8
手紙で指定された場所は、ヒヤマ家から南に四キロ程離れた都立野川公園の駐車場であった。
二百台以上は駐車できるであろう広さだったが、目当ての車はすぐに見つかった。その車はキャンピングカーであるうえに、深夜だからか、他に止まっている車は数台ほどだったからだ。
ヒヤマはキャンピングカーのロックを解除し、中に入る。すると自動で明かりが点く。中には誰もいなかった。
車の部屋は外からは見えないが、ヒヤマはなんとなく落ち着かず、明かりを消した。
ソファに腰掛けると、急に睡魔が襲ってきた。
――そういえば、禍獣になってから一度も眠っていなかったな……
禍獣も眠気を覚えるのか、と考えているうちに意識は薄らいでいく。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
聞きなれた声で目を覚ますと、そこには世界で一番見たい顔があった。
「ユリ」
「やっぱり。お兄ちゃんなのね」
ユリは今にも泣きそうな顔で言った。
「そうだ」
「ひどい声」
「キレイに声が出せない」
「体は? 痛くない?」
「ああ、今は痛みとかは全然ない。それより……タイシのこと、本当にすまなかった。容態はどうなってる?」
ユリは首を振る。
「意識は戻ってない。回復するかは、まだわからないって……」
「そうか……本当に……申し訳ないことをした……」
もし自分の命を捧げてタイシを回復させられるなら、喜んでそうしたいとヒヤマは思った。
「なんで刺したの? 錯乱してたの?」
「そうだ。あのとき俺にはタイシが禍獣に見えていて……」
「今は? 私のことは禍獣に見えるの?」
「ちゃんと人間にみえるよ」
「そう……タイ君は大丈夫だよ。タフなんだから」
ヒヤマを気遣って出た言葉でもあるだろう。だが、タイシの回復を信じて疑わない芯の通った力強さもあった。
「そうだな……タイシは、俺よりも強い……きっと……」
ヒヤマが高校三年生のときである。インターハイ柔道八十一キロ級決勝、それがタイシとの初めての出会いだ。二連覇を狙うヒヤマの相手がタイシだった。
タイシは当時全くのダークホースで、決勝まで来たのは番狂わせであった。関係者の予想はもちろんヒヤマの圧勝だ。ヒヤマも当然自分の勝利を疑わなかった。
だが試合結果は、大方の予想を裏切る形となる。
試合はまるでボクシングのような激しい組手争いから始まる。ヒヤマが有利に襟を握ろうものなら、タイシは信じがたい力でその手を外しにかかる。ヒヤマがそれまで体験したことのない力だった。
試合中盤、得意の背負いでヒヤマは技ありを取る。そのまま寝技に持ち込もうとしたが、ここでは素早くタイシに『亀』の防御体勢を取られ、『待て』がかかる。
開始位置まで戻るとき、タイシが笑いながら言った。
「はは! やっぱつえぇな」
それは嬉しそうな声であった。強がりから出た声ではない、とヒヤマは感じた。純粋に試合を楽しんでいるようであった。
あと数秒で試合終了というとき、崩しもない強引な内またをタイシが繰り出してきた。
カウンターで軸足を刈ってやろう、ヒヤマはそう考えた。が、この無謀とも言える内またに、ヒヤマは見事に宙を舞った。
単純に力で持っていかれたのだ。あとから映像で見返しても、こんな雑な技を食らうような体勢ではなかった。逆境だったからか、あのときのタイシの力は人間離れしていた。
――そうだ、タイシは逆境であればあるほど信じられん力を発揮するんだ。今回だって……
「お兄ちゃん、服持ってきたから、着てみて」
「服?」
「でも着れるかな? ごつごつしてるし」
ユリは持っていた紙袋をあさる。
「いや、なんで……」
「なんでじゃないわよ。そこに疑問持たないでよ。お兄ちゃん今裸ってことでしょ。やばいわよ。変質者よ」
「ま、まあ確かに……」
「適当に持ってきたから、着てみて。はい、まずパンツ」
「下着もか?」
「むしろ下着をはかない理由って何?」
「まあ、そう言われたらそうだが……」
