一章
1
ヒヤマは昂っていた。
そのためか胸の前に構えている自社製の自動小銃、RD―MP6はいつもより軽い。『リディア』と通称されているその銃は、今回の出動では使うことを禁じられている。もちろん、特別な場合『非常戦闘』を除いてだが。
ヒヤマはこのとき右手の親指で、安全装置をカツカツと動かす手遊びを繰り返していた。『SAFE』から『SEMI』、『SEMI』から『AUTO』、『AUTO』から『SAFE』へ。普段のヒヤマなら絶対にしない行為だ。
「おい」
声の主はタイシ。ヒヤマが振り返ると、
「何してるんだ、よせよ。セーフに合わせとけ」
タイシは自身の太い眉を不審そうによせた。
「ああ、すまない」
ヒヤマはこの良くない行為を無意識ではなく意識的に行なっていた。悪いとは分かりつつも、あえてその行為をしていたのは、自分を保つためだった。なんらかの刺激を常に与えていないと、最低限の判断力まで失ってしまいそうだったからだ。
「大丈夫か? なんかお前変だぞ」
「ああ……そうだな……変……変か」
タイシはヒヤマの言葉に何も返答しなかったが、代わりに少しだけ首を傾げた。
ショッピングモールの中に人影はない。モール側からは買い物客の退避は一応終わっていると伝えられている。だが念のために、ヒヤマとタイシは誰もいないか最終チェックをしていた。
「……ヒヤマ。リディア降ろせよ。どうせ発砲は禁じられているんだし。まだ現れないだろ」
「いや……いきなり目の前に現れないとも限らない」
タイシは溜息をついた。
「現れたとしても、効かないだろ、リディアじゃ」
「やってみなければわからない。口の中に撃てば、効くかもしれない」
「その前に八つ裂きにされるよ」
ヒヤマは答えなかった。
「……いや、わかるけどさ。お前の気持ちも。張り切りたくなるのもわかる。でもまずは命がないとダメだろ。今は禍獣(かじゅう)に立ち向かおうなんて無謀なことを考えるのはよせ。CBSUにならないうちに戦おうなんて無茶だよ」
タイシは両手を広げてお手上げのポーズをとる。
タイシが禍獣に対して諦めムードであることに、ヒヤマは怒りも失望も抱かない。当たり前だからだ。仕方がないからだ。禍獣とはそれだけ人間に圧倒的であった。
十一年前の二〇二四年、突如として現れた正体不明の化け物、『禍獣』。その形状は猿や犬など様々だが、共通しているのは、異常に硬いということ。並の銃火器では禍獣を傷つけることは出来ない。さらにその性質は非常に凶暴で、どこからともなく現れては、人間に対して甚大な被害を及ぼす。ヒヤマの両親は、その禍獣の最初の犠牲者である。
ヒヤマは、なおも続く友の忠告を背に受け、ずんずんと歩を進めていく。衣料品店の一角に差し掛かると、棚の裏などを確認していく作業に入る。
少しして声があった。子供のすすり泣く声だ。
ヒヤマとタイシは顔を見合わせた。先に口を開いたのはタイシ。
「誰かいるのかい? 怖くないから出ておいで」
すると部屋着の陳列棚から、まだ未就学であろう男の子が姿をあらわした。
「おばけ、いない……?」
「いないよ、お母さんかお父さんとはぐれちゃったのか?」
「お母さん、食べられちゃった……」
ヒヤマの背に流れる血液が急速に冷えていく。そして再びタイシと顔を見合わせ、静かに、ゆっくりと男の子に近づいた。
「食べられちゃったって……禍獣、いや、おばけにかい?」
ヒヤマの言葉に男の子は顔を歪め、コクンとうなづいた。その歪んだ顔に蘇る、暗い影がヒヤマの脳天に降りてくる。
「タイシ、この子を外へ」
