第72話 フェンリルvsメイヴァーチル

「言っておくが、格闘でボクに勝とうなんて思わない事だ」


 メイヴァーチルがとった徒手格闘の構えは、印象としては静だ。一見すると身を守る為に威嚇する小動物の様でもある。


 しかし、その裏に隠した研ぎ澄まされた暴力の香りをフェンリルは嗅ぎ付けていた。


「心配するな、俺も得意だ」


 当然ながらフェンリルにも心得はある。


「なら、要らぬ心配だったかな」


 互いにじりじりと間合いが詰まっていく。当然フェンリルの方がリーチは遥かに長い。フェンリルの間合いに入った途端、メイヴァーチルは急にフェンリルとの勝負を投げだすかのように、構えを解いておもむろに一歩踏み出した。


 その目はどこを見るでもなく、その歩みはどこまでも悠然として、まるで散歩でもするかのように。

 

 人ならぬ闘争本能を持つフェンリルが、その隙だらけのメイヴァーチルを見逃す筈もなかった。空間ごと切り裂く様な左拳の突きがメイヴァーチルを襲う。


 僅かに顔を掠ったが、メイヴァーチルは止まらなかった。彼女もまた電光石火の勢いで勢い良く飛び上がり、全身でフェンリルの左腕に抱き付いて肘関節をとった。


 こいつ、初手から関節技狙いだと……?


 フェンリルがそう思った瞬間には、メイヴァーチルは全体重を左肘関節に掛け、逆方向にフェンリルを投げ飛ばす。派手に関節が砕ける音が実験室に鳴り響いた。


 クレリックとして回復魔法を極め、それをほぼ自身への回復に充てる事で自己再生能力を獲得したメイヴァーチル。

 彼女は少々の攻撃を受けるリスクを無視して、相手を破壊する大技を狙う事ができる。つまり、死なない前提で捨て身の攻撃を繰り出せるのだ。


「ぐォお……!」


 如何に魔神の王とて、人型である以上関節は存在している。そしてメイヴァーチルの予想通りフェンリルの左腕はだらりと垂れ下がる。


 これで丸腰のフェンリルは、右腕の打撃、蹴り技、あとは魔神の行使する魔術しか出せなくなった。その魔術を放つという選択も、既にメイヴァーチルが肉薄することで潰された。


 竜巻の様なフェンリルの右フックを掻い潜り、メイヴァーチルはフェンリルの懐に飛び込んだ。

 次の瞬間金槌で金属を打った様な激烈な音が鳴り響く。大柄なフェンリルが一瞬持ち上がる程のボディ・アッパーだ。


「ぐおッ……!」


 ばきばき、と乾いた音を立ててフェンリルの腹部外骨格に亀裂が走る。手応えはあった。だが、人ではないフェンリルの動きは一切鈍らない。


 フェンリルの間合いから一旦離れようとした時、メイヴァーチルの足が縫い付けられた様に動かなかった。フェンリルに足を踏み付けられたからだ。


「逃がさん」


 フェンリル渾身の右正拳突きが、メイヴァーチルの顔面を打ち抜いた。


 まともに受けたメイヴァーチルは顔がグシャグシャに潰れ、身体ごと弾き飛ばされた。しかしメイヴァーチルが受け身を取る頃には、その顔は美麗な美少女のそれに再生し、ただ戦いの狂悦に浸った狂躁を形作った。


「はぁッ!」


 メイヴァーチルは勢い良く床を蹴って飛び掛かり、フェンリルの頭に浴びせ蹴りを叩き込んだ。遥かに体格で上回るフェンリルを蹴り飛ばし、実験室の壁面に叩き付ける。


「この程度かい?魔神王」


 メイヴァーチルは傲岸に嗤う。ギルドマスターとして業務をこなすより、むしろこちらの方が本性なのだろう。

 顔を構成するパーツはいずれも華奢で、可憐なエルフのそれでありながら、立ちはだかる者を悉く力で捻じ伏せて来た支配者の表情を浮かべる。


 メイヴァーチルのその気高さと、覇王の如き在り様を見てフェンリルも又、嗤った。


「あァ、残念だが……殴り合いは貴様の方が得意らしい」


 めきめき、とフェンリルの右腕の外骨格が盛り上がる。それが剣の鞘の様にも見えたかと思うと、丁度右手首の辺りに柄が飛び出した。


 フェンリルはへし折れた左腕を無理やりに動かしてその片刃の長剣を一息で抜き放った。その刀身は血を求めるかの様に、蒼白い輝きを放つ。今や魔神王の手に納まったのは魔剣、憎悪マスティマ


 憎悪マスティマの放つ剣気が、血を求める嘶きが、蒼白い靄となって粉砕された主の左腕に纏わり付いた。ただ、獲物を斬らせる為に、憎悪マスティマが血を啜る為に、主の砕けた腕を駆動させる。


「おやおや、丸腰の女の子に武器を使うのかい?」


「謙遜するな。貴様の五体は十分凶器だ」


「そいつは、どうも!」


 白い閃光だけを残し、メイヴァーチルは剣を構えたフェンリルに襲い掛かった。


*


 互いに一撃必殺が一閃する、フェンリルとメイヴァーチルは余りにも熾烈な時を刻んだ。


 メイヴァーチルは余りにも速いフェンリルの剣を籠手で受け止めたが、やはり体格差から弾き飛ばされた。


 フェンリルが剣を抜いてから間合いが更に遠のいた。


 それ以上に、フェンリルは長剣マスティマを左手に構えてから途端に調子が変わった。魔神になる前はリサール人だと言っていた。

 余程剣術に長けたリサール人だったのだろうとメイヴァーチルは推察する。


「せェッ!」


 フェンリルは峰打ちで、飛び込んで来たメイヴァーチルに唐竹斬りを叩き込んだ。


 生きた肉を斬り裂く本分を果たせなかった憎悪マスティマは、不満げに靄を織り成し魔神王の左腕に突き刺した。


 得物の反乱を意にも介さないフェンリル、メイヴァーチルが避けようともせず、その頭で自分の剣を受け止めた事で大層感心した様な声を上げた。


「これは驚いた」


 峰打ちとて頭蓋を砕く事など容易だ。それが、リサール人の転生した魔神王の振るう剣ならば猶更の事。


 メイヴァーチルはそんな男が振るう剣に真っ向から頭突きを叩き込み、威力を殺した。たとえオートヒールによって再生すると分かっていても、そうそうできる芸当ではない。


「おいフェンリル、やる気あるのか?"お前"」


 ここに来て、千年を越える時の鑢に晒されて来たメイヴァーチルにようやく感情らしいものが宿った。

 それは激しい怒り。たかが20年30年も生きていない"小僧"に、手心を加えられる以上の侮辱はなかった。


「ボ、ボス……!どうか冷静に!」


 それが挑発なのか、メイヴァーチルを殺さぬ為の手加減なのかは分からない。だが、フェンリルの方が余裕を持っている事は、傍から見ているローゼンベルグの目には明らかだった。


「いや、俺が悪かったよ」


 目にも止まらぬ速度でマスティマを振り抜いたフェンリル、今度はちゃんと刃の方を相手メイヴァーチルの方に向けて構えた。


「これから"同志"になるのだからな……俺もお前を信じるぞ、メイヴァーチル。くたばってくれるなよ」


 誰かを信じるなどと言うには、フェンリルの声音は余りにも邪悪過ぎた。

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