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「で、そのマリーコンサートは何曲くらい続いたんだ?」
食卓をはさんで、タイシは興味深そうに首をヒヤマのほうへ伸ばした。
「三曲だ」
「ほおお、噂には聞いていたけど本当に歌うんだな……」
「噂通り、かなり上手かった。どこかのアーティストが裏で歌ってるんじゃないかと疑ったくらいだ」
「音域が五オクターブあるとかって噂だしな」
「それ凄いのか?」
「かなり凄いぞ」
タイシは真剣な表情で頷く。
「なんだ、詳しいな?」
「いや五オクターブが凄いことくらい普通わかるだろ。なあ?」
タイシはキッチンのほうに向かって同意を求めた。
「そうね、お兄ちゃんが音楽の知識なさすぎね」
ヒヤマとタイシの会話に加わってきたのはヒヤマの妹、ユリだ。瓶ビールとコップをお盆に載せている。
「非常識か?」
「五オクターブが異常なレベルってのはさすがにわかるんじゃない?」
言いながらユリは着席した。
「そんなものか」
妹とタイシと、どうってことのない夕食時の会話だったが、ヒヤマには特別の安閑であった。
リディアが真っ二つにされたとき、死を覚悟した。まっさきに思い浮かんだのが、今隣にいる妹のユリの顔である。
両親が禍獣に殺されて以来、二人で支え合って生きてきた。兄である自分まで禍獣に殺されてしまっては、ユリはたった一人になってしまう。それが申し訳なかった。自分が死ぬことより、ユリの気持ちを想像することのほうが痛かった。
「しかしヒヤマ、お前ほんと気をつけろよ。普通死んでるぞ」
タイシはヒヤマにビールの瓶を突き出した。ヒヤマはコップを取り、タイシの酌を受ける。
「……そうだな」
「まあ迷子の男の子と自分がダブったんだろうが、もっと冷静でいろよ。禍獣のこととなると見境つかなくなるのは良くないぞ。それに結局男の子のお母さん生きてたし」
「なんだと?」
「あれ? 言ってなかったっけ。男の子は、お母さんがお化けに食べられたっていう悪い想像を働かせただけであんなこと言ったんだよ。迷子になって不安になったんだろうな。きちんとお母さんと再会できたよ」
「……なんだ、そうなのか」
気持ちがふっと軽くなる。内に刺さっていたつかえが抜けて、腹筋が弛緩していく。ヒヤマは自分の体重を、椅子の背もたれに大いに預けた。
「マリー大佐に感謝しないとな」
ヒヤマは自分のわき腹をさする。
あのときわき腹にあった一撃は、禍獣ではなくマリーの蹴りだった。現場から引き上げる際に、手拍子をうながしてきたマリー隊の隊員が言ったのだ。「隊長の蹴り、痛かったろ?」言われたときはなんのことかわからなかったが、すぐにわき腹の痛みとつながった。その隊員は続けた。「感謝しろよ。お前、CBSUじゃないからかなり手加減してくれたんだぞ」本気で蹴られていたら内臓破裂はまぬがれない、とも付け加えられた。
「ねえ、お兄ちゃん……何度も言うようだけど、CBSUになるの辞めない? 危険だよ。私、お父さんとお母さんのかたきを討って欲しいなんて思ってない。お兄ちゃんが無事でいることのほうが大事だよ」
ヒヤマは答えずビールをあおる。
わかった諦める、と言えればこれほど楽なことはない。自分に何かがあったら、ユリを悲しませる。そんなことは当たり前にわかっている。だがヒヤマはどうしても禍獣を殺したかった。
それは両親に対する手向けではない。そんな行為が鎮魂の儀式にはならないことは理解していた。月並みな言葉だが、両親はあの世で復讐なんて望んでいないだろう。
じゃあなぜそこまで禍獣にこだわるのか。自分の気を晴らすためか? それも少し違う。もし両親を殺した禍獣が今も存在していて、見事そいつを葬りさることが出来たとしても、大して気は晴れないだろう。両親は帰ってこないし、憎悪はあのときより薄らいでいる。
