ハイドロカーボン・E・コロナオペルタ

積地蜂 密(つみちばちみつ)

序章

序章

 めっぽう不気味な音だった。

 事実、それは最悪だった。


 


 夕方、学校から帰ってきたヒヤマキリフジは、玄関の扉を開けてすぐ、目に入ったモノに首を傾げた。

 上がり框に蜜柑が一つ。

 蜜柑というものは、言うまでもなく食卓か台所にあるのが通常であろう。

 それが玄関に落ちている。

 このことに対して、いくつかの回答が即座に浮かぶ。

 両親が喧嘩をして、モノを投げあうような展開になり、その中の一つが蜜柑だった……

 泥棒が家の中をひっかきまわした……

 妹がぐずって暴れまわった……

 そのどれもが、あまり愉快とは言えないもので、ヒヤマの心は波立った。

 不安を押し殺し、「ただいま」と発する。

 おかえり、と返ってくる声はない。不審に思う気持ちが、一段と強くなる。

 ひとまず蜜柑はそのままにし、靴を脱いで框に上がる。するとすぐに、食器を洗っているような音が聞こえてきた。

 不定期の間隔で、固いものがなにかに当たっている。時折、液体が飛び散っているような音も聞き取れる。

 食器を洗っているにしてはボリュームが大きい。それに、音の距離感もおかしかった。キッチンはこんなに近くはない。玄関を左に曲がったら廊下があり、その先がリビング、キッチンはさらにその奥だ。玄関まで食器洗いの音が、大きなボリュームで届くはずはない。

 微かに頭痛がある。たったこれだけの異変に、心臓が送る血流が多い。

 あきらかな異常が起きている――

 柔道着の入った巾着袋とカバンを床に置き、制服のブレザーを脱いだ。

 強盗か何かがいるのではないか。

 総合的に判断して、それが一番筋道の通る答えだった。

 でも、だとしたら父と母はどうしているのだろう。

 土曜日、父は休みの日。今日は自分が部活から帰ってきたら、外食に出かける予定だった。この時間は家にいるはずである。

 角からそーっと、奥のほうを見た。リビングに続く扉は半開きになっている。明かりは点いておらず、薄暗い。

 なにやらチラチラと、影が動いているのがわかる。

――誰かがいる。

 家族ではない誰かが。

――やっつけてやる。

 廊下を駆け抜け、強盗かなにかを出会い頭で投げ飛ばすシミューションを、脳内で描く。

 飛び出す前、そこではじめて自分が震えているのがわかった。相手は刃物を持っている可能性もある。さすがに恐れは大きい。

 だが意を決し、ヒヤマは廊下を一気に駆け抜ける。

 リビングに入った一歩目、不覚にもなにかに足を滑らせて前のめりになる。転倒をこらえようと床に着いた手に、ぬるっとした感触があった。

――なんだ、これは。

 床に広がるそれを見て、まず僅かな思考停止があり、そして後に途方もない絶望が降りてきた。

 ヒヤマが足を滑らせた原因は赤い液体――

 ペンキかトマトジュースだろう、という希望的観測すらも抱かせない薄気味悪い赤黒で、当然にそれが血液だという答えが導かれた。

 ヒヤマは顔をおそるおそる上げる。

 大きく、狼のような形をしていて、しかしその体は黒い金属のようで、一目見ただけで世界の『異物』とはっきり感じさせる獣が、こちらを見ている――その口にヒヤマキリフジの父親をくわえて。

 あまりの非現実的な光景に、このときヒヤマの思考回路から、親が喰われているという一番重要な情報が排除され、その注意は、獣の表情へと向けられた。

 それは凄絶をきわめた。喰っているのはお前だろうに、まるで喰われているもののような険しい顔。地獄を与えているのはお前だろうに、まるで自分が地獄にいるかのような顔。なにをそんなに凄まじい表情をする必要があるのかと、思わず問いたいくらいだった。

 不意に、パクパクと父の口が動いた。まだ父が生きていることに、希望が湧くよりも先に驚きがあった。

 その音は微かで、内容は聞き取れない。

「父さん……」

 ヒヤマは一歩踏み出した。

 あらためて父の状況を理解する。自立して立つことも、もはや出来ないのだろう。体は、獣の顎にぶら下がるように傾いている。組体操の『扇』の端にいるかのような体勢だ。右肩から先は既に無く、床に広がるおびただしい量の血液は、おそらくここから流れ出たものと思われる。

 見ると、すぐそこに腕が落ちている。肩だった部位が潰れていて、雑に絵の具を混ぜたようなその断面は、視界に入れども、脳が正確に識別することを拒んで、ただ、赤黒い。

 視界の端に母の姿も映った。血溜まりの中、うつぶせに倒れている。目立った外傷はないが、それも脳が識別するのを拒否しているだけかもしれない。その近くにスーパーの袋があり、破けた蜜柑のネットが見えた。

「も……よ……」

 父だ。先ほどよりは音に力がある。目の焦点が合っておらず、一見こちらを認識出来ていないようでもあるが、存外そうではないのかもしれない。なにか意味のありそうな声だった。直感的に、自分に何かを伝えようとしているのだろうと悟った。

「……だ」

 父のこの苦しそうな声で、遅れてきた怒りが込み上げてきた。

「この……野郎!!」

 ヒヤマは獣の首に飛びついた。

「放しやがれ!!」 

 冷たく、彫像のような重量感のある首に、あらん限りの力を振り絞る。だが、獣はビクともしない。

 次にヒヤマは、その獣の首を人間の腕に見立てる形で、一本背負いの体勢を取る。

「ざっけんじゃ、ねええぇぇ!!」

 少し、首が動いた気がした。

 が、それも束の間、逆にヒヤマの体が宙に浮く。

 振り飛ばされたのだろう。そう認識した瞬間には、ヒヤマは壁に頭を派手にぶつけていた。

 意識が遠のいていく。そのなかで、ヒヤマは妹のことを思った。

 妹のユリは、大きな手術を終えて帰ってきたばかりである。

 今日は久しぶりの家族全員がそろっての外出になるはずだった。

――ユリ……ユリを守らないと……。

 こんなことになって申し訳ない――この一連の最悪が、自分のせいであるかのような錯覚と共に、ヒヤマの意識は闇に落ちていった。

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