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 イチゴウの出現予測地点となった住宅地は、山を切り拓いて造られたもので、傾斜がきつい。

 そのメインストリートとなる坂の麓、住宅地入り口付近が出現予測の中心地点となっている。

 事前に禍獣の出現予測があった場合は、この中心地点から半径二キロの周辺住民は避難させられる。

 ヒヤマは中心地点から五百メートルほど上ったところにある民家の庭に待機した。もう少し近寄ることも考えたが、イチゴウが本当に出現した場合、大型ASSの巻き添えになる可能性がある。そしてこの民家の庭は崖に面していて、麓を見渡すことが可能であり、待機場所としてはベストに思えた。


 出現予測時間まで、およそ二十分。

 付近ではすでにCBD隊員が見回りをしているのが見受けられた。避難に遅れた住民を探しているのだろう。人の気配を感じれば庭くらいなら入ってくることもある。今待機しているこの庭は家屋の裏にあり、道路に面してはいないが警戒は必要である。

 今回はイチゴウが『出現しない』ことを確認するだけのつもりだが、実は心のどこかで、見つかってもいい、とも少し思っていた。

 自分のイチゴウに対する感情を利用されるのが許せなかった。リディルに一撃を入れてやりたいという気持ちがある。見つかった場合のCBSUとの戦闘も覚悟していた。

 そこへ人の声がある。無線でやりとりしているのだろうか、一人で「了解」などと言っている。かなり近い。 

――一応隠れるか。

 崖寄りにある物置の裏に移動する。

――しかしなぜこの民家の敷地に都合よく入ってくる……しらみ潰しに探しているからか、それとも……

 ヒヤマは自分が禍獣レーダーに反応しない、ということはわかっている。身を隠していたときに見つからなかったからだ。そもそも禍獣レーダーというものの機能さえヒヤマには怪しく思えていた。自作自演ならそんなもの機能しなくていいのだ。

 ヒヤマは空を見上げる。

――なにも飛んでいない……いや、ステルスドローンか?

 光学迷彩を施されたドローンが高高度で飛んでいたら、視認は難しい。そしてもしドローンにカメラだけでなくサーモグラフィーも積まれていたら、この場所になにかがいると識別されてしまう。

――ドローンがもし飛んでいたとしても、服は着ているから、禍獣かどうかの判断は難しいだろうが……

 ヒヤマは目立たないように直立で静止した。

 息をひそめ、CBD隊員の動向をじっと窺う。

 一人分の足音が聞こえてくる。庭に入ってきたようだ。

――ここを覗くなよ……覗いたら……

 ヒヤマは拳を握りしめる。

「誰か居ますかー? 禍獣警報が出てます。居たら避難してくださーい」

 少し高音の、なんとも呑気な声だった。声の印象から、なんとなくこのCBD隊員は人が好さそうだと想像する。

「いませんかー?」

 段々と足音は物置に近づいてくる。

――止せ……こっちに来るな。うまく加減出来るかわからんぞ……

 ちょうど物置の反対側あたりで足音は止まり、急に静かになる。

 ヒヤマは身構えた。

――もし来たら打撃じゃなく、絞め落とすほうが安全か……

 などと考えていたら、

「地点ベータ、了解。引き揚げます」

 と声があった。

 ヒヤマは安堵のため息を漏らし、あることを思い出す。

 CBD隊員は基本的に、禍獣が現われてからは避難に遅れた人間の捜索はしない。この場の捜索を打ち切った、ということは、禍獣が現れた可能性が高い。

 ヒヤマは急ぎ、麓を見た。そこには確かに、先ほどまではなかった黒いなにかがあった。

――禍獣か?

 それは狼のようで、見方によってはイチゴウに似ている。

 近寄りたいが今はASSを照射しているかもしれない。すぐに向かうのは危険である。

 ヒヤマは己の右手が無意識のうちに変形していたのに気がついた。小指から人差し指までがくっつき、掌の外周に沿って牙のような棘が生える。親指はそれを受けるように拡がり、同じように牙が現れる。それは狼の口のようだった。

 それと同時にヒヤマの心は大きく揺れた。

 ――どうする……

 そもそもイチゴウは出現しないと高をくくっていたのだ。実際にイチゴウを目の当たりにした自分の感情の波立ちなど、想像出来るはずもなかった。

――俺は何をするつもりだった……? 禍獣の研究施設を突き止める? 人間に戻る? CBSUと戦う? 禍獣を食らう?

 ヒヤマは崖のほうへ一歩、踏み出す。

 直近の目的は、自分が人間に戻ることである。しかし少年時代からの悲願は、禍獣を理解することである。

 もう二度と会えないと思っていた宿敵がそこにいる。このことに、ヒヤマは行動の優先度がわからなくなっていた。

――今行ったらCBSUと交戦に……でも……イチゴウが……

 ヒヤマの思考は瞭然たる輪郭を失いはじめていた。

 しかしその閉じていく世界からヒヤマを引き戻す、突然の声があった。

「あのぉ……」

 驚き、声のほうを見るヒヤマ。

「え! か、禍獣……!?」

 それはさきほどの人の好さそうな声。

――しまった、まだいたのか!

 隊員はすでに、禍獣出現を知らせる発信機のボタンに手をかけていた。

――こうなったら……

 間に合わないと即座に判断したヒヤマは、隊員を無視して崖の方へ飛ぶ。

 ヒヤマは崖の下、分譲予定地に降り立つと、衣服を脱ぎ捨てる。

 次いで、移動を開始する。

 道は、網目状にたくさんの分岐があるが、広い道を選んで走っていく。

 するとすぐにメインストリート坂に出た。そこから下っていくと、禍獣の場所まではあっという間であった。大通りとぶつかるT字路。そいつはそこで佇んでいた。

 その姿は狼のようで、確かにイチゴウそっくりである。目は閉じていた。

――イチゴウなのか……? 少し小さいか?

 禍獣は大人しい状態である。ASS照射が終わった後なのかもしれない。ヒヤマはさらに近づいてみることにした。

 すぐそばまでくると、ヒヤマは思わず、狼の口に変形した右手で、禍獣の顎を噛んだ。

――俺は今、どんな表情をしている……?

 冷静であるような気がしているが、それは表層であって、その実本当は混沌とした感情を泳いでいるのかもしれない。

 ヒヤマは徐々に右手に力を込めていく。禍獣の顎はなかなか砕けない。

――砕けろ、砕けろ、砕けろ。喰ってやるんだ。喰ってやるんだ。

 そのときだった。

「おやおや、これは?」


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