7

 ヒヤマは朦朧とした意識の中で、カガミの体が、徐々に人間の姿へ戻りつつあるのを見た。

 やがてカガミの上半身は、完全に人間のそれを取り戻す。

 カガミの目はうつろであるが、意識までは失っていないように見える。

 そこへ、

『兄さん』

 手術室全体に響き渡る放送。

――この……声……

 ヒヤマには聞き覚えがある声だった。

「マヒメ……か……どうして」

 弱弱しい声でカガミは言った。

――マヒメ……シュリ大佐の名前……

『マリー大佐に場所を聞きました』

「マリーに……こっちの様子を見ているのか?」

『はい、監視カメラで。兄さん、もうやめて下さい』

「そうか、マヒメ……無事だったんだね。連絡が……来たときは、驚いたよ」

 うつ伏せから仰向けに体勢を変えるカガミ。

『……ええ、なんとか。ヒヤマさんに助けてもらったんです』

「ヒヤマ……に?」

 カガミはヒヤマのほうへ顔を向ける。

 ヒヤマもまたカガミのほうを見た。

 二人の目が合う。カガミは、胸中を探られたくないような、無の表情をしていた。

 きっとカガミからもヒヤマは無の表情に見えていたことだろう。

『ヒヤマさんが病院に運んでくれなかったら、私は死んでました。ヒヤマさんは恩人です。だから、もう彼らを許してあげてください』

「……それは出来ない」

『なぜですか?』

「いつも言っているだろ……これは、神の意思だ。それとこれとは話が違う」

『神の意思……』

「どうしたんだいマヒメ……君のほうが神に夢中だったじゃないか。カガニウムで変形した父さんを研究して禍獣を生み出した。君こそ神の使者じゃないか」

『兄さん、私は間違っていました。あんなもの生み出すべきじゃなかった。兄さんを……禍獣にするべきじゃなかった』

「なに言っているんだ。君のおかげで、ヒヤマスギトを殺せたんだ。その子供達も……これから殺せるんだ」

『もうその力を使わないで下さい。兄さんのは安定していません。まだ初期の頃の手術で不完全なんです。使いすぎると死んでしまいます」

「わかっているよ……あと二人だけだ」

『二人を殺してもなんの意味もありません』

「意味はある。神が許してくれるかもしれない。またコロナオペルタが現れてくれるかもしれない」

『……確かに神は許してくれるかもしれない。でも、お父さんは? 生きていたらきっと許してくれません』

「父さん……?」

『兄さんは……なんでお父さんが自殺したと思っているんですか?」

「……コロナオペルタを失い、人間に絶望したからだ」

『そこまでわかっているのに、どうしてお父さんを絶望させた人間と同じことを私達はしているんですか?』

「同じこと?」

『お父さんが生きていたら、繁栄した今のリディルは無い。だってお父さんなら禍獣を利用して儲けるなんてことはしない』

「……金が目的じゃない。いい贖罪じゃないか。いい皮肉じゃないか。欲にまみれた人間がコロナオペルタを殺したせいで、禍獣が生まれたなんて。それに父さんが身を持ってカガニウムの特性を教えてくれたんだぞ。父さんが自暴自棄になってカガニウムを飲み込まなければ、禍獣を生み出せなかったんだ」

『ねえ、兄さん……同じですよ。私達は私達の大義や利益のために、禍獣を、コロナオペルタを利用しています。自分の利益のためにコロナオペルタを殺したヤナセさんやヒヤマスギトさんとなにも変わらない』

「違う! これは、コロナオペルタの……」

『お父さんは、復讐したり、誰かを恨んだりしたくないから死んだんですよ。でも兄さん……私達は人間に見えない戦争を起こしている。お父さんが憎んだ戦争を』

「違う……」

 カガミは壁を頼って立ち上がり、『父』の前まで歩いた。

「父さん……違うよね……僕は間違ってないよね」

『兄さん……』

 カガミは『父』に覆いかぶさる。

「僕は自分の利益なんて考えたことないよ。父さんが平和を目指したこと、ちゃんとわかっているよ。それを台無しにした人間へ、当然の報いを与えているだけだよ。父さん言ってたじゃないか。コロナオペルタは神だって。神の御慈悲だって。だからわかっているよ。ヒヤマキリフジやヒヤマユリを苦しめて殺したら、もう禍獣を作るつもりもないんだ。だって神は優しいから、もう一度コロナオペルタは現れてくれるはずだから。そうしたら禍獣なんて必要ない。戦争のない世界だって目指せるはず。ねえ、僕は立派だよね? こんな平和的な考えが間違ってなんていないよね……?」

 カガミの全身が黒くなっていく。顔が狼へと変形する。

『兄さんやめて!』

 金属がきしむような不快な音とともに、カガミはぎこちなくヒヤマへ顔を向けた。

 ヒヤマも、全身の焼けるような痛みに耐え、立ち上がる。

 カガミの姿は、またイチゴウへと変わった。

「僕は……間違っていない……ああぁあーー!!」

 カガミの突進。

 ヒヤマは右の狼口で迎え撃つ。

 激突。

 手応えは、あった。

 たしかにカガミの体を咬み砕いたような感触を得た。

 だが――

「ぐあああああ!!」

 右脇下に激痛があった。

 ヒヤマは膝をつく。

 それと同時に、狼口だった腕が、床にぼとりと落ちた。

 どうやら、ちぎられたようである。

『兄さん! ヒヤマさん!』

 視界が、白くぼやけはじめていく。

 対してカガミは、ふらふらと後ずさる。そして人間の姿に戻り、血のまじった嘔吐をはじめる。腹からも出血がみられる。それは、ヒヤマがつけた傷だろう。

『ヒヤマ! 大丈夫か?』

 新しい声だった。

「……マリー……大佐?」

『そうだ。すぐにヘリで向かう』

「いや……マリー……さん、ユリを……保護、して……くれ……世田谷、病院。地下」

『ユリを?』

 カガミはふらつきつつも出口の方へ向かっていた。途中、何度か嘔吐で立ち止まりながらではあるが、確実に出口に近付いている。

「カガミが……ユリの……ところへいくかも……」

『しかしお前のほうが……』

「先に……ユリを」

 カガミは今にも手術室から出ようというところだ。

『兄さん! 待って、どこにいくの!』

 シュリの言葉にカガミは振り返る。

 生気のない顔だった。元々白い肌が一層白く、げっそりと頬はこけ、その目にはなにも映っていないようだ。手にはいつの間にか『父』を持っている。

 ヒヤマのことは視界に入っているはずだが、それさえも認識できないかのようだ。

『わかった。世田谷のリディル軍病院だな。その後お前のところに行くから。それまで死ぬなよ』

「は……い」

 カガミは手術室から出て行った。

 ヒヤマはカガミを追うことは、もう出来なかった。

 しかしカガミのほうもあの状態では、おそらくまともに移動出来ないだろう。

「シュリ……さん」

『ヒヤマさん! しゃべらないで! 安静にしていてください。禍獣の身体の生命力は並大抵ではありません。きっとあなたは助かります』

 薄らいでいく意識の中で、ヒヤマは最後の力を振り絞って言葉を出した。

「あの……お……願いが……あり……ます」



(四章終わり)

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