こだわる理由は、あのときの禍獣の『表情』だ。あの地獄のような『表情』が、ヒヤマの奥底に消えることなく沈着している。
もちろんあの『表情』に意味などなく、ただの習性だったのかもしれない。むしろその可能性の方が高いだろう。
それならそうと理解したい。禍獣に再び会って、殺せば、あの『表情』を理解できるのではないか。
「ユリちゃん朗報だ。ヒヤマは今回暴走した一件でCBSUになれる確率がグッと下がった」
「え? ほんと?」
兄の出世が閉ざされるかもしれないというのに、ユリの声はあきらかにトーンが高い。
「……まあ、減点対象にはなるだろうな」
「試験期間中だってのに命令違反するとか、本当にCBSUになりたいのかよお前」
CBSUの資質試験はひと月かけて行われる。試験期間は毎日、なにかしらの試験がある。それは走力であったり、戦闘術であったり、工作技術、射撃、心理テストと多岐に渡る。受験者はどんな試験が待ち受けているのか、その日になってみないとわからない。例外として最終日だけは何をするか決まっている。面接と身体検査だ。
その資質試験を通ったとしても、CBSUになれるわけではない。試験の後に厳しい訓練期間が一年ある。これを経て、晴れてCBSU隊員になれるのだ。
「まあお前がCBSUにならないなら、それは俺も嬉しいんだけど」
「ん? どう意味だ?」
「お前に危険がないほうが嬉しいって意味だよ」
「だからその意味がわからん。気持ち悪いな」
「ユリちゃんと同じだから」
「むう?」
「……ヒヤマ、いや、お義兄さん。ユリさんを僕に下さい」
タイシは深々と頭を下げた。
突然だったが、ヒヤマには驚きよりも嬉しさのほうが先にこみ上げてきた。タイシとユリが付き合っているのは知っていたし、二人も別にそれを隠してはいない。いずれこの二人は結婚するのだろうという予感と期待が入り混じったものを常に持っていた。タイシならユリのことを任せられると、そう思っていた。
とはいえ、タイミングが早すぎる。おそらく二人は付き合って二年程だが、ユリはまだ二十歳だ。自然と、
「まさか……妊娠したのか?」
という遠慮のない質問を繰り出してしまう。
「違うわよ」
ユリが不服そうな声をあげる。
「じゃあなんで今なんだ? まだ学生じゃないか。卒業してからでも遅くないだろ?」
「卒業してからだとユリちゃん新生活で大変だろ? 入社してすぐ結婚するのってゴタゴタしそうじゃないか」
「じゃあ社会人生活に慣れて、一年くらいたってからでいいだろ」
「遅かれ早かれ結婚するんだから早くてもいいじゃない」
「そうだぞヒヤマ」
ヒヤマには特に反対する理由はない。もとより二人の結婚を望んでいたのだ。だがヒヤマは父親の役割を果たさなければいけないという使命感を抱いていた。父親が生きていたら、こんなときに何を言うだろうかと考えてみる。
小学生の夏休みを思い出す。何年生だったかは詳しく覚えていないが、たしか低学年で、アサガオの観察日記をつけていた。
毎日水やりなど世話をしていたのだが、ある日、激しく雹が降った。そのときは友達と近くの公園で遊んでいて、屋根のあるベンチでその雹をやりすごした。みるみるうちに公園の地面が氷の塊でいっぱいになる。夏なのに氷が降ってくることが不思議でたまらなかった。外に出していたアサガオの鉢のことなどすっかり忘れて、友達とその雹を掴んだり投げたりする遊びに没頭したのだ。
夕方、家に帰ると鉢に雹が溜まっている。支柱に巻き付いているはずのつるは、雹にあたったせいか、 折りたたんだように下のほうまで落ちていた。急いで雹を取り除き、つるを再度巻きつけたが、数日後そのアサガオは枯れた。開花まであと少しのところだったのに。
