第90話 空挺魔神王
航空偵察を行っていたベリアルが帰陣した、駐屯軍の基地を発見したとの事だった。詳細を確認し、直ちにフェンリルとベリアルは駐屯軍への攻撃を計画する。
ツヴィーテについては、一先ず先日解放した拠点にて、重傷を負ったスラーナ人捕虜達の治療に当たる事になった。
ベリアルが偵察した前哨基地に於いても、先日フェンリルが徒歩で奇襲を仕掛けた駐屯軍拠点同様、スラーナ人捕虜が極寒の中強制労働に従事させられているとの事だった。
*
「ベリアル、俺を
蝙蝠の様な翼を広げた黒獅子の背に仁王立ちし、白銀の世界を鳥瞰する魔神王。
真冬の北部の高高度。人間であればとっくに凍死または窒息死しているが、彼等は魔神。過酷な環境を物ともしない。
「……本気か?」
ベリアルは一度だけ、己が大将に忠言することにした。
「戦力の逐次投入など下策も下策。だから魔神帝国の最高戦力である俺を投下する、それだけの事だ」
「……分かった、どうしてもヤバくなったら魔力通信で呼べ。気は乗らねえが、必ず回収してやる。てめえは俺様達の大将だからな」
*
「そォら、行って来い!」
ベリアルは魔術によって紫電を発生させた。遠慮なくフェンリルを帯電させると、電磁加速させて地上に向けて発射した。
高高度から、魔神王が隕石さながらに地表へ向けて降り注ぐ。
北部を実効支配する王国駐屯軍の基地へ狙いを定め、ベリアルの"電磁加速"《ダムド・レール》を受け、フェンリル自身が投下された。
この空爆攻撃は、かつて帝都で王国竜騎兵隊が行った空爆の意趣返し。だが、王国竜騎兵隊には誰一人として自らを弾に見立てる異常者などいない。
着地点については、偵察を行ったベリアルが目印として設置しておいたベレトの重力魔法を込めた魔石と、フェンリルが所持する同魔石が互いに引っ張り合い、"
激しい大気摩擦から、紫電を纏った魔神王の外骨格は赤熱し始めた。
熱くはない、痛くも痒くもない。
当然恐怖もなかった。ただ狂おしい程の憎悪を感じていた。もはやそれは心地良くさえあった。憎悪の悪魔の思考回路には、この世界を破壊する術が幾千通り思い付く、それを一つ一つ形にして、この下らぬ世界を否定するのだ。
人間であった頃は、戦う事でしか心の裡で猛り狂うどす黒い憎悪を御することなどできなかった。今はどうか?己自身が、魔神王フェンリルこそが、この世の憎悪の権化として顕現している。
そうして空を切り裂く凶星が、北部を実効支配する王国駐屯軍の最前線基地に降り注いだ。投下地点には小さなクレーターが生じ、地響きが鳴り響く。ベリアルによって放たれたフェンリルは空を裂き、大地を割った。
「駐屯軍諸君、任務御苦労」
砕けた岩盤を押し退け、魔神王が"空挺降下"に呆気に取られた駐屯軍の前にその悍ましい姿を現した。
「我が名はフェンリル、魔神王なり。この基地を明け渡せ、そうすれば命までは取らん」
尤も、この吹雪の中に投げ出されて生き残れる人間がどれだけいるのか知った事ではなかった。
「て、敵襲!!」
「魔神だ、迎撃態勢を取れ!」
息が詰まる様な邪気と殺気。悪魔さえ裸足で逃げ出す様な悍ましい異形。人智を越えた恐怖が駐屯軍達を襲う。辛うじて、駐屯軍達の戦士としての矜持が反撃を敢行させた。
「無駄な足掻きを……」
フェンリルは頭部の亀裂から大剣マスティフを引き摺り出した。
どす黒い魔力を集中させる事によって弓状に変形させたマスティフに、この場で魔力錬成した矢槍の束をつがえ思い切り引き絞る。
「"
"降り注ぐ紅雨"。紅雨とは花を散らす様に降る雨の事だがこの場合、幾千の矢槍が雨の様に降り注いだ後、赤い花々が咲き乱れる。
フェンリルが上空に向けて放った矢とも槍とも言える魔力合金の槍は、駐屯軍の前線基地に降り注ぎ、無数の血の花を咲かせた。
槍衾の様な有様、串刺しになった駐屯軍兵士は数知れない。基地内は血だまりで溢れ、ほんの数秒で地獄に塗り替えられた。
そこで仁王立ちするフェンリルは、まさに魔神の王と呼ぶに相応しい威容だった。
「貴様が魔神王か……」
「ほう?耐えたか」
駐屯軍の将、エルデガルダは両肩にフェンリルの矢槍が突き刺さったまま、マナを使役してフェンリルに旋風魔法を叩き込んだ。
エルデガルダの放った荒れ狂う鎌鼬をまともに受けながら、フェンリルの前進は一切止まらない。かつては致命打でさえあった女神エルマのマナによる魔法攻撃でさえ、その異形の外骨格の前にはほとんど効果がない。
魔法攻撃の直撃を受けながら一歩も止まらなかったフェンリルは、エルデガルダを見下ろしていた。そこには、弱者への憐れみさえ浮かんでいた。
「貴様に命を賭ける理由などあるのか?」
