第88話 北部にて

「ぜェッ……ぜッ……」


 吐く息も凍るような極寒。


 そこは北部スラーナ。長く冷たい冬の時期には何もかもが白く凍り付く。

 エストラーデの放った消えぬ火炎魔法、蒼炎が燃え盛り、時には炎の竜巻となって試練の何たるかを示す"帝都跡地"とは別に。

 人類が生き残るにはあまりにも過酷過ぎる白銀一色に染まった大地だ。


 その白銀の極寒地獄では、多くのスラーナ人、そして帝都を焼け出された後北部に亡命したリサール人、帝国軍の残党達が抑留され、強制労働を強いられていた。


 それ以外、ここには特に何もない。


 そのスラーナ人の捕虜の男は衣服を駐屯軍に剝ぎ取られたのか、この猛吹雪の中半裸だった。白く煙る吹雪の中凍った大地に鶴嘴を振り下ろす、手足と耳が感覚を無くして久しいが、まだ付いているのかどうか。確かめる気も起きなかった。


 駐屯軍兵士達は、エストラーデが北部に敷いた絶滅政策の忠実な体現者だった。いつの日も敗者はすべてを奪われて死に逝くのみ。


 女は駐屯軍の営舎で駐屯軍兵士に陵辱される。まだ営舎の中に居られるならマシと言えるのかと言うと、末路は同じ。男は子供から年寄りに至るまで、ただひたすら凍り付いた地面に鶴嘴を振り下ろし続ける。


 変わった事があったとすれば、先日鶴嘴を振り下ろした際の衝撃で左手の小指に続き、薬指が凍って取れたくらいだ。


「外は寒いだろう、お湯を沸かしてやったぞ」


 今日の見張り番の暇潰しの時間だ。当然、ここではお湯などたちどころに凍り付く。


「ぐッ……うああァァァッ!!」


 スラーナ人捕虜の男は、自分にまだ悲鳴を上げるだけの体力が残っていた事に驚いた。


 彼は、抵抗勢力の兵士として駐屯軍と戦った。物量、装備、そして魔法による火力。凡そ戦いの趨勢を決する要素の全てにおいて、駐屯軍が上回っていた。まともに戦いなどなるはずもなかった。


 それでもスラーナ人達は北部を明け渡すより、戦う道を選んだ。元より住む場所を追われて北部に逃げて来た彼等がエルマ人に土地を譲る道理はない。

 彼等の戦列には、リサール人の姿も多くあった。彼等も今や故郷を焼き尽くされた難民。その中には、植民地だった北部に落ち延びた者もいる。その多くは元リサール帝国軍の兵士だった。


 しかし、王国きっての強硬派である女王エストラーデが軍事改革を行った事で、近年のエルマロット王国軍の戦力の飛躍には目を見張るものがある。

 また、西の帝都跡地で猛火が燃え盛り続けている事による環境破壊や気候変動による王国の飢饉や旱魃、それに伴う王国経済の悪化がこの北部への侵略を加速、正当化させた。


 現地のスラーナ人達もかつて帝国にも攻め入る程、血気溢れる屈強な猛者揃いだ。また、リサール帝国の植民地時代に帝国軍訓練場が建造され、徴兵制が敷かれていた事で彼等の練度は高いと言える。


 そんな彼等が得意とするのは雪上での偽装やスキーを用いたゲリラ戦術、奇襲攻撃に始まる近接戦闘。

 かつて帝国軍を苦しませたこの戦術は未だ強力であり、開戦当初は戦力で上回る王国軍に対しても戦果を上げ続けていた。

 だが王国の強力な航空兵である騎竜部隊が投入されてからは話は別。

 彼等の行うマナ探知とマナ通信を用いた偵察により、上空から位置が露見し、地上戦術が通用しなくなった。王国軍にしてみれば、わざわざ敵の得意戦術に付き合う必要はない。


 更に、抵抗勢力の多くは針葉樹林に拠点を構え日中は身を隠していたが、王国騎竜部隊が空から地上に向けて魔法を放つ空爆によって炙り出される事となる。

 エルマ人の魔法によって発生する灼熱の炎は、人の背丈よりも高く降り積もる雪をも溶かし、雪に湿った木々をも焼き尽くす。


 各小隊毎に数名火炎魔法の使い手を配属することで極寒のスラーナでも、王国軍は着実に進軍を続けた。スラーナ人抵抗勢力の決死の奮戦も空しく、北部主要都市を占領された。

 首長は火炙りにされ、市民は女子供に至る迄皆、その場で処刑されるか連行された。ただただ破壊と虐殺だけがあった。


 劣勢に陥ったスラーナ人抵抗勢力、及び帝国軍残党の運命は悲惨を極めた。駐屯軍に捕らえられるか、この白い吹雪に飲まれるかだけ。

 世界の大半の死がそうであるように、そこには救済など遠く及ばない絶望だけがある。


 では収容所に捕らえられ、一命を取り留めた者は、幸運と言えるのか。

 否。全てが白く凍り付き、吹雪が吹き荒れるこの大地では、もはや生きている事が拷問だった。駐屯軍兵士に衣服を剥ぎ取られ、半裸で氷の大地に鶴嘴を振り下ろし続ければどんな屈強な戦士でもすぐにそれを理解できる。