「は? お前も一緒に来いよ。お前がここにいたってなにも……」
タイシの口を、ヒヤマは手で塞いだ。そして首を振る。
たった今禍獣に母親を殺された男の子の前で、「禍獣対策員だけど、お兄さん達にはとてもかなわない」なんて、聞かせられるはずがない。たとえそれが事実であったとしても。
「ボク、この背の高いゲジマユお兄さんが、安全なところまで連れてってくれるから安心しな。おばけはお兄さんが退治するよ」
「ヒヤマ……」
タイシはなにか言いたげであったが、おそらくヒヤマの思いを汲んでくれたのだろう、ここでの小言をこらえたようであった。
「すぐ戻ってくるから。CBDに無線入れろ。無茶するなよ」
タイシは人差し指でヒヤマの顔を差したあと、男の子をおんぶし、長いストロークで走り出した。男の子は「うわぁ」と声をあげていたが、その声はすぐに小さくなり、聞こえなくなった。
二人が見えなくなったころ、ヒヤマはタイシに言われた通り、無線で禍獣対策部、通称『CBD』の本部へ連絡を入れた。
すると本部からは、
「禍獣はたったいまCBSUが捕捉した。ヒヤマ隊員は本部へ戻れ。アウト」
という返信があった。拍子抜けした。
CBSUというのは、ヒヤマが勤める民間軍事会社リディルが有する、世界で唯一禍獣に対抗出来る特殊部隊である。
CBSUでないヒヤマに、もうここでの役割はなくなった。
だが、ヒヤマはすぐ本部に戻る気にはなれなかった。その理由は、先ほどの男の子の件もそうだが、なによりもヒヤマに強い予感があったからだ。――今日こそ禍獣とあいまみえる。
さしたる根拠があるわけでもない、ただの予感であったが、なぜか必ずそうなるような気がしていた。今日ほど強く感情が湧き立つ日はなかった。
禍獣は人類の脅威でこそあるが、その出現頻度はさほど多くはない。
ヒヤマはあの日以来、接近出来たことは一度もないのだ。今までも出動は何回かあったが、戦うどころか、動いている禍獣の姿さえ見ることも叶わなかった。
あの日から禍獣に強く強くこだわって生きてきた。
だから、これほど感情のざわつく今日こそは禍獣に再会するのだと、そう確信めいた予感を抱いていたのだ。
と、そこへ轟音がある。爆発音とも違う、何か硬いもの同士が激しくぶつかり合ったような重い音だった。
ヒヤマは音のするほうへ目を向けた。五十メートルほど遠く、吹き抜けになっているエスカレーターエリアで、何かが上階からバラバラと落ちてくるのが見えた。
「そっちか……」
誰に聞かせるわけでもなく、ヒヤマはつぶやいた。
そして駆けた。駆けながら安全装置、セレクターレバーをSAFEからAUTOに合わせる。
「おい、ヒヤマ何してる、止まれ!」
エスカレーターエリアに近づくと、そこを見廻っていた同僚、セタが叫び、両手を広げ制止してくる。ヒヤマは、セタの腹に自分の左肩が当たるよう、低いタックルをしかける。
「ぐっ!」
肩が腹にめり込み、セタは低く呻いた。しかしセタは倒れない。ヒヤマの背中に、戦闘服を掴まれた感触があった。
瞬間、ヒヤマはリディアを左手だけで持ち、空いた右手を自分の背中にやり、セタの襟首を掴む。そして一気に自分の腰を上げると同時に、掴んだ襟を前方に振り払う。片手背負いだ。
セタは床に叩きつけられ、彼が背中に背負っていたリディアが大きくガシャッと音を立てる。
「すまん!」
言いつつヒヤマは、苦悶の表情で睨むセタの横を駆け抜けた。
エスカレーターの近くまで来ると、先ほど上階から落ちてきたものが散らばっている。ガラスや、手すり、棚、マネキンなどだ。
