5

 夜、ヒヤマが目を覚ますと、そこは家の近くの公園であった。ただヒヤマは朦朧とした意識の中にあって、そこが家の近くということにすぐには気づかない。酷い全身の痛みと吐き気の鎖にくるまれて、体を芋虫のようにくねらせてそこらを這う。

 このときヒヤマは自分が何者なのかもわからず、思考の回路は痛みの炎で塞がれていた。

「ぐ、ぅろおぉぉおぉぉお……」

 獣のような声が微かに漏れる。痛みに耐えきれず、激しく叫んだはずだった。だが、出た声は小さかった。

「ぁああぁぁああぁぁ……」

 そこいらでりぃりぃと鳴く鈴虫にも負けるほどのボリューム。誰にも届くことのない小さき声は、だが確かに自身の脳には届いたようで、

――おかしい、おかしい、声、おかしい。

 些細な違和感がドロドロに溶けていた思考を、徐々に脳の中で固めていく。

――痛み、痛み、この痛みはなんだ

 時間は、少しずつヒヤマの痛みを和らげる。それと同時に、ヒヤマはここがどこなのかを認識しはじめた。

――デコボコウエン。

 自分の住処が近いことも思い出し、フラフラと立ち上がり足を動かした。

 家の灯りは点いていた。ドアには鍵がかかっていたので体当たりをする。

 ドアは、あっさりと破れた。そのままヒヤマは玄関に崩れる。

 痛みは引いてきたが、疲労感が増し、全身が重い。そこでヒヤマは膝立ちのまま動くことが出来ず、しゅうしゅうと呼吸を繰り返す。

――ユリ、ユリ、ユリ。

 頭に浮かんだ言葉、それがなにを意味する言葉なのかは、まだ思い出せていない。

「きゃああああ!」

 叫び声が聞こえたが、ヒヤマは頭が重くてそちらの方を向けない。叫び声の主の気配はすぐに消えた。遠ざかったようだ。

 ついでドタドタと足音が近づいてくる。先ほどの叫び声とは別人の雰囲気だ。 

 ヒヤマは重い頭をどうにか上げて足音の主を見ると、なんと、ヒト型の禍獣がこちらを見つめていた。


 血が、沸騰する――

 感情が、重い鎖を轢断していく――


――禍、獣、ぅうううぅううぅうううう!

 ギビギビと全身から鳴る警告音を無視して立ち上がり、戦闘態勢を取るヒヤマ。一方禍獣も身構えた。

「ぁあああぁああぁあぁあ」

 ヒヤマは叫ぶ。相変わらず声は小さい。おそらく禍獣に届いてもいないだろう。

 禍獣が右手を突き出しヒヤマの顔を殴ろうとする。それは妙にゆっくりした動き。

 ヒヤマはそれを完全に見切っていたのだが、身体のコントロールが完全ではなく、まともに食らう。後方によろめいたが、ダメージはない。

 次いで禍獣は雄叫びをあげ、突っ込んでくる。

 ヒヤマは身をかがめ両前腕を合わせてガード体勢をとるが、禍獣はガードの隙間にパンチを入れてくる。

 幸い、この禍獣の攻撃は軽い。

 反撃の隙を窺っていると、ヒヤマは、自分の右前腕に刃がついているのに気がつく。

 肘から中指の先端を抜けて二十センチほどの刃。さっきまではなかったものだ。

 その間も禍獣の攻撃は止まない。

 飛んでくる右ストレート。

 刹那、ヒヤマはその右ストレートをかいくぐり、禍獣のわき腹に刃を突き刺す。

 驚くほどあっさり刃は禍獣を貫いた。吹き出る血は、温かい。禍獣は前に倒れ、ヒヤマはそれを受け止める形となった。

「なんだよ……よく見たら、お前……ヒ、ヤ……」

 ヒヤマは、その禍獣の声によって、ようやく自分が何者であるかを思い出すことが出来た。

 そして、同時に、自分がなにをしでかしたかということも理解する。

 自分が貫いた相手は、禍獣ではなくタイシだった。

 ヒヤマは叫んだ。小さい小さい声で。取り返しのつかない過ちを、自分に対して激した。

 そしてすぐ、

――ユリ! ユリ! 救急車を!

 そう叫んだはずだが、なぜだか声にならない。そもそもユリが向こうにいるかもわからない。

 ヒヤマは止血用のタオルを取りに行くため、家に上がろうとした。

 その時。

 自分の体がおかしいことに気づく。

 一歩踏み出した足が、昆虫の甲羅のようなものに覆われている。

――これは、なんだ?

――そもそもなぜ、刃が腕についていた?

――なぜ、声が出ない?

――……俺は、どういう経緯でここにいる?

 玄関に置いてある姿見。ヒヤマは恐る恐るそれを覗き込む。




 そこに立っていたのは、血にまみれた一匹の禍獣であった。




(第一章 終わり)


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