7

 ヒヤマが禍獣になってから、二日目の夜を迎えた。

 これまでずっと更衣室に潜んでいたのだが、幸いにも人は来なかった。

 気温も感じず、今日が何月何日なのかすらもわからないヒヤマにとって、昼間も更衣室にとどまることは賭けであった。が、プールの水の濁り具合から、おそらく営業はないだろうと見込んでいた。

 しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 禍獣から人間に戻るには、結局CBSUの協力が必要だろう。自分が元は人間だということをCBSUに伝えて、まず保護してもらうことが最善手だと結論付けた。もちろん保護されたとして、人間に戻る方法があるかはわからないのだが。

 さらに保護してもらう、といってもことはそう単純ではない。なんせヒヤマはCBSUの宿敵、禍獣になってしまったのだ。タイシを病院に運んだことで、人間の思考を持っていることが伝わればいいが、それもあまり期待は出来ないだろう。普通に対峙しては、戦闘になるだけだ。

 だから、まずはユリに伝える。

 はっきり言って会わせる顔などないのだが、それ以外に方法はないように思えた。ユリ経由でCBSUに伝えてもらうのだ。

 昨夜からの練習で会話を出来るくらいまでの発声は可能になった。だがまだ明瞭ではない。集中してこちらの声を聞いてもらわなければ雑音に聞こえるレベルだ。

 ここで一番の問題は、『会話までどうやってもっていくか』である。

 ユリに会えたとして、雑音に聞こえるような声では何も伝わらない。まず会話の前に、自分が危害を加える存在ではない、と理解してもらわなければならない。ジェスチャーなり筆談なりでなんとか会話までもっていくのだ。

――いずれにしてもここにいてはなにも解決にはならない。

 ヒヤマはとにかく自分の家に帰ることを決めた。家に帰れば、自分が兄であるということを伝えられるなにがしかの方法があるような気がした。

 ここから家までの移動に関しては、タイシを運んだ経験から、それほど難しくはないとヒヤマは考えていた。

 体は黒く、夜の闇にまぎれて走れば目立ちはしない。全速を出せば人間の目で捉えるのは難しいだろう。

 さらに念には念を入れ、黒いカーテンを外し、身にまとう。

 更衣室の時計を見ると、深夜二時をまわったところである。

 ヒヤマは更衣室を出て、周囲を警戒しながら移動する。

 大通りまではすぐだった。

 最近では車は自動運転がほとんどである。乗員は前方を注視するのを一応義務つけられているが、本を読んだり、端末をいじったりと、あまり前をみていないケースが多い。この時間なら居眠りしている人間も少なくない。

 ヒヤマは車道を走り出す。前を走っていた車にすぐに追いつくが一気に抜き去る。タイシを背負っていたときよりもずっと早い速度だ。

――この速度なら、見られてもなにかの間違いと思うだろう。

 そして走りながらヒヤマは、ある可能性に気づいた。

――これなら、ひょっとして……

 ヒヤマは全力でジャンプした。最高点まで来たところで、背中に大きな翼を形成する。カーテンを突き破って出たそれは、片翼だけでも身長の二倍はある、横に広い翼だ。

 するとヒヤマは見事に飛行しはじめた。慣性に任せた滑空に近いものだったが、まぎれもなく空を飛んでいる。

 翼を生やして空を飛ぶ。誰もが一度は描く夢の実現であるが、ヒヤマに大きな感動はなかった。

――こんな状況じゃなかったら最高の気分なんだろうが……

 眼下に広がるのは厭味なくらいロマンチックな情景である。普通なら、闇にちりばめられた光の粒に見惚れない者などいないのだろう。

 それからしばらくすると、ヒヤマ家の最寄駅が見えてきた。

――さて、着陸だが……

 なにしろ思いつきでの飛行なので、着陸に関しての案はない。しかしヒヤマは環七での経験から、高いところから落ちても問題はないだろうと考えていた。

――迷っていても仕方ない。

 ヒヤマは翼をしまう。するとすぐに滑空の安定を無くし、ヒヤマは急速に地上に引き寄せられる。

 落下先は大きなスーパーの屋上だった。斜めに突き刺さるように落ちたヒヤマは、なんとか受け身を取るが、それでも屋上の面を転がり、端の扶壁にぶつかってやっと止まる。

――くっ! これは難しいな……

 着陸は綺麗ではなかったが、さしてダメージはない。

 そして想定してたよりずっと早く着いた。飛行に気づいたのは思わぬ収穫であった。

 ヒヤマは扶壁に立ち、自宅の方角を確認する。ここから自宅までは直線距離で四百メートルほどだろうか。立ち並ぶ家やビルに遮られて、自宅は見えない。

――もしCBSUがまだ待機していたらやっかいだな……

 ヒヤマはもう少し近づいてみることにした。

 ビルからビルへ跳躍し、屋上づたいに移動を始める。

 少しして、自宅から斜向かいにある、小さなビルの屋上に到着した。

 自宅は門明かりが点いていて、ここからよく見えた。玄関は青いビニールシートに覆われている。そして外門の前に警官が一人立っている。

――警官……簡単に倒せるだろうが、傷つけたくはない。どうするか……

 考えていると、ヒヤマは眺めに違和感を覚えた。

――なんだあれ? あんなものあったか。

 それは警官から少し離れた門壁の前に置かれていた。ヒヤマには見覚えのないものだった。

――鉢?

 禍獣の体のおかげか、視力も良い。その鉢も良く見えた。よく観察すると、鉢の中のなにかが門灯りを反射している。

――なんだ? なにかキラキラと……あれは、ガラスか? 鉢の中にガラス?

 ヒヤマの気持ちは波立った。

――なぜ、ガラスが……

 初めて見るものなのに、何故だかあれを知っているような気がした。記憶の糸を辿っていくと、やがて、

――……雹だ。

 あの鉢は、少年時代にヒヤマがダメにした朝顔の鉢を模している。

――なんであの朝顔の鉢が?

 あの朝顔のエピソードはユリにしか話していない。

 そこであれは、『ユリのヒヤマに向けたメッセージ』だとヒヤマは理解した。

 そして、ユリが『なにかを伝えようとしている』ということはつまり、

――ユリは、俺が禍獣になったと理解している……?

 ヒヤマは少し肩が軽くなった。最大の難関がクリアされたのだ。だが、同時に疑問を抱いた。

――なぜこんなまわりくどい方法なのだ?

 看板でも出しておく方がよっぽど確実である。これは、自分にしか伝わらないようなメッセージだ。メッセージを出していることを他の誰にも知られてはいけないような方法だ。

――ユリが今の俺を俺とわかっているなら、CBSUにもそのことを伝えているはず。どういうことだ? 

 ヒヤマはひとまず鉢を回収することに決めた。

 ビルを降り、警官に見られない角まで慎重に近づく。鉢は角を曲がってすぐのところにある。しかしそこは警官の視界にも入る。

 ヒヤマはそこで、まとっていたカーテンを高く放り投げる。カーテンは、鉢とヒヤマがいる角とは反対の方向に、うまいこと落ちた。

 警官の注意がカーテンに向かっているその隙に、ヒヤマは鉢を急いで回収する。警官には、なんとか見られずに済んだようだ。

 そしてすぐ、ヒヤマは先ほどのビルの屋上へと戻った。

 そこで鉢の土を掘ってみると、中から一通の手紙と、見覚えのない車の鍵が出てきた。



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