2

 ガントリークレーンが、トラックからいともたやすく大きなコンテナを持ち上げる。

 悪意の塊は、速やかに船に積まれていった。

 その船は、これからスギトが船長を務めるコンテナ船、スミノエである。

 スギトは暗澹たる気持ちで、その様子を眺めていた。

 あのコンテナについている所有者コードやチェックデジットは、よく見ると通常のものとは違う。おそらくなにか細工が施してあり、時間か海水で消えてしまうのだろう。どうやって通関システムをやり過ごしたのかはわからない。スギトはヤナセの友人でありながら、その権力を恐ろしく思った。

 あれは海底に沈む作りで、一定の水圧がかかると薬剤が浸み出すのだと、ヤナセから聞いている。

 ここまでは皮肉にも準備万端であった。これからの問題は、あのコンテナを海に落とすことが出来るかどうかである。ヤナセは船員のなかにも協力者がいると言っていた。コンテナを固定するツイストロックやラッシングバーに細工をするのだろうが、スギトにはそれが簡単にいくようには思えなかった。

 そして問題はもう一つ、目的地までの航路はきっと船員達の賛同を得られないだろう。スギトが決めた航路は、最短距離である大圏航路を大きく外れている。さらに台風が通り過ぎていったばかりで海象的にも良いとは言えなかった。普通なら出港日を遅らせるところだが、ヤナセに期限を指定されている。さらにヤナセが言うには、コンテナ落としは悪天候がいいとのことだった。多くの反対や疑問を受けて、強行しなければならない。

――神様……お許しください。

 浮かんだ言葉をかき消すように、すぐにスギトは激しく頭を掻いた。

 身勝手な祈りだと、自らを恥じた。

――地獄に落ちればいい……俺は。なあ、そうだろう……?

 苦楽を共にしてきた巨大な船は、スギトになにも語らない。


 出港の日。

 午前十時に横浜港を出たスミノエはまず北上を開始した。

 その後東北沖で東に航路をとる予定だ。そしてヤナセから指定された海域であのコンテナを落とすのだ。

 ヤナセからはコンテナを落とす作業には関わらなくていいと言われている。そのかわり船内での異常を見逃してくれという話だった。

 いわばこの計画におけるスギトの役割は、航路を計画することが主で、つまりその役割の大半は終わっているはずだった。

 しかし……。

 出航してから三時間。海象は悪かった。抜けて行った台風が温帯低気圧として残っている。

 スギトはブリッジで双眼鏡をのぞく。

――まずいな……

 目測でも波は高く見える。

「キャプテン……私なんかが言うのもおこがましいのですが、まだ北上しますか? ここで東に舵をきりませんか?」

 操舵手のタナカが言った。どうやら彼はヤナセの息はかかっていないらしい。

 この言葉を聞いていた二等航海士のミズタは、眉間に皺を寄せ、スギトの顔を伺っている。

「いや、北上だ。速度をいったん落とそうか」

「……わかりました」

 タナカの返事は明らかに不満そうである。

 スギトは胸の内でタナカに詫びた。彼の言う通りにするのが安全なのである。スギトもそれは当たり前にわかっている。だが、ここでいったん東に舵を切ってしまうと、潮の流れをつかみ、北太平洋海流まで一直線なのだ。ヤナセが指定した海域はここよりもっと北東で、今、東に舵を切るのは早すぎる。

 そして航路だけでなくスギトは時間も気にしていた。スギトは、出来るならば指定の海域に二十時から二十四時の間に到着したい、と思っているのだ。この時間の甲板部の当直は、三等航海士とまだ経験の浅い操舵手である。さらに機関部もこの時間は三等機関士が当直だ。

 加えて目立たない夜、コンテナ落としは二十時から二十四時がベストなのだ。


 次の日。

 スミノエは無事に北上を終え、今は太平洋を東に進んでいる。もう少しで指定の海域だ。

 だが、相変わらず海象は良くない。スミノエは低速を余儀なくされた。

 船長室にノックがある。

「失礼します」

 入ってきたのは二等航海士ミズタだった。手には天気図を持っている。

 真っ黒に日焼けした肌に彫りの深い顔。ただでさえ厳ついその顔つきに、多くの不承を宿している。

「キャプテン。この航路で行くならいったん漂躊ひょうちゅうして下さい」

 漂躊とは機関を停止し、風浪に任せて船を漂流させる方法である。

「……駄目だ」

「何故ですか?」

「それはもちろん遅れるからだ」

 苦しい言い訳だったが、それ以外に言えることはなかった。スギトは胃が縮こまるような思いだった。

 ミズタは一層表情を険しくし、机の上に置かれた海図の前へくると、

「キャプテン、今日のキャプテンはなにかおかしいです。こんな不自然な航路、普段のキャプテンなら絶対にとりません。今、風力は強風以上ですよ? チャートを見て下さい。このままいくと、この地点で暴風になるおそれがあります」

 ミズタが指したところは、奇しくもヤナセが指定した海域だった。

「あと……いったいこの船はなにを運んでいるんですか?」

「……それはどういう意味だ」

「正直に言います。キャプテン。私は密輸を疑っています。もしくは洋上でなんらかの取引をされるおつもりなのではないですか?」

「なにを言ってるんだ。そんなことあるはずがないだろう」

「港にいた荷役チームは見たことのない人間ばかりでした。それに、二番の左舷と右舷にコンテナを積んでいます。これはどういうことですか?」

 なんだって、と思わずスギトは声をあげそうになった。スミノエの積載マニュアルでは、そこにコンテナを積んではいけないことになっている。

 サギングモーメント、と呼ばれる船首と船尾を上方へ曲げる外力が大きくなるからだ。

「……中身は軽いものなんだろう。チーフのカトウは何て言っている」

「キャプテンと同じように中身は軽いから問題ないと言っていました。私は今回のチーフとは初めてです。今までキャプテンの船では、たとえ軽いからと言っても、あそこにコンテナを積むことはなかったじゃないですか。なにか、いろいろとおかしいですよ」

「……密輸なんかでは決してない。この船が予定に遅れずに航海するのを優先しているだけだ」

「……わかりました。漂躊はしませんか?」

「漂躊するほどでもない。今より風浪が強くなったら速度をさらに落として様子を見るが……」

 ミズタはため息になりそこねたような息を吐き、「そうですか」と言い船長室から出て行った。

 スギトは心が痛かった。己の人生で、ここまでなにかに不誠実であったことはない。

 船長であることを表す袖章を引き剥がそうと試みる。だがしっかりと縫い付けられた四本ラインは、かたくなにその役目を守っている。

――もう船に乗る資格はないな……


 その日の二十三時。

 ついにスミノエは目的の海域付近まで来た。

 スギトの思惑通り、ブリッジにいる船員は三等航海士である。二十四時をまわると二等航海士のミズタがやってくる。

――ここからどうやってコンテナを落とすのか……?

 コンテナ落としには関わらないとはいえ、スギトは緊張していた。

 おそらく一等航海士のカトウがヤナセの協力者だろう、とスギトは読んでいた。貨物の管理は一等航海士の担当である。きっとカトウがなんらかのアクションを起こすのであろう。