ここは一階で、五階までの吹きぬけになっている。見上げると、四階の、吹きぬけ構造を仕切る落下防止柵のガラスが割れていた。だが、肝心の禍獣は見当たらない。
「どこだ……」
ヒヤマは四階をぐるりと見回したが、やはり禍獣はいない。そこで四階まで上がろうと、停止したエスカレーターの一段目に足をかけた。
そのとき。
ヒヤマは何か大きな壁にぶつかってよろめいた。その壁は急にあらわれた。
いや、壁ではない。
禍獣は体の側面をこちらに向けていた。ヒヤマはその側面にあたったようだ。体長は二メートルほどだろうか。猫背のように背中が丸まっているから正確にはもっと大きいのかもしれない。黒く、磨かれた金属みたいにツヤのある体で、だらりと垂れている腕は長く、今にも床につきそうだ。
両親を殺した禍獣とは、違っている。あれは四足歩行だった。そして、もっと生命じみていた。
――これは……こいつは、なんだか、無機質だ。
ヒヤマと禍獣は動かなかった。それは長い時間のようでもあった。
刹那、ヒヤマはリディアを禍獣の体に向け、引き金を引いた。
三十発の弾倉が空になるまで撃ち続けた。しかし禍獣には効いている様子もなく、なおも微動だにしない。急いで弾倉を取り換える。その最中、どこかに弱点はないのかとヒヤマは考えた。
ただ撃つだけでは駄目だ。それでは通用しない。
先ほどの、「口の中なら効くかもしれない」という半ば強がりでタイシに言った言葉を思い出した。試してみる価値はあるかもしれない。
弾倉の交換が終了し、禍獣の正面に移動する。
禍獣の顔は、定規でひいたような直線で形作られている。ドーベルマンの顔を荒い3D調にしたようだった。目の下から、前方に上顎と下顎が突き出ている。口は、閉じられている。
――これでは、口の中には撃てない。
感情的になって、何の対策も立てずに行動に移した自分に腹立ちを覚えた。
「ぬああああああ!」
ヒヤマは絶叫し、禍獣の顔面めがけて三十発の弾丸を放った。
撃ちきったところで銃身の鉄が溶ける匂いがした。持ち運び用の自動小銃リディアは、元来、立て続けに三十連発もする設計ではない。このリディアの露骨な悲鳴はヒヤマの心を弱くした。
見ると禍獣はこちらの銃撃などなかったかのように静かに突っ立っている。ただただ立っているだけの禍獣に圧倒された。
最後の弾倉を手に取り、換えながら逡巡した。
――退却するか?
弾倉を差し込み、チャージングハンドルに指をかけ、そして離す。初弾が装填される。
脳裏に、男の子の歪んだ表情が浮かび、あのときの自分と重なった。
意を決しヒヤマはリディアを構えた、が、銃口の先はただの空であった。
ついさっきまで確かにそこにいた禍獣がいない。もちろん目を離した覚えもない。コマ送りの映像を何枚か飛ばしたかのように不自然に、音もなく禍獣は消えていた。
ヒヤマはすぐに周りを見渡す。と同時に、自分の首が体から切り離される気味の悪いイメージを抱いた。禍獣の、長くだらりと垂れた腕。あれが鞭のようにしなり、万分の一秒で首を飛ばすのだ。
一歩、二歩と後ずさり、自分の首を左手で触る。まだ己が生きていることを確認する。
すると、リディアから何かが落ちた。それは、リディアの銃身の部分だった。
右手でもっているリディアは弾倉から先がなくなっている。リディアが真っ二つになっているのである。
事態を冷静に把握しようとする間もなく、床に影が伸びた。
落としていた視線をあげると、禍獣がほんの一メートルもない至近距離からヒヤマを見下ろすように立っている。
反射的にヒヤマはリディアを投げ捨て、その足にしがみついた!
