3

 タイシの意識はない。傷口にタオルを当てて服で縛ったが、出血はまだ完全には止まっていない。

 ヒヤマは焦っていた。自分自身に起きた異変よりも、今はタイシの容態の方に心を奪われていた。

 しかし禍獣となったおかげで、走る速度は車よりずっと早い。おまけに感覚が研ぎ澄まされている。走る車や障害物、歩行者などをしっかりと捉え、避けながら走れた。

 目指しているのは世田谷のリディル軍病院である。ヒヤマはここに、身体検査などで何度か訪れたことがある。

 自宅の近所にも大きな総合病院があるが、そこは選ばなかった。なぜならタイシにはCBSUのチップが入っている。これは機密情報であり、一般に知られてはいない。チップが治療になんらかの影響を及ぼすかもしれないと判断し、リディル軍病院に運ぶことにしたのだ。

 当初、ヒヤマはタイシをファイヤーマンズキャリーと呼ばれる担ぎ方で運んでいた。うつ伏せ状態のタイシの右脇下に己の首をいれ、両肩でタイシの上半身全体を支える――しかし走っている中でその担ぎ方は変わっていった。

 ヒヤマは走りながらあることに気付いた。それは、己の体が変形することである。

 これも禍獣になった影響であろう。変形は自在にコントロールできた。

 そこでヒヤマは、背中にL字型の突起物を形づくり、タイシをその突起物に座らせる。ヒヤマとタイシは背中合わせの状態となり、次にタイシの体をベルト状に変形させた皮膚で固定する。それにより、傷口を抑えることも出来た。

 猛スピードで走るヒヤマ。次々に車を追い抜き、交差点はジャンプして飛び越える。大きな跳躍だ。滑空と言っても差し支えないほどの跳躍で行きかう車を飛び越した。

 遠くでサイレンの音が聞こえるが、近くには来ていない。

――この調子なら、あと少しで着く。

 しかし、それは環七通りだった。時速二百キロメートルはゆうに超えるであろう速度のヒヤマに、併走するものがあった。

 このときヒヤマは中央分離帯の少し左側を走っていた。ヒヤマは視界の右端にその黒い影を捕らえると、歩道側へ、大きく左に移動する。

――なんだ?

 中央分離帯を越えて右側は、言うまでもないが対向車が走っている。それにもかかわらずヒヤマに併走する「黒い影」は、対向車などおかまいなしに猛スピードで道路を逆走しているのである。

――こんなことが出来るのは……禍獣以外にない。

 まだ目視ではしっかりと確認していないが、ヒヤマは「黒い影」を禍獣と判断し、考えを巡らせる。

――なぜ、このタイミングで禍獣が来る? 俺が禍獣になったからか? 禍獣は禍獣を呼ぶのか? 敵なのか、攻撃してくるのか、観察しにきたのか……

 いずれにしても良い状況とは言えない。ヒヤマはさらに速度を上げた。黒い影もついてくる気配があった。

 突如、ヒヤマは右肩に重い衝撃を受ける。鈍く、大きな音がした。

 ヒヤマはそれによりわずかに進路が左にずれ、いきおい路上駐車している車のドアミラーを吹っ飛ばす。その衝撃は重かったが、転倒せず、なおも走れている自分の頑丈さに、ヒヤマは驚いた。

――これなら禍獣とも戦えるが……

 悲願が達成できるかもしれないが、今はなによりもタイシの治療が第一優先である。

――だが、どうする? 戦っては時間がかかる。無視して走っていてもジリ貧。なによりタイシに一撃入れられたらおしまいだ。

 速度を少し緩めて横を見ると、やはりそこには禍獣がいた。猿のようなフォルム。長い四本の手足で走っている。禍獣特有の黒い金属のような皮膚。

 ふと、ヒヤマに気付きがあった。

――こいつ、どこかで……

 目が合うと、禍獣猿は右手を大きく振り上げた!

――やばいっ!

 ヒヤマは反射的に大きく跳躍する!

 ヒヤマに向けた禍獣猿の一撃は道路が受け止め、コンクリートの塊が跳ねる。

 一方ヒヤマは上空に二十メートルは飛んだだろうか。ここまで飛ぶつもりはなかったのだが、まだ体のコントロールが完璧ではない。

――まずいな……

 着地地点で待ち構えられたら、まともに攻撃を受けてしまう。

 案の定、地上の禍獣猿はヒヤマの着地に備えてスピードを緩める。次いで禍獣猿はこちらを振り向き、大きく咆える!

――どうする……!

 そこでヒヤマは落下の中継に車道の信号機があるのを捉えた。

――これだ!

 ヒヤマは落下しながら、信号機の腕を手刀で斬る。そして信号機を盾にするように、禍獣の上に落ちた!

「ごぎゃぁ!」

 衝突音と、車のブレーキ音と、クラクション。重音のパレードが環七を走る。

 ヒヤマは信号機もろとも禍獣に突っ込んだあとバウンドし、再び地面に落ちる際には、タイシをかばうため顔から地面に突っ込み、そのまますりおろされるように道路を滑っていく。

――ぐっ!

 強靭な体を得たヒヤマも、これには流石に痛みと熱を感じたが、弱音を吐いている場合ではない。すぐさま起き上がり、再び走り出す。

 少しして後ろを振り向くが、どうやら禍獣が追ってきている気配はない。ヒヤマは安堵した。

――あの禍獣、どこかで見たことがある……

 どこで見たのか、はっきりと思い出せない。資料で見たのではなく、実際に遭遇したことがあるような、そんな感覚だった。だがその経験は、両親を殺した禍獣とショッピングモールで戦った二体だけのはずだった。

――どこで……

 思い出そうとするが、落ち着いて考えていられる状況でもなかった。タイシのことや、猛スピードで障害物を避けていくことに意識が奪われ、やがて思い出す作業を諦めた。

 

 それから僅かな時間で、リディル軍病院に到着した。門にはリディル軍の警備隊員が二名立っている。彼らはヒヤマを見るとすぐに守衛室に入っていった。

 ヒヤマにとっては好都合である。

 人を呼んでくれたほうがいい。タイシを置いたらすぐにいなくなるつもりだ。早くタイシを治療してもらいたい。

 そのまま救急搬送口にまわり、タイシの拘束を解く。息をしているか確認しようとしたところで、搬送口の扉が開いた。そこですぐにヒヤマはタイシから離れた。自分がいると、出てきた人間は警戒してタイシに近づかないだろう。

――頼むから早く治療をしてくれ……

 タイシが運ばれたかどうかも確認しないまま、ヒヤマはその場を離れた。自分ではどうすることもできない歯がゆさに、思いきり叫びたくなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る