行かないで
「美桜……。美桜……っ!」
何度も私の名前を呼んで、真璃はその瞳から大粒の涙を零していた。
そんな私の視界も、さっきから涙でぼやけて真璃の顔を見るのが大変だ。
「真璃……。ありがとう。私のために、頑張ってくれたんだよね……?」
真璃の手を握りなおして、心からの感謝を告げる。
真璃はベッドに横たわりながらも、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん。約束だもの。……でも、美桜が気を失った時、もう駄目だと思ったから……」
言いながら、空いている反対側の手を私の顔に伸ばしてくる真璃。
私はその手を取って自分の頬に擦り付けるようにし、その温度をお互いに確かめる。
「夢じゃ……、ないのよね?」
「夢じゃない。ちゃんと傍にいるよ。これからはいつだって、ずっと真璃の傍にいる」
真璃が、泣きながら微笑んで。だから私も微笑み返す。
そして真璃がそっと酸素マスクを外したのを見て、私は真璃の意思を汲み取った。
「真璃。——大好きだよ」
自分の出した答えを、今度こそしっかり伝えて。
私は、静かに真璃の唇に口づけを落とした。あの夜の約束を、果たせた証を。
十数秒もの間続けたキスを終えた後、私達はしばらくお互いの存在を確かめ合うかのように、手を握ったり頬をなでたりしていた。
そうして涙も少しずつ乾いてきた頃、真璃がか細い声を出す。
「美桜。私、中庭に行きたいわ」
「え……」
その言葉に、つい短い戸惑いを返してしまった。
だって、真璃はとても集中治療室から出て良いようには見えなかったから。
このまま私が勝手に連れ出すのは、あまりよろしくないのではないか。
「大丈夫。……こんなの、ただの気休めだから。体的には、本当は今更あっても無くても変わらないのよ。ただ私が少し楽になるだけで」
そう言って体に力を入れようとする真璃を支えて、その上体を起こす。
……真璃は、もう自分で起き上がる事も困難なようだった。
「お願い、美桜。連れて行って……?」
私に支えられながら言った真璃の声は、すぐに違和感を感じるほど震えていて。
その目は私を見ているようでありながらも、なんとなく焦点が合っていないように感じた。
「美桜。お願い。……私には、もう、時間が無い、みたいだから……」
「真、璃……?」
真璃の様子の違和感に、嫌な予感が頭をよぎる。
「花は見れないけど……。最後にもう一度、美桜と一緒に桜の木が見たいわ」
——最後に?
「……真璃? 最後って、何? これからずっと傍にいるって言ったじゃん。……まだまだこれから、私達は私達の時間を取り戻すんだから。最後だなんて言わないでよ……っ!」
私の懇願するような言葉に、しかし真璃は何も答えず。ただ、「お願い」ともう一度繰り返すだけであった。
「…………分かった」
もっと色々かけたい言葉はあったがそれらを押し殺し、なんとかそう絞り出すと、私は真璃の体が倒れないようにゆっくりと手を離し、壁際に置いてあった車椅子を持ってくる。
その間に、真璃は自分の腕から伸びていた点滴の管を、全て引き抜いていた。
「痛くないの?」
つい聞いた言葉に、真璃はかすかに声を出して笑う。
「さあ。何も感じないわ」
それは薬のせいなのか、体のせいなのか。
どちらにせよ、私はもう何も言い返すことは出来なかった。
真璃の体を抱きかかえるようにして、車椅子に乗せる。私一人で車椅子に座らせる事が出来るか心配だったが、真璃の体は異様に軽く、驚くほどすんなりと座らせる事が出来た。
「ありがとう」
「……うん」
真璃のお礼に答えて、ゆっくり車椅子を押す。
集中治療室の扉を開けると、廊下にはお父さんだけでなく、先生や真璃のお母さん、萌姉まで立っていた。
「うわ、びっくりした」
入る時はお父さんしかいなかったから、皆が揃っている事に驚きの言葉が口をついて出る。
「美桜……。覚えているのか?」
そのお父さんの問いかけに頷くと、萌姉が抱きついてきた。