「おおおおおお!」
巨大な柱にしがみついているような圧倒的にゆるぎない重量だ。それでも足を踏ん張り、禍獣を倒そうと全身に力を入れる。なんとか一矢を報いるために、ヒヤマは必死であった。
だが禍獣は微動だにしない。
そこへわき腹に重い痛みがあった。禍獣に一撃をくらったのか。あまりの強烈な痛みにヒヤマは床を転がった。
うずくまり、悶絶していると、顎の下へ誰かのつま先が入ってきた。それはピンヒールを履いている。禍獣ではなく、人間の女のつま先だ。
次につま先はヒヤマの顎を持ち上げる。強制的に上げられたヒヤマの視界にピンヒールの主であろう金髪の女が目に入る。
「なんだお前? なんで交戦してるわけ?」
金髪女は不機嫌そうに片眉を下げて言った。ついで金髪女はつま先を引き、ヒヤマは顎を地面に強く打った。おそらくヒヤマの顔を確認するだけの行為だったのだろう。
顎や腹へのダメージを堪えつつ、ヒヤマは金髪女を見た。
そいつは、太ももと見紛うくらいの腕を組んでガムを噛んでいる。そのままプロレスのリングに上がっても様になるであろう巨体だ。顔は彫りが深く、目鼻立ちははっきりしている。痩せたら美人……なのかもしれない。上半身の戦闘服は脱いで腰で結び、黒のアンダーシャツが巨大な胸の形に沿って大きく盛り上がっているが、色気は全く感じない。色気どころか野性味を感じるばかりである。
見るのは初めてだったが、ヒヤマはこの女が誰なのかを理解した。
おそらく、いやほぼ百パーセント、CBSUのエース『歌姫』マリーだろう。その風貌や豪快な性格から、噂や逸話が絶えない女だ。リディル社の男の誰よりも男らしく、マリーに狙われる禍獣には同情を抱かざるを得ないともっぱら評判の女だ。
「おい、バックダンサーども! 禍獣がオネムのうちにちゃっちゃと終わらせるぞ! 『サッカー』の用意は終わってるな? カウント五で発射ぁ! ごお! よおん! ……」
マリーが周りのCBSU隊員に指示しているなか、ヒヤマは誰かに襟首とベルトを持たれ、禍獣から離れるようにずるずると引きずられていく。このとき抵抗出来るくらいには回復していたが、ヒヤマはおとなしく引きずられた。もはやこの戦場に、ヒヤマが割って入る余地はなかった。
「てぇぇぇ!」
マリーが館内中に響き渡るような大声をあげると、禍獣の背中になにかが撃ち込まれたのが見えた。撃ち込んだのは、いつの間にか禍獣の後方に配備されていた、巨大な黒い箱型のランチャーだ。禍獣の背から、いくつものコードが伸びた。
これは『サッカー』。桁外れに強力な電流を流す対禍獣兵器。禍獣の皮膚には針が刺さらないので吸盤を射出する。ゆえにサッカーと呼ばれている。
雷のような轟音が響く。
禍獣は無反応で、そのまま固まったように前のめりに倒れた。
「よーし! 回収隊が到着するまでいつも通りに頼んだよ! アタシはもちろん歌う! マイクの準備は出来てるのかい!?」
「もちろんです! 館内放送にも繋いであります!」
マリーの近くにいた隊員が答えた。
「気が利くじゃないかい! あんた今日の夜は可愛がってあげるよ!」
「私は! 今日の夜は予定がありまあす!」
「ミュージック! スタアァァァァァトオォ!!」
マリーは、『歌姫』という異名がつくとおり、歌を歌う。それは、戦闘の前であったり、最中であったり、終わった後であったりと、タイミングは様々らしいのだが、とにかく歌う。だから『歌姫』なのだ。
控えめな前奏がかかり、隊員たちの何名かがバク転や前宙をしながら集まりはじめる。
マリーは前奏に合わせてただの母音、アーだとかウーだとか、を穏やかに響かせた。
その響きは驚くほど心地よかった。音は、脳に快楽物質を出すように命令するようだ。
だんだんと前奏は陽気に変わっていく。マリーの声も母音から、「ル」や「ラ」などと変化していった。
その一連の情景をあっけにとられて見ていると、ヒヤマは後ろから頭をはたかれた。振り返ると、しかめっつらの隊員が体を縦にゆらしながら手拍子をしている。そしてヒヤマの顔の前で、これみよがしに手を叩く。お前も手をたたけ、ということなのだろう。
仕方なくヒヤマもバックミュージックのテンポに合わせて手拍子をした。
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