北部侵攻

第87話 憎悪の悪魔フェンリル

 ツヴィーテの記憶にあるカゼルの姿そのままに現れたフェンリルは、場違いな音を立てて酒瓶のコルクを抜いて浴びるように飲み干し、空き瓶はメイヴァーチルに押し付けた。

 これはメイヴァーチルがコレクションしている秘蔵の銘酒であり、その値打ちは酒屋で売られている酒とは値札の桁が一つ二つ違う。


 メイヴァーチルの真紅の瞳からは冷たい殺意以外の何も感じられない。彼女のこめかみの辺りに青白く血管が浮き出ていた。


「……興醒めだね。帰るよ、ロズ」


 メイヴァーチルはフェンリルから受け取った酒瓶を握力のみで砕き割り、鼻を鳴らす。破片がきらきらと微弱な日光を反射した。踵を返し、フェンリルと入れ替わりにギルド本部に入っていく。


 どういう関係なのか詳細は不明だが、あのメイヴァーチルを退かせるとは。既になんらかの衝突があり、恐らくはメイヴァーチルが"恐喝"されているのだろうとツヴィーテは推察した。


「アンタも冒険者ギルドで働いてるのか?」


 積もる話はある、それに倍する積年の恨みも。会話においてはツヴィーテが先手を打った。


「俺はいつもの戦争屋じぎょうをやっている」


 フェンリルはカゼルの姿を借りたまま、葉巻に火を付けた。こちらのマッチや高級葉巻もメイヴァーチルのコレクションだ、相変わらずの山賊ぶりである。


「助けてくれた事は礼を言うが……今更アンタに従う義理はないぞ」


「まァ聞けよ。お前に見せたいものがある、スラーナの現状とかな」


「貴様、今度は北部で何をやろうってんだ?」


「気になるなら早速向かうぞ。どうせ路頭に迷ってんだろう、仕事は山ほどある」


*


「懐かしの故郷はどうだ?ツヴィーテ」


 先程、フェンリルは王国冒険者ギルド本部前の広場でいきなり憎悪マスティマを振るい、空間を切り裂いた。

 メイヴァーチルのとはやや異なる、物理的に空間を切り裂いた次元座標移動である。


 恐る恐るツヴィーテがフェンリルに続いて足を進めると、驚くべき事に王国から極寒の世界、石畳から雪景色へ瞬時に移動した。


 ふと氷雪とは違う踏み応え。ツヴィーテが目をやると身体の芯まで凍り付き、遠い春まで冷凍保存された武装した男の死体。

 凍死体ゆえ判別は付きにくいが、恐らくスラーナ人だ。よく見れば同様の死体がそこかしこに無数に転がっている、僅かな血臭はあれど腐敗臭はない。


「……どういうことだ、ここで何が起きてる?」


 フェンリルの次元移動については、一旦棚上げしておく事とした。


「北部では王国駐屯軍によるスラーナ人及びリサール人の絶滅政策が"施行中"ってところだ」


 さもありなん、特に感慨などなくフェンリルは言った。ある程度のインフラを与え、北部を飼い殺しにした生温いリサール帝国のやり方と違って、王国のエストラーデは徹底的に滅ぼすというだけの話だ。


「……北部は解放されたんじゃなかったのか?」


「いい質問だな。確かに帝国が壊滅した事でスラーナは自治を取り戻し、植民地時代は終わりを迎えた。ここ数年の王国軍の侵攻によって、暗黒時代に遡ったがな」


「何故だ、何故こんな事ばかり……」


 ツヴィーテはてっきり、北部は平和なのだと思っていた。何故なら、ここは侵略するコストに対して得られるものが見合わない。まして今は冬。

 フェンリルの言葉通りならば、王国軍はわざわざ魔法で炎を焚きながら北部を侵略し、各地でスラーナ人達の虐殺を繰り広げているという事になる。


 フェンリルの言葉が嘘だと言いたかった。だが、目の前に広がるのは雪に埋もれた廃墟と死体の山は断じて幻ではない。

 最早何処にも帰る場所はないという現実をまざまざと見せつけられ、ツヴィーテは雪に膝を付いてがっくりと項垂れた。


「"黒鎧"としてお前もこの世界を見てきた筈だ。戦争、略奪、虐殺、支配。この世界が死と悪意で満ちているのは他でもない、狂っているのだ。この世界そのものが」


「そして搾取こそ人類社会の本質。お前も冒険者ギルドで働いて、理解したんじゃないか?」


 フェンリルはカゼルの姿で、短くなった葉巻を放り捨てた。そしてツヴィーテに告げる。


「故に俺がこの狂った世界に終焉を告げる。人類は我等、魔神デーモンが支配するのだ」


*


「なるほど。元々悪魔みたいな人間だったが、本当に悪魔になっちまったって訳か」


 一先ず、フェンリルが建てたらしい簡易コテージの中で暖を取る。久々の北部の寒さは、如何にスラーナ人のツヴィーテといえど堪えるものがある。


「思いの外快適だぞ。魔神というのは」


 その言葉を示す証拠の一つとして、フェンリルはさして寒さを問題にしていないようだった。


「それで、どうするつもりだ?」


「人類など我々にとっては食糧に過ぎんが、食糧がなくなっては困るのは魔神も同じ」


「人類を家畜化すると言っている様にしか聞こえん」


 ツヴィーテはフェンリルが用意した保存食の包装を破り、中身の干し肉に喰らい付く。牛肉自体もそうだが、リサール帝国軍風の軍用保存食など久し振りに口にした。

 こいつと乾パンと酒があれば丸一月は戦える。


「察しがいいな。牛や豚や鶏だって、人間に家畜として飼われることで種として一定の繁栄を見せている。むしろ、適切な飼育環境下にある家畜は、野生よりも"安全"で"幸福"だと思わないか?」