――それにしても、波が高い……

 大きく揺れるブリッジ内は、なにかに捕まっていなければ立っていられないほどだ。

 わざわざ細工なんかしなくてもコンテナは落ちるかもしれない、とスギトは思った。

 左舷から約十度方向、大きな波が襲いかかってきた。

 船首は派手に波の中に突っ込み、ブリッジのガラス窓をしぶきが激しく打ちつけた。

 次に船首から海面に落ち、船体は強く叩きつけられる。スギトは手すりに捕まっていたが、ものの見事に前方へ投げ出されガラス窓に頬を打ってしまう。

「大丈夫ですか?」

 三等航海士のイシダが言った。

「大丈夫だ」

 スギトは頬をさする。

 ややあって、ぎいぎいと船体が鳴いた。船体の振動、ホイッピングである。

――この音……

 妙な違和感があった。

「……ホイッピングの音が変じゃないか?」

「え、そ、そうですか……? 怖いこと言わないで下さいよ……」

 イシダは露骨に不安そうな顔をした。

 スギトは急ぎリモートコントロール装置の前まで移動すると、

「ストップエンジン!」

 そう言ってテレグラフハンドルを操作する。ついですぐに船内電話で機関室に電話をかける。機関士が出ると、

「突然停止してすまない。さっきのスラミングで船体からなにか嫌な音がする。機関に異常はないか?」

『こっちは今のところ特に異常はありません』

「わかった。ありがとう。注意してくれ。しばらく漂躊する」

 スギトの心拍数は高かった。周りの様々な音がいつもより大きく聞こえていた。自身の衣擦れまでもはっきりと。

――なんだ。この胸騒ぎは。

 スミノエがなにかを伝えようとしているのではないか、そんなことを思った。

――スミノエ……ひょっとしてお前、駄目なのか……?

 大きな波を受けて船首が持ち上げられ、海面に落ちることをスラミングという。もちろんこれは危険ではある。しかし船体が確実に破壊されるということでもないし、スミノエがスラミングを受けたのは初めてでもない。だがスギトは次の瞬間、非常ベルを鳴らしていた。

「キャ、キャプテン?」

 イシダは驚いたような声をあげた。スギトは続けて船内放送を行う。

「総員非常配置。折損のおそれあり。各自厚着をしてイマ―ションスーツの用意をせよ。繰り返す。総員非常配置。折損のおそれあり。厚着をしてイマ―ションスーツの用意をせよ」

「ひ、非常配置……」

「イシダ、お前も早く準備しろ。おそらくスミノエは持たない」

「折損したんですか?」

「まだしていない。だが……」

 スギトが言いかけたそのときだった。さっきと同じような角度から巨大な波が襲いかかる。

 まず船首が上がり、船体がきつく傾いた。スギトら船員達は近くの手すりに掴まって堪える。

 そして二度目のスラミング。船体が海面に叩きつけられると、凄まじい轟音が鳴り響いた。ついで通り過ぎた波が船尾を持ち上げる。さらに新しい波によって船首が上がり始めると、船体が座屈していくのがスギトにはわかった。

 めきめきと悲鳴をあげるスミノエ。

 そしていくらもしないうちに、スミノエは耳をつんざく甲高い叫びをあげた。

――折損した!