枯れた葉を見た瞬間、思わず涙がこぼれた。母と一緒に、置く場所の日照時間まで計ったのだ。『アサちゃん』などと名前までつけていた。母は「雹が降る予報なんてなかったのにね」と、一緒に悔しがってくれたのを覚えている。しかし父は「アサガオに謝れ。お前のせいだ」と言った。
「雹が降ったのは僕のせいじゃない」と反論したが、父は、
「幸も不幸も自分に起こることの全ては、自分によるのだ」とピシャリと言った。
その言葉は重くて、立っていることも辛くなった。
もちろん今になって思えば、父の言うことも理解できる。晴れの予報を過信して鉢を外に出したままだったこと、雹が降ったのにそのまま遊んでいたこと。でも当時は「雹が降ったことすら自分のせいなのか」と思った。
ユリもタイシも二十歳を超えた大人だ。たとえこの結婚が二人をどのように結論付けるとしても「幸も不幸も自分に起こることの全ては、自分による」のだ。父なら反対もしないだろう。
「ヒヤマ? そんな難しい顔しないでくれよ。反対なのか?」
「難しい顔? いや……すまんな、親父のこと考えてた」
「お父さんのこと?」
「ああ、こういうとき、親父なら何言うかなって」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだから、お父さんになんてなれないんだから、そんなこと考えても意味ないよ」
「……そうだな」
「で、ヒヤマはどう思うんだ?」
「素直に嬉しいよ」
ヒヤマは笑顔をタイシに向けた。タイシも笑顔になり、身を乗り出す。
「じゃあ……」
「でも駄目だ」
「なんで!」「なんでよ!?」
二人が同時に声を出す。本当にお似合いのカップルだと、ヒヤマは思った。
結婚に反対ではないのだが、ヒヤマには一つだけ見過ごせないことがある。
「今、あきらかにOKの流れだっただろ!」
「CBSUなんて危険な仕事をやろうとしている男にユリはやれん」
「どの口が言うんだよ!」
「ユリと結婚したいならCBSUを諦めろ」
自分が言えた義理ではないのはわかっていたが、開き直る。タイシは言葉を失ったのか口をパクパクさせている。
「すがすがしいまでの棚に上げっぷりね」
妹の言うことには取り合わず、ヒヤマは続ける。
「タイシ、お前、俺がなんでCBSUになろうとしてるか知ってるよな?」
「禍獣に復讐するためだろ」
正確には復讐という憎悪からくるものではないのだが、ヒヤマはそれをうまく説明できる自信はなく、「そうだ」と済ます。続けて、
「ユリと俺は、禍獣に親を殺されてるんだ。ユリの旦那さんになる人には危険な仕事をして欲しくない。禍獣に直接関わる人間なんてもってのほかだ」
「ヒヤマ……冗談かと思ったら、マジで言ってるのか? それはお前にも言えるだろ。お前こそ禍獣から離れろよ」
「それは出来ない」
「仇の禍獣が今も生きてるかなんてわからないんだぞ」
「そんなことはわかっている。それに復讐だけじゃない。ユリを禍獣から守らなければいけないんだ」
「タイ君、無駄だよ。お兄ちゃんは昔からこのことに関して凄い強情なんだよ」
「なあヒヤマ、そりゃないぜ。俺だってCBSUに憧れがあってこの仕事に就いたんだ。今さら別の道探せとか言われても、簡単にはいそうですかとはならないぞ。それにユリちゃんにCBSU志望の男が近づいて欲しくないのだったら、最初から俺をこの家に招くなよな」
タイシの言い分も、ごもっともだとヒヤマは思った。身内というひいきを差し引いても、ユリは魅力的なのだ。白い肌と小柄な体、薄い唇に少し目尻のあがった大きな瞳。男どもはさながら誘蛾灯に群がる虫のごとく、ユリの可憐な見た目に引き寄せられる。繁華街を歩けば怪しげな芸能事務所から名刺をもらい、高校生の頃は他校にファンクラブまであった。ヒヤマがユリに近付く怪しい男どもを投げ飛ばした回数は、両手の指よりも多い。