「みぃちゃん! 良かった……、良かったよぉ」
「萌姉。ごめんね、心配かけて」
涙声になっている萌姉を抱きとめる。
萌姉はそんな状態ながらも、「ホントだよ、まったく」とからかうように笑った。
「真璃。よかったわね」
そして真璃のお母さんも、真璃に言葉をかけている。
「……うん。ありがとう、お母さん」
真璃はそう答えるが、その声に力が無い。
萌姉と同じように真璃のお母さんの目にも涙が浮かんでいるが、それは喜びというよりも、むしろ……。
「此花さん、雛本さん」
声をかけられ、私に抱き着いたままの萌姉の背中を叩きながら顔を向ける。
先生が私達を優しい眼差しで見ていた。
「雛本さんの計画を聞いた時、私は正直そんな事が可能だとは思いませんでした。……ただ、雛本さんの最後の願いだと思い、力になろうと思っただけで」
そこで言葉を区切った先生は、真璃に視線を送り、何かに納得するようにして続ける。
「私は医者ですから。非科学的な物はなかなか信じる事は出来ないのです。しかし、医療や科学を超える力を、お二人は見せて下さった。愛の力——、とでも言えば良いのでしょうか。これは尊敬に値するものです」
先生の言葉に少し照れくささを感じたが、それよりも気になる事が一つ。
「愛の力って……」
私と真璃が好き合っている事を知らないと出ないんじゃないだろうか。
ようやく私から離れた萌姉が、私の独り言に近い言葉に答えてくる。
「二人がそういう関係だって、私はずっと分かってたよ。皆は真璃ちゃんに聞いて初めて知ったみたいだけど」
「はぇ?」
思いがけず変な声が出た。
いや、ちょっと待って。
「え、だって私達女の子同士なのに……、なんで皆そんな普通にしてるの?」
我慢できずに聞くと、お父さんが笑いだす。
「そりゃあお父さんだって最初は驚いたさ。でも美桜が選んだ人で、それで幸せになれるなら、お父さんは誰でも受け入れるさ」
——私が幸せになれるなら。
お父さんもお母さんと同じく、私の幸せを自分の幸せだと思ってくれる人。それはきっと萌姉も同じで。
真璃のお母さんも、真璃の幸せを考えている。
その考えを理解した私は、皆の想いをしっかり感じる事が出来た。お母さんのお陰だ。
「真璃ちゃん。美桜の事、よろしくね」
「……こちらこそ、不束者ですが」
聞いた事があるような会話。
「真璃がドレス着るんだよ」
だから私はその先の会話を先取りして言葉を投げる。
「二人で着ましょう」
真璃の返しに、私達は二人で笑い合った。
話がひと段落したところで、私は改めて口を開く。
「私、真璃と中庭に行こうとしてたの。ちょっと行ってくるね」
それを聞いて、先生が前に出た。
「雛本さん、あなたは——。……いえ、無粋ですね。失礼しました。どうぞ行ってください」
何かを言いかけた先生は、口を噤んで道を開ける。
皆は先ほどとはすっかり変わり、沈んだ表情を浮かべていた。
真璃のお母さんは止めどない涙を流して俯いている。
「……行ってきます」
皆の中を、車椅子を押して通る。
皆がどうしてそんな表情をしているのか。先生が真璃に何を言いかけたのか。
私はなんとなく分かっていながら、でも分かっていないふりをして、談話室へと歩みを進めた。
◆ ◆ ◆ ◆
十五時過ぎの談話室には、珍しく人がいなかった。
中庭を見てみると、まだ三月に入ってすぐで寒いため、勿論そちらにも人はいない。
私は自分が羽織っていた上着脱ぎ、真璃の体にかける。
真璃は「ありがとう」と言って微笑んでいるが、口はあまり動いておらず、言葉も空気が混ざっていて囁きのように小さいものだった。
中庭に足を踏み入れる。やはり寒い。
空はさっきまでの青空が嘘のように灰色の雲に覆われていて、辺りが少し暗く感じる。
植物も本当に春が近いのか心配になるほど元気が無いように見えて、寂しそうにしている。
私は車椅子を押して桜の木の下のベンチまで移動して、車椅子をベンチの真横に付けた。
真璃の隣に座るように、私もベンチに座る。
「よくここで話したよね。あの時は桜が咲いてたけど」
