7

 冷たい雨が降っている。

 ヒヤマがヤナセ宅に着いたのは二十三時をまわったところであった。

 インターホンを押す前に、ヒヤマはふと手を止めた。

――会ってどうする……

 まさか殺すわけにもいくまい。しかし、だからといって会わないわけにもいかない。

 ヒヤマは弱い力でインターフォンに触れた。鳴らなければいい、そんな小さな願いもむなしく、電子音が響く。

 幸いかどうかはわからないが、ヤナセは起きていた。

『キリ君じゃないか、すぐ入りなさい』

 ヒヤマが言葉を発する前に、門戸が自動で解錠される。おそらく禍獣の姿であるヒヤマを気遣ったのであろう、素早い解錠だった。 

 ヤナセは笑顔でヒヤマを迎え入れた。

「キリ君!」

 手にはバスタオルを持っている。ヒヤマはそれを受け取り、遠慮がちに体を拭く。

「おじさん、こんな遅くにすみません。起こしちゃいましたか」

「いや、丁度寝付けなくてね。晩酌してたところだ。無事で良かった……一ヶ月も連絡しないなんて駄目じゃないか」

「すみません……」

 以前と同じように居間に通される。テーブルにはウイスキーグラスが載っていた。

 二人がソファに座ると、ヤナセは次々とヒヤマに質問を浴びせた。

 どうしていなくなったのか、どこにいたのか、なにをしていたのか、一つ一つ丁寧にヒヤマは答えていく。

「それで、リディルが禍獣を作っている証拠は掴めたのかい?」

「リディルの社長、カガミから一応言質は取りました……だけど証拠らしい証拠はありません」

「言質を取ったのならいいじゃないか! リディルが禍獣をつくっていたのが確かなら、すぐに世間に公表しよう」

「待って下さい。実はユリを人質に取られているんです」

「なんだって!」

「下手なことをしたらユリが殺されてしまいます」

「やつらはなぜそんなことを……黙っていれば、ユリ君は無事なのか?」

「それが……」

 ヒヤマは言い淀んだ。

「なにか別の要求があるのか? 金か? ユリ君の為なら、いくらでも出すぞ」

 本気でユリを気遣っているような言いようである。こうまで言ってくれる人に、カガミが突きつけた条件を伝えるのは心憂い。

「その……お金……ではなく」

「なんだ、遠慮なく言ってみなさい」

「……おじさんは、リディルに恨みを買うような覚えってなにかありますか?」

 ヤナセは黙った。思いがけない質問だったのだろう。

 ヒヤマはヤナセの目を見れず、じっとテーブル上のグラスを見ていた。

 不意に、氷が、小気味の良い音で身じろぐ。

「そうか……」

 ヤナセはグラスに手を伸ばした。

 ヒヤマはグラスの行方を追おうとはせず、視線はテーブルに固めたままヤナセの次の言葉を待った。

「リディルが、私を恨んでいるのか……」

 ここでヒヤマは顔をあげた。

「身に覚えが……あるんですか……?」

「心当たりは……ある。だが、それをリディルが知っているはずがないと思っていた」

 ヤナセは顔をしかめた。

 次の言葉が出てくるまでに、ヤナセのグラスの中、氷が再度崩れる。

「……あれは、丁度戦争が終わったころだったかな。端的に言うと、私は、リディルのエネルギー事業を潰したんだ」

「な、なんでですか?」

「当時、ヤナセオイルでは微細藻類を利用したバイオ燃料生産が実用化されようというところだった。だが、そこにある極秘情報が飛び込んできたんだ。リディルが、有機物を取り込んで炭化水素を生成する微生物を発見した、という情報だ。これは微細藻類と同じく石油の代わりになる微生物だ。そしてリディルが発見したものは、うちの何倍も効率がいいとのことだった……」

 ヤナセは一口ウイスキーを含んだ。そして続ける。

「その情報を教えてくれたのがハシバという男だ。僕の大学時代の同期でね。当時は経産省資源燃料部の部長だった」

「ハシバって、まさか現経産省事務次官のハシバですか?」

「そうだ」

「なぜ経産省の役人がおじさんにそれを教えたんです?」

「……もう一人、サヤマという男がいた。この男は同じく経産省の新エネルギー部部長だった。サヤマはリディルの先代社長カガミダンの友人だ。そしてこのサヤマとハシバは仲が悪く、派閥争いをしていたんだよ。ハシバは新エネルギー部にスパイを送り込んでいてね、ある日ハシバはサヤマがリディルと組んで新エネルギーの功績をあげようとしている情報を掴んだ。そして僕にその事業を潰せないかと持ちかけてきたんだよ……」

「その誘いにおじさんは乗ったんですか?」

 ヤナセはゆっくりと頷いた。

「ヤナセオイルとしても国内エネルギー生産のシェアを、ぽっと出のリディルに奪われるわけにはいかなかった……」

 ヤナセのやったことは許されることではない。リディルに恨まれるには十分な理由である。

 だがヒヤマは、どういう訳かこの話を全て鵜呑みにする気にはなれなかった。

 ヤナセが嘘をついているとは思っていない。どこかに引っ掛かりがあった。

「どうやって潰したんですか?」

「それは……」

 ヤナセは突然胸を押さえ、前かがみになる。

「おじさん! 大丈夫ですか?」

「すまない。ちょっと血圧があがってしまったかな」

「薬は?」

「いや、大丈夫だ……少し安静にしてれば落ち着くよ」

「すみません血圧上げるような話をして」

「キリ君が謝ることじゃない。それで、リディルはどんな要求をしてきたんだ? 私を連れて来いと言ってたのか?」

「……言いづらいのですが、リディルの社長カガミはおじさんを亡き者にしろと言ってきました」

「……そうか」

 気まずい時間が流れた。もちろんヒヤマはヤナせを殺すつもりなど毛頭ない。ヤナセもそれはきっとわかっているだろう。しかしだからといってお互いに気分のいいものではない。そんな中、先に口を開いたのはヤナセだった。

「キリ君、私をカガミさんのところに連れて行ってくれ」

「いや、それは……危険です」

 きっとヤナセは殺されてしまうだろう。

「でもユリ君が危ないのなら、行く以外にないだろう」

 ヒヤマは黙った。返答に窮する中で、ふとさっきの引っ掛かりの正体が判然した。

――おじさんの話では禍獣につながらない……

 なるほど確かにヤナセには恨まれる理由がある。だがリディルが禍獣を作る経緯や、どうやって作っているのか、どうして自分が選ばれたのか、そしてヤナセに対する復讐ならなぜ今始まったのか、はっきり説明がつかない。

 ここでヒヤマのインプレに着信があった。

 ヒヤマはインプレを確認して、

「おじさん、とりあえずここを離れよう。ここにいたら危険だ。住所はバレてるはずだから」


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