今まで、ありがとう

 ……あの日。

 私のせいで、お母さんは死んだ。

 車の下敷きになって火に包まれていくお母さんの姿が、私の心のどこかで何かを焼き切った。

 ——そして私は、自分の罪の重さに耐えられず、その記憶を手放すことを選んだのだ。


 今回だってほら。もうそこまで来ている。

 あの悪夢のような出来事が、私の記憶に手をかけている。

 思い出してしまったこの悪夢を封印するために、私の記憶も一緒に封印されてしまうんだ。

 

『美桜』


 真璃の声がする。

 私の大好きな人の声。

 私と何度も友達になってくれて。……多分、ずっと私の事を支えてくれてた人。

 このまま記憶を手放せば、また真璃の事を忘れてしまう。

 やっと自分の気持ちに気付けたのに、振出しに戻ってしまう。

 そんなのは嫌だ。

 

 ……嫌だけど。

 この悪夢は、あまりにも私の心を蝕み過ぎている。

 私には、これを受け入れられるほどの心の力が無い。

 ……無理だよ。これをこのまま私の中に残すのは。

 きっと私は耐えられない。

 

 真璃の声が遠くなっていく。

 真璃の顔が、真璃のいた景色が、段々ぼやけていく。

 ああ、消えてしまう。

 真璃との思い出が、また奪われてしまう。

 少しずつ、何も知らない私に戻される。


 ………………。


 ……どうしよう。

 凄く嫌だ。

 忘れたくない。

 真璃の事も、真璃への想いも。

 もう失いたくない。


 ……思い出したくない。

 事故の事を。お母さんの死を。

 あんな記憶を私の中に残していたら、私の心はどうにかなってしまう。


 相反する二つの気持ちが、ギリギリの所でせめぎ合っている。

 どうすればいい?

 私は……、どうすればいいの……?

 誰か——。


『みぃちゃん』

 

 また声がする。真璃じゃない。

 これは、——お母さんの声。


『みぃちゃん。……ごめんね』


 覚えている。お母さんの最後の言葉。

 私をかばって車の下敷きになって。

 最後の最後で、そんな事を言ったんだ。


 ……なんで、私なんかに謝るの?

 お母さんが死んじゃう原因を作った私に、どうして謝ったの?

 違うでしょ。それは私の台詞だよ。

 「ごめんなさい」は、私からお母さんに言わなきゃいけない言葉なのに。


『みぃちゃんの幸せが、お母さんの幸せなんだよ』

 

 お母さんの声が響く。

 ああ、これは。確か、私がまだ小さかった頃。

 何気ない会話の中で、お母さんが私に言ってくれた言葉。

 あの時の私は、この言葉の意味をあまり理解出来ていなかった。

 他人の幸せを自分の幸せに置き換えるという発想が、小さい頃の私には出来なかったからだ。

 

 でも、今なら少しは理解できる。 

 真璃が幸せになってくれるなら、私はなんだって差し出せる。

 だって、真璃が私の隣で笑ってくれる事が、何よりも嬉しい。

 ……いや、私の隣じゃなくたっていいんだ。

 真璃が笑ってくれるなら、とにかくなんだっていい。


 きっと、そういう事だ。人を愛するというのは。


『みぃちゃんは、将来どんな人を好きになるのかなぁ』


 これは、小学生の低学年くらいの頃。

 何かの流れで、「大切な人」についての話になった時、お母さんが言った言葉。

 あの時のお母さんは、そんな事を言いながら楽しそうに笑っていたっけ。

 多分これも、未来の私の幸せを想像して、笑っていたんだ。


 ……そう。

 お母さんは、いつも私の事を考えてくれていた。

 私の事を、一番近くで見守ってくれていた。


『みぃちゃん。……ごめんね。————』


 再び、あの言葉が聞こえた。でもなんだろう。

 まだ何か聞こえた。

 あの時。火に包まれる前に、お母さんはもう少し何か言っていた。

 

 もう見たくもないその時の映像を、もう一度再生する。

 耳を澄ませ。思い出せ。お母さんの、本当の最後の言葉を。

 

『みぃちゃん。……ごめんね。————ありがとう』


 それが。

 お母さんの、最期の言葉だ。

 お母さんはこんな私に謝って、感謝までしていた。

 

 自分の幸せは、愛する人の幸せだと思えるようになった今。

 その言葉を理解できる。

 

 ——あなたがもっと幸せになる所を、見届けてあげられなくて、ごめんね。


 ——私に沢山の幸せをくれて、ありがとう。


 きっと、それがお母さんの言葉の意味。

 私の幸せを一番に考えてくれていた、お母さんの心。

 

 ……でもね、お母さん。

 やっぱり違うよ。それは、やっぱり私の台詞だ。


 私の幸せを願ってくれて、ありがとう。

 そして。

 お母さんの言葉の本当の意味に今まで気づけなくて、ごめんなさい。


 ……お母さん。私、好きな人できたよ。

 お人形さんみたいに綺麗で、思わず感動しちゃうほど絵が上手で、こんな私と何回でも友達になってくれるほど優しい。

 真面目になるとちょっと怖くて、でも、見てると私まで楽しくなる笑顔をくれるような人。

 

 私の幸せは、その子の幸せだから。

 私の幸せを自分の幸せだと言ってくれたお母さんのためにも、自分の幸せのためにも。

 その子をこれ以上悲しませるわけにはいかないの。

 だから、この悪夢を、乗り越えなきゃ。


 ふと思った。

 もしここまで理解出来ず、決心も無いまま、この事故の記憶が私の中で生きていたら。

 きっと、私の心は壊れてしまっていただろう。

 自分の罪も、お母さんの死も。

 許せず、乗り越えられず、何も出来ないまま、多分心が砕け散っていた。

 この繰り返される記憶喪失が、多分私の心をすんでの所で守ってくれていたのだ。


 だからもしかしたらそれは、お母さんが私を守るために最後に残してくれた、愛の形だったのかもしれない。


『もう、大丈夫なの?』


 お母さんの声ではあるが。

 おそらくこれは、私自身との対話。

 

——うん。大丈夫だよ。だって、私には真璃がいるから。これからは真璃と、真璃との思い出が、私を守ってくれるから。


 だから。


——今まで、ありがとう。お母さん。



          ◆ ◆ ◆ ◆ 



「美桜……」

 声がする。

 泣きそうな声。 

 私を、呼ぶ声。


 目を開けると、白い床があった。聞こえるのは無機質で甲高い、心電計の音。

 手には、少しだけ骨ばっているけど、柔らかくて温かい感触。

 目の前のベッドに寝ている、誰かの手を握ったまま、私は白くて冷たい床にへたり込んでいた。


「美桜……っ」


 知っている。この声。この手。

 私に幸せをくれる人。

 私が幸せにしたい人。


 私の————大好きな人。


 その手を握りしめて、顔を上げる。

 足に力を入れて、ゆっくり立ち上がる。

 自然と瞳から涙が溢れる。

 そして、ベッドの上から何度も名前を呼んでくれていた、その子に伝える。

 私との約束を果たすために、頑張ってくれた、その子に。

 精一杯の感謝と、愛しさを込めて。

 

「————また、逢えたね。真璃」

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