その時の事を思い出しながら、真璃に語りかけた。
「そういえば、真璃が初めて名前を呼んでくれた時、凄く嬉しかったなぁ。私がなかなか素直に言い出せなくて。真璃が気付いてくれたんだよね。ありがとう」
あの時はずっと苗字でお互いを呼んでいたから、名前で呼び合いたいって言うのがちょっと恥ずかしくて。
……でも今思えば、あの頃から私は、真璃の事を意識していたのかもしれない。
「あ、夏祭りの時さ、私真璃と目が合って凄くドキドキしてたんだよ。花火の事なんて全然覚えてないくらい。今度はちゃんと花火も見たいな」
夏祭りの時の私は、真璃の事を好きだと思いながらも、抑え込んでいた。気付いてはいけない感情だと思っていたから。
「ハロウィンの時はドキドキなんて通り越したけどね。私体が熱すぎて燃えるんじゃないかと思ったよ」
でもあれが無かったら、私は自分の気持ちを正しく受け止める事は出来ていなかっただろう。
そしたらあの夜の事も無かっただろうし。
そしてあの夜の事が無かったら、真璃とこうしてまた逢う事も、出来なかったかもしれない。
「真璃、今回凄いぐいぐい来たよね。ほっぺにキスしたり。あと、『あーん』とか恥ずかしくてした事なかったのに。私もドキドキしたけど、真璃も相当だったでしょ、あれ。……でも、ありがとう」
それもきっと、私の気持ちを思い出させるための真璃の全力だったんだろう。
真璃には随分頑張ってもらった。
だから私もその分を返さなくちゃいけない。
——そう。
真璃にはこれから、幸せになってもらわなきゃいけないんだ。
私のために頑張ってくれた真璃に、その分のお礼も込めて、私が幸せを沢山あげないといけない。
「真璃?」
さっきから私が話してばかりで、真璃が何も言ってくれない。
真璃を見ると、ただつぼみが付いた桜の木を見上げるように天を仰いでいた。
「……美桜。私は、本当は美桜の前から消えた方が、良かったのかもしれない」
今にも消え入りそうな声で、真璃はそんな事を言う。
「消えるって……、何言ってるの、真璃?」
「でも、美桜には、私の事、覚えててほしかったの。……ごめんね、勝手で」
真璃が途切れ途切れ言いながら、その体を力なく傾けて、私の肩に頭を乗せた。
そして、ぽつりと。
「美桜……。私、死にたくないなぁ……」
それは多分。
真璃が初めて声に出した、心からの本音。
今まで真璃が弱音らしい弱音を漏らした事があっただろうか。
最初は何もかも諦めてるようだった。
途中で私と仲良くしてくれて、よく笑うようになって。
あの夜からは、多分私の事を一番に考えてくれていた。
真璃から自分自身の事を考える時間を奪ったのは、多分、私だ。
そしてそんな真璃が、やっとその心を、私にだけ打ち明けたのだ。
私はもう、瞳から溢れ出す様々な感情を止める事は出来なかった。
「私だって……っ! 私だってやだよぉ……! やっと、やっとこれから、本当の二人の時間を始められると思ったんだよ……? なのに、どうして真璃がいなくなっちゃうの? どうして真璃なの? どうして……っ!」
どこにぶつける事も出来ない激情を、私はとにかく真璃を抱きしめるのに使う。
真璃の肩に手を伸ばして、真璃の細い体を、その存在を繋ぎ止めるように強く抱いた。
「……美桜。好き。どうしようもなくらい、大好きよ。……大好き。愛してる」
繰り返される私への愛の言葉は、まるで最後に未練を残さないように、ありったけの感情を吐き出しているように見えて。
私はさらに腕に力を込める。
「私も大好きだよ! だから行かないで! 私が傍にいて、真璃に力をあげるから! だから、私を置いて行かないでよぉっ!」
叫びが、中庭に木霊した。
それに呼応したかのように、灰色の空から雪が舞い落ちてくる。
三月に降る雪は、まるで私達から春を遠ざけるようで。
そして私の腕の中。
真璃の体から、静かに力が抜けた。
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