 偶に駐屯軍兵がやって来て、掘った穴に力尽きたスラーナ人やリサール人の捕虜を蹴り落とし、営舎に戻っていく。

 拷問と処刑、それだけがこの"王国駐屯軍捕虜収容所"の機能のすべて。


 皆、この収容所で白く凍り付いていった。昨日まで生きていた者も、この無限に降り積もる雪の中、凍死体に変わっている事は全く珍しくはない。凍死、或いは未来に向けて冷凍保存されたのか。

 もっとも、どこもかしこも地獄の様なこの世界にどんな未来が残されているのか知れたものではないが。


 生きながら凍っていく男の感覚は、麻酔に似た感覚に沈み始め、寒さを感じることを拒否し始めた。諦観が死を許容する。死の忘却が絶望へ処方された特効薬として、最期の救済を与えようとしていた。


 そんな時だった。死に瀕した男は吹雪の向こうから、死よりも悍ましい存在がやって来るのを感じた。

 丸三日続いた強制労働あなほりに疲れ果て、ようやく眠ろうとしていたというのに、人間の知覚領域を越えた絶対的な恐怖によって本能が叩き起こされた。叩き起こされた生存本能は激しく警鐘を鳴らす、「はやく逃げろ」とそう言っている。


 だが、彼に逃げるだけの体力は残されていなかった。男はただ、白く煙る世界に現れた黒き来訪者を眺めている事しかできなかった。

 それは想像を絶する光景だった。死の間際の幻覚や死神の迎えと呼ぶには、余りに禍々しすぎた。近付いてくる気配は余りにも巨大で邪悪、吹雪の中には夥しい数の瞳が爛々と輝いていた。やがて姿を見せたのは真っ黒な騎士の悪魔。


 吹雪の中を歩いて来たのだ、その黒い悪魔も捕虜達同様全身凍り付いている。なのにそいつは、くっくっと乾き切った音を立てて嗤っていた。

 虐殺、略奪、支配、搾取。連鎖する憎悪、ありとあらゆる不条理の数々。どれ程の血が流れても、何一つ変わらないこの世界そのものを嘲笑うかのように嗤っていた。


 いくつもの氷柱が外骨格を装飾する。既に吹雪は大荒れで、その悪魔の腹程まで雪が積もっているが、意にも介さず押し退けて進んで来た。その馬力は牛や馬の比ではなく、雪中行軍というよりまるで春の日の散歩の様に軽やかだった。


「敵襲!」


「魔神だ!総員迎撃態勢!」


 塊のような邪気と殺気を放ちながら現れたフェンリルは直ちに王国駐屯軍に出迎えられた。剣に槍、戦斧、弓や弩、果ては銃撃に攻撃魔法の数々。魔神デーモンの接近という非常事態に緊急招集を受けた駐屯軍の総攻撃は激烈を極めた。


 すべてをその身に受けながら、フェンリルは吹雪に吹かれるのと同様にまるで意にも介していなかった。在ろうことか、死にかけているスラーナ人の捕虜を庇い、酒場で隣席になった者に注いでやるかのように酒を飲ませた。


「飲め、助かるかもしれん」


「……なんだ、死神にしちゃ……ゴツすぎると思ったんだ」


「俺は通りすがりの魔神王。折角だ、貴様等の因果を試すがいい」


 そう言ってフェンリルは、外骨格に酒を仕舞い拳を握った。その間も王国軍の熱烈な歓迎しゅうちゅうほうかを受けたままだ。


「ぬゥあァッ!」


 フェンリルは渾身の力で地面に拳を叩き付けた。凄まじい衝撃により、厚く降り積もった氷雪が砕き割れる。

 フェンリルとしては加減した方だろう、人間達からすると、吹雪から逃れる塹壕には丁度良い。


「死にたくねェ奴は隠れてろ」


 地面を砕き割る膂力を見せつけても、王国軍は怯まなかった。辺境に配置された軍にしては士気が高い。魔神王にも不思議に思うことはある。


「貴様等もだぞ?王国軍駐屯軍、貴様等如き雑兵が束になってもこの俺の前に立ちはだかる事さえ出来ぬと知れ」


「怯むな、撃ち続けろ!」


 フェンリルは静かに顔の亀裂からマスティフを引き摺り出し、飛来した魔法や銃弾、矢を叩き落とし、そのまま両手で構えた。


「ならば望み通りにしてやる……!」


 魔神王が大剣マスティフを薙ぎ払う。メイヴァーチルの研究所を破壊した時に引き続き、再び黒狼災禍ネロ・ディザスターがこの世界を引き裂いた。どす黒い暗黒のエネルギーの奔流が迸り、魔神王の前に立っていた全ての生命を呑み込んだ。


「しっかりしろ!今助ける!」


 手慣れたもので、フェンリルが敵兵を制圧するが早いかツヴィーテは捕虜達の救助に取り掛かる。


「フハハハ、お前が居て助かったぞツヴィーテ」


「そんな言葉は、まだアンタが人間だった頃に聞きたかったね……」

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