 スギトはすかさず船内放送を入れる。

「総員退船! 乗艇部署! 総員退船! 乗艇部署!」

「遭難通報入れます!」

 イシダが言う。

「俺がやる! お前はさっさと自分の退船準備しろ! 急げ!」

 スギトは遭難警報を発信すると、船長室へ走った。

 浸水警報が鳴っている。船体はまだ完全に折れているわけではない、がそのうち真っ二つになるだろう、とスギトは予想した。

 重要書類をかき集め、イマ―ションスーツの中に入れる。そしてそれを着用し、ライトを首から下げる。

――これは、海に飛び込むことになるかもしれない……

 スギトが船長室を出たところで大きく船は傾きはじめる。勢い、スギトはブリッジ内を転がり、甲板へ出るドアへとぶつかった。

 船はさらに、ドアがそのまま床になるほど傾斜する。そしてスギトの床となったドアが開く。スギトは外に放り出される間一髪、とっさにドアの取っ手にぶら下がる。

 急な落下の衝撃を受け、肩が外れるような痛みを覚えた。

「ぐっううう……」

 次第に熱くなっていく肩。ブチブチと筋繊維が切れていくのがわかった。

 徐々に取っ手を掴む指からも力が抜けていく。イマ―ションスーツ越しでは余計に力が必要だった。

 取っ手を離す寸前のところだった、船体は元に戻る。

 痛みから解放されたことに安堵する間も無く、スギトは這って甲板へ出る。

 すぐに救命艇を探した。が、すでにそれはそこにはない。

――先に出たか……仕方ない。

 スギトは立ち上がり、船首方向を見た。

「スミノエ、すまなかった……」

 スミノエはスギトに答えるように、獣の鳴き声のようなホイッピングをした。

 再び船体が横方向に傾き始める。スギトはすかさずしゃがみこむ。傾斜がつくと、甲板は海水で滑り台のようになり、スギトは落ちていく。

 柵の手前、足裏でブレーキをかけるが勢いは止まらない。そこでスギトは体の方向を変え、自身の側面で柵と衝突する。

 肋骨に衝撃がある。これが平常時なら、しばらくはのたうちまわるほどの痛みだった。

 船体の傾きが元に戻り始める。

――反対方向に傾斜を始めたらまずい……

 痛みに耐え、柵を掴む。肋骨と、さっき痛めた肩が熱かった。

 柵を乗り越えると、船体はさっきとは反対の方向へ傾斜を始めている。そこでスギトは躊躇することなく、海に身を投げた。

 落下の途中、傾いた船体に腕がかすった。あと少し飛ぶのが遅かったらぶつかっていたかもしれない。

 着水。海水はイマ―ションスーツのおかげで顔以外は冷たくない。 

 だが、ひどい絶望感である。

 ほとんどなにも見えない暗い海、頻繁に顔にかかる波が恐怖を煽った。

――俺はここで死ぬのか……

 スーツの浮力で沈むことはないが、スギトは必要以上に手足を動かした。

――それが俺への報いなのかもしれない……

 そのとき、スミノエが爆発音のような大きな叫びをあげた。

 スギトは驚き、すぐにライトを点けてスミノエを確認した。

 ついにスミノエは完璧に真っ二つになったのだった。

 海の中へバラバラとコンテナが落ちていく。

――ヤナセ……お前、まさかこうなる事を望んでいたんじゃないよな……?

 すると、スギトの近くへコンテナが落ちた。派手に水しぶきが上がり、スギトの顔を打つ。

――まずい!

 スギトはスミノエから離れるように泳ぎをはじめるが、荒れ狂う海の中ではほとんど進まない。

 現実に迫った死の恐怖は巨大だった。すぐ背後から死神が追いかけてきているようである。

 もう二度と妻と子供に会えないかもしれない、それがたまらなく恐ろしかった。

 スギトは必死であがいた。 

 波をかぶり、海水を飲み込み、それを吐き、涙を流し、鼻水を垂らし……泳ぎとも言えないような、手足をバタつかせるだけの不格好な動きで海面を進む。

 傍から見たらなんとも無様な姿だっただろう。

 スギトは必死で生きようともがいていた。

 しばらくして、なにかにぶつかる。

――コンテナか……?

 ライトを照らすと、それはなんと幸運にもスミノエの救命艇である。

 スミノエの救命艇は上面を覆った潜水艇タイプであり、ハッチを開けないと中には入れない。

「入れてくれ!」

 そう言って船体を叩く。少ししてハッチが開く。

「キャプテン!」

 出迎えたのはイシダだ。スギトは倒れ込むように中に入る。

「待てずにすみません。思った以上にスミノエが傾いてしまい。すぐに降下してしまいました」

 イシダは頭を下げた。

「謝らなくていい。それが正しい。これは右舷の救命艇か?」

「そうです」

 スギトは乗っている顔ぶれを確認し、

「こっちには九人乗るはずだが……一人足りなくないか? ミズタは?」

「それが……キャプテンと同じく、こっちには間に合いませんでした。左舷のほうに乗ってくれてればいいんですが……」

 スギトは言葉を失った。

 後悔の念とともに、ミズタの無事を切に願った。

 だがその願いもむなしく、ミズタ、そして一等航海士のカトウはこの海難で命を落としていたのであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る