 フェンリルは相変わらずの酒飲みぶりだ。


「ふざけるなよ、家畜に尊厳があるとでもいうのか?」


「フン、尊厳で腹は膨れまい?現に今、尊厳の為に王国駐屯軍と戦ったスラーナ人や帝国軍の残党が、駐屯軍の捕虜収容所でどういう扱いを受けていると思う?」


「聞きたくねえよ……」


「ま、そういう事だ。所詮この世は無常。力が無ければ何一つ守れやしねェ、自分の命さえ、だ」


 カゼルはそう言い切ってから、冒険者ギルドから奪ったウイスキーのボトルを飲み干した。


「お前はどうする?ツヴィーテ。同胞を助ける為、魔神になった俺に協力するか?」


「まあ、どうするもお前の自由だ。俺は強要しねェ、逃げたいなら逃げろ。帰りの便くらいなら用意してやるよ」


 ちき、とフェンリルが何処からともなく取り出した憎悪マスティマの鞘が鳴る。今や魔神王の手に収まった魔剣は、以前ツヴィーテが見たときよりも桁違いに禍々しい剣気を放っている。

 最早、生半可な使い手では剣に喰われるのみだろう事は想像に難くない。


「俺は……」


 一先ず魔神王云々についても棚上げし、ツヴィーテは冷静に状況把握に努めた。


 王国軍がこの北部で行っているのは、スラーナ人やリサール人難民の絶滅を前提とした強制労働、虐殺。かつての上司まじんおうが目論むのは、人類の家畜化と繁殖。


 ツヴィーテは、"現時点"ではフェンリルの方がいくらかマシだと判断した。人類の自由や社会正義という観点では、どちらも赤点には違いない。


「……今はアンタに協力する、北部を解放するまでだ」


「フン、ならばいつもの様について来い」


*


「それで、どうするんだ。何か作戦はあるのか」


「状況から伝えよう、我々魔神帝国"軍"は俺とベリアル、ベレトとアスモデウス。お前という義勇兵ボランティアを足して5名。前線にいるのは俺とベリアル、ベレトとアスモデウスは補給係だ」


「……それだけでどうやって駐屯軍と戦うつもりだ?いくらなんでも無茶だろう」


「問題ない、唯一の懸念だったメイヴァーチルとも一応、同盟を結んでいる。あの小賢しいエルフがいつ裏切るか楽しみにしておけ」


「……」


 元よりこの男には底知れぬ部分と浅はかさが同居していたが、魔神になってなお増した様に思えた。


「とりあえずお前には解放した捕虜の救助や手当を任せるぞ。俺に助ける義理はねェが、どっかの馬鹿が助けたがると思ってな」


「ここじゃ俺は帝国軍に協力した裏切り者扱いだ」


「……お前は帝国軍に捕えられて無理矢理戦わされていたとでも言えば良いだろう?」


「お前がそれを言うのか。兄貴を殺し、スラーナを植民地化した張本人のお前が……」


「まァな、俺も多少なり北部の現状には責任を感じないでもない」


「だがな、ツヴィーテ。過去など所詮、人の記憶が生む幻想に過ぎん」


 カゼルの姿でフェンリルは側頭部を指で叩く。魔神への転生が過去との訣別をもたらした。

 そうして得た絶対的な力、ある種の解放或いは救済は、かつてまだカゼルだった時に渇望して止まなかったものだ。


「しかし現在は今この瞬間から変えられる。それも人の"強さ"だ」


「適当な事を言って言い包めたと思うなよ、俺だってスラーナ人を見殺しにはできん」


「ああ、精々悔いのないようにしろ。お前はまだ"生きて"いるのだからな」


 フェンリルがそう言い終わる頃には、白く煙る吹雪の向こうに大柄な漆黒の影が見えてきた。

 軋む様な音を立てながら、騎士甲冑に似た魔神の外骨格がフェンリルの元へ歩いて来る。


「お喋りは終わりだ、俺は駐屯軍を潰す。駐屯軍やレジスタンス共、ブランフォード北方軍についての資料を渡しておく、確認しておけよ」


 そう言いながら、カゼルの姿は次第に輪郭が薄れていく、近付いて来た外骨格に吸い込まれるように消え去った。

 代わりに漆黒の外骨格の頭部の亀裂、そこから覗く無明の闇の中心に赤褐色の光が灯る。


 この世の全てを憎むかの様な邪悪さと禍々しさで濁り切った赤褐色の光。その周りには夥しい数の人間の瞳に似た何かが、虫の複眼の様に備わる。


 先程からツヴィーテが感じていた懐かしさと、カゼルへの恩讐或いは憎悪は消え去った。あるのはただ、異形の魔神への畏怖ばかり。


 人智を超えた魔力合金が軋む、魔神王の外骨格と成り果てた黒鎧の残骸が、のろのろと歩くばかりだった先程とは打って変わり、生命を吹き込まれた様に軽快機敏に動き出した。


 兜に似た頭部の両角はもはや断じて兜の飾りなどではない、その存在が魔神たる証明として天さえ脅かさんと聳え立つ。


 ツヴィーテの人間としての知覚では、フェンリルの真の姿を破壊と殺戮の権化としか形容出来なかった。


 ある種それは悪魔というより闘いの神にさえ思えた。幾千年を闘争に捧げた黒騎士の様に、威厳と勇猛さ、それらに倍する禍々しさに満ちていた。

 

「改めて名乗っておこう。俺は魔神王フェンリル、"憎悪の悪魔"なり」


 白く煙る吹雪が吹き荒ぶ中、漆黒の悪魔が単身進軍を始めた。

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