本気で倒そうとした相手に、あろう事か身の上を慮られるという始末。
いつぞやと違ってそれは最早挑発ですらなかった。魔神王の異常な戦力は戦場で弱者を、刃を交える相手すら気遣う余裕さえあるということだ。
「退け。俺は己の意思で戦わぬ者に興味がない」
「誰が降伏などするか……!」
「もう一度だけ言うぞ、退け。その儚い命に比べれば、名誉など何の価値もないゴミだ。たとえ泥に塗れようが、生きてさえいれば幾らでも洗い流せる。死ねば、泥塗れのまま腐り果てるのみ」
エルデガルダには知る由もないが、憎悪の悪魔に成り果てた男の言葉には有無を言わさぬ説得力があった。
フェンリルが再三撤退を勧告するのには幾つか理由がある。いちいち自分が手を下さずとも、人間などこの猛吹雪の中に放り出せば勝手に死ぬのもそうだが、北部はいずれ冒険者ギルドに管理させるのだから、別段ここを占拠している者達を殲滅する必要はないと判断した。
王国駐屯軍によるスラーナ人やリサール人への強制労働に対しこれっぽちも憤りがないと言えば嘘にはなるものの、彼は飽くまで魔神王として己の目的達成の為に行動している、どちらかの一方の立場に立つつもりなどなかった。
そして如何に人間時代は怨敵だったエルマ人や王国軍とて、生かしておけば何かの役に立つだろうという魔神の俯瞰的思考、そして、占領した北部には後に浄水設備を建設する予定がある。
つまりメイヴァーチルの建設ギルドなどで、向こうしばらくは仕事が山ほどある見通しが立っている。要するに、労働力が必要なのだ。
「くたばれ、悪魔がッ!」
「俺は、貴様等が信奉する女神エルマの方が余程"悪"だと思うのだがね。現に、これ程不条理な"
身体強化魔法を発動させた上でのエルデガルダの槍の一突きが炸裂する、それは生半可な甲冑など容易く貫くはずだった。フェンリルは槍で突かれながら、平然と女神に唾を吐きかける言葉を並べ立てる。
「逆に
フェンリルの外骨格に激突する内にブランフォード製アルグ鋼の槍が容易く砕き折れた。
「貴様の目的は王国への侵略だろう!」
エルデガルダは距離を取った、得物が破壊されても、まだ魔法がある。
「俺の目的は"解放"だ、この無法の世界に俺が秩序を与える。"力"でな」
「このッ……化け物が!」
エルデガルダはありったけのマナを振り絞り、旋風魔法を発動させた。
それにより竜巻が巻き起こる。丁度良く似た竜巻がフェンリルらの本拠地、"帝都跡地"でも吹き荒んでいる。それ程の暴風の只中に在ってもフェンリルは仁王立ちのまま微動だにしなかった。女神から授かった魔法ですら、まるで効果が見られない。
別段エルデガルダや駐屯軍が弱い訳ではない、ただフェンリルがイレギュラーだった。
「……そんなに死にたいなら殺してやろう」
フェンリルは、一瞬この世界から姿を消し去った。瓦礫や建物の影を伝ってエルデガルダとの距離を殺す。
いきなりエルデガルダの眼前に現れたフェンリルは既に徒手格闘の構えを取っていた、眼にも止まらぬ速度で右掌底突きを放ち、その後空気が弾ける音が鳴り響いた。それはまさしくメイヴァーチルの"金剛破砕"。相も変わらず人の技を真似るのが得意だ。
エルデガルダもフェンリルが掌底を放つ瞬間までは意識があった。しかし避ける事適わず、顔から夥しい血を撒き散らし、身体ごと弾け飛んだ。
今一つ技の精度が低く、
フェンリルは倒れ臥すエルデガルダにとどめを刺すまでもなく踵を返し、投降を拒否した駐屯軍兵士らに "黒影隷呪"という恐るべき呪いを掛けた。
他者の影にフェンリルの影を混ぜ込むというものだ。
この魔術の最も恐ろしいところは、レジスト出来なければ他者をフェンリルの意のままに操れるということ。
駐屯軍兵士達は身体の自由が一切効かない様子で、ぎこちない動きだ。しかし一歩一歩、顔を砕かれ、横臥するエルデガルダに歩み寄っていく。中には傷が開き著しく出血する者もいた。
「いでえ……いでェよォ……」
「脚が、脚があぁ……!」
「降伏する……降伏するから……!もう、やめてくれぇ……!!」
「エルデガルダ様……たすけてぇ……!」
「体が、体が勝手に!」
駐屯軍兵士達は、横臥するエルデガルダを取り囲んで暴行を振るい始める。
悲痛な面持ちで、しかしエルデガルダに暴行を加えるその動きには一切容赦ない。己の意に反して、上官を殴らせる。それは彼等の魂への陵辱といえる。
「制圧完了した、回収を頼む」
駐屯軍兵士達が、上官であるエルデガルダを打擲する音を背景に、フェンリルは魔力通信でベリアルに告げた。その悪辣さは、まさしく"憎悪の悪魔"と呼ぶにふさわしい。
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