そのまま履くのを試みるが、ふくらはぎが出っ張っていて止まってしまう。無理にあげることも出来るが、破れそうである。
「やっぱり入らないね……もっと大きなサイズ買わないと」
「いや、ひょっとしたら……」
ヒヤマは意識を集中した。
今まで体を小さく変形させることはしなかった。それは出来ないと決めつけていたのだ。だがいざ試してみると、人間だったときのサイズに戻すことが出来た。体の鋭角なラインも極力滑らかにする。右腕の刃もしまった。
「体が変形するの……?」
「ああ、自在に変えられるみたいだ。翼を作ったりな。だけど小さくするのは初めてだ。体積を大きくするより、小さくするほうがエネルギーがいるな……けっこうきつい」
「ずっときついの?」
「いや、変形のときだけだ。一度変形してしまえばキープにエネルギーはいらないみたいだな」
「そっか……あ、着られるね」
「ああ、そうだな。服持ってきてくれて正解だった。顔や手さえ見られなければ、普通の人間と変わらないだろう。移動が楽になる」
「良かった。お財布とインプレも持ってきたから。渡しておくね」
「ありがとう。ところでこの車はマリー大佐のものか?」
鉢の中の手紙には、マリー大佐は味方であるということが書かれてあったのだ。
「そう、マリーさんの。キャンプが好きらしいの。あ、連絡しないと」
ユリはインプレで電話をかける。
その間にヒヤマは心の中でマリー大佐に感謝した。自分のことを助ける義理もないのに、危険を教えてくれた。
「マリーさん、いまからCBSUの上層部に保護してもらえるようにかけあってくれるみたい」
「そうか。良かった……そういえば今何時だ?」
「午前九時だよ」
「日付は?」
「九月二十二日」
――最後の記憶から約三か月経っているのか……
「ねえ、ご飯食べる? お腹は減るの?」
「空腹感はある」
「買ってきたから、食べよ」
ユリはコンビニのビニール袋からサンドイッチやおにぎりを出す。だがヒヤマはそれらを食べるのを躊躇した。
「どうしたの?」
「いや……」
――食べる? これを?
空腹ではあるし、おそらく食べられるだろう。だが、『イチゴウ』の表情がちらついた。禍獣である自分が何かを食らう、という行為が、なにか越えてはならない一線のような気がした。
「おらあ」
「ぐ!」
ユリが突然おにぎりを口に突っ込んでくる。
「ほふべんあにする……」
「お兄ちゃんまた難しいこと考えてるんでしょ? お腹空いてるなら食べときゃいいのよ」
ヒヤマは抗議をしようと思ったが、別の事に気がとられた。おにぎりの味を感じなかったのだ。
咀嚼し飲みこんだあと、
「ユリ……鏡もってないか?」
「え、持ってないけど、ちょっと待って探してみる」
鏡はすぐに見つかった。ソファ隣にあった収納戸棚の内側についていた。
ヒヤマは自分の顔を観察する。禍獣になってから自分の顔をじっくりと観察するのは、これがはじめてである。
それは元の顔をかたどった金属マスクのようであった。だが右眼とその周りだけが、人間の眼と皮膚をしている。
次に口を開いてみる。口は横に大きく裂けていて、人間だったときよりも開く。まるで顎が外れたみたいな可動域だ。歯は大きく、白く、尖っていて、本数も多い。
――舌はない……
「どうしたの? おにぎりまずかった?」
「そうじゃない。味がしなくてな」
――わかってはいたが、人間とはかけ離れている。元に戻るなんて……
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。きっと元に戻れるよ。タイ君も助かる」
ユリはそう言ってヒヤマの手を握った。
――なんで俺はユリに支えられてるんだ。辛いのはユリのほうだ。情けない……
「ユリ」
「ん?」
「ありがとな」
「うん」
――絶対人間に戻る。戻って、俺をこんな姿にした奴を見つけ出す……!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます