第2話

 習慣化されつつある二日一組の生活の内、二日目のこと。その日は朝からスペイン広場に陣取って、舟の噴水越しに大階段を眺めていた。似非似顔絵業と平行し、どうにかスケッチをしようとしていた。しかし、一向に鉛筆は動かず、客も素通りするばかり。気付けば日は高く登り、いつの間にか傾いてさえいた。仕方なく画板や画用紙などの画材一式をカバンへ詰め込むと、不意に背後から声をかけられた。

「すみません。日本の方ですか?」

はい?」

 振り返って驚く相手の顔を見るまで、母国語で話しかけられたと気が付かなかった。ここしばらく拙いイタリア語に慣れすぎて、日本語など使っていなかったからだろう。

 動きやすそうな格好の女性。私と同じくらいの年齢だろうか。手には地図を持っており、一目で観光客と分かる。だが、多くの観光客がグループで行動している中、彼女の近く──それどころか遠くにも、様子を伺う誰かの姿は見られない。別行動とも考えられるのに、私は何故だか漠然と一人旅かと推察していた。

「ごめんなさい。……だから、えっと、スクージーすみません?」

 ついイタリア語で反応してしまった私を、少なくとも日本人ではないと判断したらしい女性は、一瞬、戸惑い、すぐにたどたどしいイタリア語を私へ投げた。少し前の私を見るかのようなカタカナな発音だった。

 そのまま女性が一礼し背を向けたところで、はたと私は気が付き、慌てて声に彼女を追わせた。

「待って!」

 思いの外、大きな声が出てしまった。

 内心で舌打ちをしていた私を肯定するように、逃げ去ろうと人波を掻い潜っていた彼女は、突如、その場で身を硬直させる。

 再び驚いた顔でこちらを向き、棒立ちとなってしまっている彼女へ、私は浮かぶ言葉を母国語へと再翻訳しながら口を開いた。

「すみません、日本人です。久しぶりだったもので」

 途端、彼女の表情が華やいだ。それこそ希望を見出したかのよう。

「よかった……」

 声を皮切りに長く息を吐き出した彼女は、ゆったり人を避けつつ私の方へと戻ってくる。今度は急ぐ様子もなく、安堵の色が見て取れた。

「道を聞きたいんですけど……、トレヴィの泉ってどこですか?」

 開かれた彼女の地図を覗くようにして、まずはスペイン広場を探し出す。ホテルなどに置かれている観光者向けの地図ならば、名所がイラストとなっているため、その一つであるスペイン広場など、簡単に見つけられる。だが、普通の──それも、旅行ガイド本の付録と思しき縮尺の小さい地図から特定の場所を探し出すのは、中々に骨が折れる作業だった。恐らく、一ヶ月前の私では、見つけることすら叶わなかっただろう。

「えっと、今がここで……」

 沈黙も気まずく、私は声に出しながら現在地へと指を置いた。確認も兼ねてのことだ。『スペイン広場』はこの字で間違いないはず。女性からの反論は無く、そのままトレヴィの泉の方向へと滑らせて行く。スペイン広場とトレヴィの泉は、そう遠くは離れていない。直線距離で五百メートルと言ったところか。街を縮小した地図の上ではなおのこと。僅か数センチの移動で、目的地を示す小さな文字に指が重なった。

「ここがトレヴィの泉です」

 続けて、出来る限り分かりやすい道のりを示そうとした途端、小さくも鮮明に息を飲む声が耳に触れた。顔を上げると、つい数瞬前まで確かに無言で地図を凝視していたはずの女性が、口は少しだけ、瞼は大きく開けていた。

 狼狽。

 どうやら彼女は驚き、あまつさえ困惑しているようだった。

「……どうかしましたか?」

 もし、何か、重大な事柄であれば、彼女自身から話し始めるだろうし、気にせず説明を続行しても問題なかったのかもしれないが、気付いてしまったからには、気になってしまう。会ったばかりのほとんど見ず知らずの女性ではあるが、言葉を交わし合っている以上、微細でも何処かに刺さった違和感を私はそのままには出来なかった。

「いえ……。私、コロッセオから来たんです……」

 彼女の口から出たのは、この場にそぐわないイタリアを代表する観光名所の一つだった。かの有名な巨大円形闘技場は、地図でもその特徴的なまでの形状を残しており、私でもすぐに見つけられる。スペイン広場から見て、ほぼトレヴィの泉と同じ方角。

 しかし、その距離はトレヴィの泉から倍近くも進まなければならない。

 たかが、ほぼ。されど、ほぼ。

 つまるところ、彼女は目的地を通り過ぎてここへと辿り着いてしまったらしい。

「……似てる道や入り組んでる場所もありますからね」

 心にも無い擁護をする私へ、女性は慣れている風に苦笑して見せる。

「昔から地図が苦手なんです。反対方向に行かなかっただけ今回はマシですかね」

 深刻な方向音痴に加え、まず間違いなく、イタリア語が不得手だろう女性。

 借りているアパートで、白いままのキャンバスへと向かう私。

 後は道を教えるだけ。

 たったそれだけで私と彼女の関係性は元の他人へと完全に戻り、この広くも狭いローマ──ひいては地球で、それぞれの道を再び歩み始めることになる。

 しかし、乗りかかった舟。

「……案内しましょうか?」

「良いんですか!」

 寂しそうだった笑顔も一変、食い気味に申し出を受け取る女性からは、やや大げさともいえる喜びが見えた。あわや手を掴まれそうな勢いだった。

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