葉はこれ以上ない正論に思えた。だが、それでも。


「俺は、アンタとは違う……アンタとは違うやり方で、強くなって見せる……」


 ツヴィーテは、飽くまで人として戦う事を選んだ。それが亡きアーシュライアの薫陶だと信じた。


「フン、そうか。ならばお前は特等席で見届けるがいい。この下らねェ世界のすべてを喰らって生まれ落ちる"完璧な世界"をな……」


 フェンリルも、むしろその選択を歓迎する様に見えた。


 そうして、ツヴィーテは理解した。


 かつて彼が危惧した通り、カゼルは今や歩く厄災と成り果てた。だが、魔神王フェンリルにはまだカゼルの意識が残っているのも事実だ。


 あの帝都での戦いで死んだ者達が無駄死にでなかった事の証明の為に、フェンリルに成り果てて尚、カゼルはまだ戦い続けている。


 ならばカゼルの復讐が果たされた時、その妄執が尽きた時、この悪魔にはいったい何が起きるのか。そして、完全に"憎悪の悪魔"になった魔神王フェンリルをいったい誰が止められるのか。


 フェンリル自身なのか、それともカゼルをフェンリルに変えたベレトなのかは分からない。だが、誰かが計画した通りならば、この北部での戦いはまだ始まりにしか過ぎないのだと……。

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