タイシという若い男を家に連れて来ればどうなるか、わかりきったことなのだ。それでもタイシを家に招いたのは、ヒヤマがタイシのことを認めているからである。タイシ以上に出来た人間をヒヤマは見たことがなかった。強靭な肉体を持ちながらも、倫理観にあふれた器量の大きい人格者、それがタイシであった。そしてその気質はユリともどことなく似ている。難局をなんでもないことのように笑いとばせるのは二人に共通していた。
「まあ……確かにいくらなんでも意地悪すぎるかもしれんな……俺はタイシとユリが結婚するのには賛成だよ。でもCBSUの男とユリが結婚するのには反対なんだ。万が一のことを思うとな……矛盾しててすまん」
「ヒヤマ、俺はユリちゃんもCBSUも諦めない。ユリちゃんを禍獣から守るのがお前の使命だって言うなら、その使命、俺に譲れ。俺が守るから、仇もとってやるから、お前がCBSUを諦めろ」
「二人とも諦めればいいのに……」
ユリがぼやく。
「俺が諦めたら誰がお前を守るんだ」
「別にお兄ちゃんに守ってもらわなくたっていいわよ。めったに禍獣は現れないし。万が一現れたとしてもCBSUの誰かが守ってくれるんじゃないの? 今はAI予測で事前に禍獣の出現がわかるんだから。お父さんとお母さんのような悲劇はもう起きないわよ」
「ってかヒヤマ。お前本当にCBSUになれる可能性低いんだぞ。いくら成績トップとはいえ命令違反なんてやらかしてるんだから」
「む……」
「そこでだ、俺もヒヤマも、もし今回の資質試験に落ちたら、CBSUを諦めるってのはどうだ? 再チャレンジはなし」
「落ちたら諦める……」
正直落ちたときのことなど考えていなかった。自分は当然CBSUになるものだと信じて疑わなかったからだ。だが、あの出動での『CBSU隊員以外の発砲禁止』を破ったのはまぎれもない事実。禍獣から襲いかかってきたのならまだしも、自分から向かっていったのだから言い逃れも出来ない。普通なら大きな懲罰があるだろう。不思議となんとかなる気がしていたが、冷静に事実を吟味すれば、CBSUの資質試験なんて絶対に通らない。
「そのときはCBSUを諦めるしかないな……」
そしてヒヤマは胸の内で、そのあとに続く言葉を付け加える。『CBSUは諦めて、禍獣を喰らう別の方法を探す』
「ヒヤマがCBSUに落ちたら、ユリちゃんを禍獣から守れるのは俺だけになる。それならいくら俺がCBSUでも結婚を許すよな?」
「……まあ、俺が落ちてタイシが受かった場合はな」
「よし! もし俺が落ちたらCBSUを諦めるし、どちらにせよこれで結婚は決まりだな」
「待て待て、二人とも受かったらどうするんだ?」
「そんときはまた考えればいいよ」
「何を?」
「ヒヤマがどう俺たちの結婚を許すかを」
「許すの前提か」
「そうだ! いいじゃねーか! とりあえず前祝いしよう! 飲め飲め! 俺のおごりだ!」
タイシはヒヤマのコップにビールを勢いよく注いだ。
「いや、俺んちのビールだぞこれ」
「まあまあ」
タイシはヒヤマに屈託のない笑顔を見せた。
押し切られた感はあったが、ヒヤマはそれ以上反対はしなかった。最終的には許可するつもりだったのだ。もちろんユリの夫になる人物がCBSU志望であることは大反対である。だがヒヤマ自身、タイシという男に惚れ込んでいたし、言うまでもなく結婚は当人同士の気持ちが一番だ。
ユリの肉親である自分の反対を、タイシがどう熱意を持って説き伏せてくれるのか見たかったのかもしれない。
『その使命、俺に譲れ』そう言われたとき、思わずにやけてしまいそうだった。生みの親でもないくせに、親としての幸せを感じた。これからしばらくはこの台詞を噛みしめつつ、一人で酒を楽しめるだろう。
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