4

 ヒヤマはリディル軍病院のすぐ隣、世田谷公園内プールの更衣室に身を潜めた。夜は誰も来ないだろうという判断だ。

 少し落ち着いたヒヤマは、改めて自分の状況を考えた。

 気がついたらなぜかデコボコウエンにいた。ひどい全身の痛みがあって、そのときは声も出せない状態だ。

――今は喋れるのだろうか?

「あ……るあぁ……いぁぁえあ」

 音は問題なく出るようになったが、言葉にはならない。その音も、人間が発する音とは異なる音だ。

 だが、何度か発声を繰り返していくうちに、声に変化があった。

 だんだんと音が整っていく。と、同時に喉にかゆみを覚えた。先ほどの体が変形する感覚と似ている。

 自分の体が意思によって変わっていく感覚。それが喉にも起きている。ついに、

「あ……い……う……えお」

 ぎりぎり五十音として認識できそうな音になった。

――ひょっとして禍獣は望みどおりに体を変形させたり、適応させたりできるのか?

 ヒヤマは自分の右腕を見た。タイシを貫き、信号機を斬りおとした刃がついている。

――これも自分の意思で形作られたもの……

 ヒヤマは壁に体を預け、そのままずるずるとへたりこんだ。

 自分の親友であり、妹の婚約者を刺した事実に、このまま死にたい思いだった。

――もしかして、親父と母さんを殺したのも……俺じゃないのか?

 あのとき両親を殺した禍獣、狼のような禍獣だった。あれもひょっとしたら自分なのかもしれない。記憶が都合のいいように改変されたのだ。そうヒヤマは考えかけた……

――いや、違う。あれは違う。あのときの記憶は間違いなく現実だ……しっかりしろ。冷静に状況を分析しろ。今は過去のことは置いておけ。

 ヒヤマは首を強く振ったあと、左の拳で自分の額を何度も殴った。痛みはない。

――この感覚……自分が人間ではない別の『なにか』になったのは間違いない。ほぼ間違いなく禍獣だ……じゃあ、いつから禍獣になったんだ? 人間だったときの最後の記憶は……

 ふと思い浮かんだのはシュリの顔である。シュリ、禍獣回収研究課の課長であり、リディル軍の大佐だ。記憶の中で、シュリがなにかを説明している。



「なぜ、アースフォースや他の軍事会社を差し置いて、リディル社だけが禍獣に対抗できると思いますか?」

 CBSUの手術にむけたオリエンテーションでのことだ。会議室で、シュリは十人ほどの候補生にそう問いかけた。

「CBSUがあるからです」

 候補生の一人が答える。

「そうですね。ではなぜ、CBSUだけが禍獣に対抗できるのでしょう?」

 この問いかけには誰も答えられなかった。それは当然であった。企業秘密だからだ。なぜCBSUだけが禍獣に対抗できるか、それはCBSUとリディル軍の幹部しか知らない。

「実は戦場を限定すれば、リディル軍じゃなくても禍獣に対抗出来るでしょう。例えば旧自衛隊でも禍獣と戦えるのではないかと思います」

 顔にかかる銀髪を、シュリはけだるそうに薬指で耳にかけ、続ける。

「ですがこれは、民間人のいない平原が戦場の場合に限ります。禍獣が恐ろしいのは、人間基準の利害を持たない獣で、戦場となるそのほとんどが市街地になるからです。もちろん核爆弾でそこら中を吹き飛ばせば、さしもの禍獣にもダメージを与えられるでしょう。だけどそういう訳にはいきません。我々には守らなければならない日常があります。ここが禍獣の厄介なところです。禍獣は小さな体に不釣り合いな大きな暴力を持っている。我々が大きな武力で対抗したら、自ら被害を甚大にさせてしまう。小さな武力で戦っても、返り討ちに合う。だから対抗するのが困難なのです」

 ここまでのシュリの話は、ヒヤマも含めた候補生の誰もがわかっていることだ。知りたいことはその先だった。

「そこで我々は小さな武力を変えようと考えました。たどり着いた答えがチップとゲノム編集です。明日の手術でみなさんにチップを埋め込むことはお話しました。ゲノム編集は初めてお伝えしますね。あらためて補足する必要もないかもしれませんが、ゲノム編集とは遺伝子操作のことで、私の専門分野です。この二つにより、あなた達は超人に生まれ変わります」

 候補生たちは黙っていたが、緊張が部屋に走るのがわかった。

「試験とオリエンテーションで念入りに身体検査をしたのはゲノム編集のためです。人間が持ちえない強靭な形状の筋繊維をゲノム編集で形成します。さらにチップは脳のニューロンに作用し、運動神経とその筋力を飛躍的に向上させます。手術を終えたあなた方の身体能力は、もはや人間のそれではありません。ですがこれはかなり個人差が出ます。みなさんもご存知のマリー大佐のように、化け物じみた力を手に入れる隊員もいれば、そこまでは能力が上がらない隊員もいます。そしてこれらにより、CBSUは、『人間のみ』でC4I(シーフォーアイ)システムを実行することが可能になります。CBSUではこれをC4IS(シーフォーアイエス)システムと呼んでいます」

 C4Iシステムを簡単に言うと、戦いの情報を、コンピューターで統制して指揮する仕組みである。それは戦略から交戦まで、さまざまな規模の戦いにおいて使われる。

「足されたSは『SENSE』、感覚です。禍獣と相対したCBSU隊は、その位置情報や敵戦力を、他の隊員と感覚で共有することが可能になります。もちろん距離の制限はありますが、他の隊員が禍獣を捕捉すれば、目をつぶっていてもその位置が分かります。他の隊員の動きも同時に分かります。これにより、CBSU隊は、今までなし得なかった連携を可能にし、圧倒的速さを誇る禍獣との戦闘が可能になるのです」



――チップ……俺には手術を受けた記憶はない……じゃあ、最後の記憶はいつだ……

 手術当日の朝をヒヤマは思い出した。

 ヒヤマがリディル軍病院の門に到着したそのとき、なにかが空から降ってきた。

 そして次の瞬間、腹部に強烈な痛みがあり、気を失った。それはあっという間の出来事であった。

――そうだ! これが、最後の記憶だ……! 

 空から降ってきたなにか。今にして思えば、それは禍獣だったに違いない。

――あのとき禍獣はどうして迷わずに俺を狙ったんだ? たまたまなのか、それとも意図的なのか……俺が禍獣になったこと、さっきの襲撃、親父と母さんが殺されたこと、とても偶然とは思えない。ひょっとして俺は……誰かに禍獣にされたんじゃないのか? 

 ヒヤマは寒気を覚えた。なんらかの悪意がこちらを観察しているようだった。不意に、父の言葉が蘇る。

『幸も不幸も自分に起こることの全ては、自分によるのだ』

――親父……これも俺のせいなのかよ……

 ヒヤマもこのときばかりは、父の言葉に反発したくなった。

――ふざけんな、俺が一体なにしたって言うんだ。ただ……ただ禍獣を追っていただけじゃないか……

 するとその感情に呼応するように、ヒヤマの体はみるみるいびつに変形していく。いくつものとげ状の突起が、体のあちこちから生えた。

――ああ……本物の化け物だ。俺は……本物の化け物になっちまった……

 とげが、天井を削る。ぱらぱらと天井の一部が落ちてくる。

――俺は、人間に戻れるのだろうか……? 戻れるのだとしたら、どうやって……? 俺はなにをすればいい……?

 ヒヤマは暗い空間で、ただ一人考えを巡らせるのであった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る