私、真璃のことが好き

 拳で思いきりテーブルを叩く音が、病室の中に響いた。

「なんのための延命治療だったんですか!!」

 夕焼けのオレンジ色に染まったテーブルを叩き付けたまま、お父さんは私のベッドの前に立っている主治医の先生を睨む。

「すみません。私にも、予想外の事で……」

 まだ三十代前半ほどであろう比較的若いその先生は、お父さんの怒りを受け、声を小さくして頭を下げた。

 そして、お母さんは嗚咽を漏らしている。

 そんな声や音をどこか遠くに聞きながら、私はベッドに投げ出しているの自らの足を見つめていた。


 ……昨日ハロウィンパーティーで感じた足の違和感は、気のせいなどではなく。

 今朝目覚めると、どうしても歩けないというほどではないが、足に力が入りにくくなっている事に気付いて。同時に、かすかに胸に痛みも感じた。

 ナースコールを利用して先生を呼び、それを説明すると、すぐに検査をする事になったのだが。

 朝から夕方まで、ほぼ一日を費やすほどの様々な検査によって出た結論は、『病状が急激に悪化していて、私の命はあと半年あるかないか』という事らしい。

 今は力が入りにくいだけだが、近い内に足は動かなくなるだろうと言われた。また、胸の痛みは、心臓周りの筋組織が異常を訴えているからだとも言われ。

 私はそれを、他人事のように聞いていた。

 目の前が真っ暗になる、というのは、こういう事を言うのだろう。


 途中からあまり聞いていなかった先生と両親の話は、いつの間にか終わっていたらしい。気が付くと、先生は病室から出ていく所だった。

 先生が会釈をして病室から出て行った後、お母さんは私を抱きしめながら泣いていて、お父さんは今度は壁を叩いて俯いている。

「……今日はもう一人にして」

 私の事で悲しんでくれている両親に、なんて冷たい声を出すのだろう、と自分でも思う。しかし特に意識しないまま、私の口はそう動いていた。

 お母さんもお父さんも、私の言葉を聞いて色々言っているようだったが、特に耳に残る物は無く。

 結局三十分くらい経った後に、病室から出ていくのだった。


 十七時過ぎ。外は暗くなり、私一人だけとなった病室に静寂が訪れる。

 私は右手を握りしめて、思いきり右の太ももに振り下ろした。

 鈍い痛みが走る。ちゃんと感覚はある。——なのに、もう動かなくなるんだ、これ。

 ふと、さっき先生が話していた事が頭の中で繰り返される。他人事のように聞いていた話が、やっと自分の事だと少しずつ脳が理解し始めていた。 

 食べ物をゆっくり咀嚼して飲み込みやすくするように。私の脳が、私はあと半年も生きられないのだと、ゆっくりと理解していく。

 

 瞬間、黒い感情が胸の奥で蠢くのを感じた。

 ……いけない。この感情に呑まれてはいけない。

 私が一番よく知ってるはずだ。こんな物に支配される事の愚かしさを。

 そう思いながらも、しかしそれは少しずつ心を蝕んでいく。

 頭に衝撃が走る。比喩じゃない。私は実際にベッドテーブルに額を打ち付けていた。

 また前の私に戻るの?

 そんな事は絶対に許されない。昨日まゆちゃんに偉そうな口を叩いておいて、自分がまたそこに戻るなんてあり得ない。

 ——何より。

 美桜の想いを、全部否定するみたいじゃないか。

 あの子のおかげで、私は変われたのに。戻るわけにはいかない。


 ……だけど。私は理解してなかった。

 死がこんなに怖い物だと、理解してなかったんだ。

 もう、すぐそこまで迫ってきている死が、私を見ている。

 その気配に背筋が凍る。

 嫌だ。……だって、美桜に会えなくなる。

 やっと好きっていう感情を理解したのに。その恋を始める時間さえ、神様は私に与えてくれない。


 どうして私はこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。

 もし、ここに転院してすぐの頃の私が同じ状況になったら、どう感じていたのだろう。もしかして、ここまで苦しんではいないのだろうか。あの時の私は、全部諦めてたから。

 ……そう。諦めた方が楽なんだ。変な希望を持つから、辛くなったり苦しくなったりする。

 今の私には、美桜との思い出が多すぎる。だから辛くなる。


 ——こんなに苦しい思いをするなら、いっそ、美桜と、出会わなければ良かった。


 耳をつんざくような音が響いた。私の額とベッドテーブルがぶつかった音だ。

 私は再び頭をテーブルに打ち付けていた。先ほどとは比べ物にならないくらいに強く、ありったけの力で。


 今、私何考えたの? 

 美桜と出会わなかった未来なんて、それこそあり得ない……!

 そんな最低な未来を、私は望まない!

 ……でも、一瞬でもそんな事を考えてしまう私は、やっぱり駄目だ。

 美桜と出会って、少しは変われたと思ってたけど、本質的な所は何も変わってない。

 結局私の心は、こんなにも弱いままだ。 


 もう、自分でも何を感じて何を考えているのか分からなくなってきた。

 ただただ、ぐちゃぐちゃ。私の心は色んな思いでぐちゃぐちゃになって摩耗して、疲れ切ってしまった。

 ベッドに体を預けて、天井を見る。

 そしてそのまま、目を閉じた。



          ◆ ◆ ◆ ◆



 あれから夕食の配膳に来た看護師に起こされるも、何一つ喉を通ることはなく。

 その後もひたすらにベッドの上で過ごした私は、いつしか消灯時間が来ていた事すら気付かずいた。

 真っ暗な病室に、ぽつんと横になる私。

 その闇は、今の私には死を連想させる物で。ぞわぞわとした感覚が全身を這いずり回り、眠るどころか目が冴えていく。

 ……そういえば今日、美桜と会ってない。

 ふと思った。ここに来てから、ほぼ毎日顔を合わせていたから、なんとなく違和感を感じる。まぁでも、そんな場合でもなかったし。

 などと考えていた矢先。カラカラ、と控えめな音が病室の入り口から聞こえてきた。こんな時間に聞こえるわけがないその音に、思わず体を震わせる。

 あれは、出来るだけ音をたてないように意識しながら引き戸を開けた音だ。

 看護師の巡回? いや、今まではそんなの気が付かなかった。

 嫌な緊張感を感じながらも、私はそちらに目をこらす。

 開けた時と同じように、最小限の音で閉まっていく扉。そして静かに誰かが私の方へと近づいてくる気配。

 薄暗い中、私のベッドの脇に立ったのは、美桜だった。

 さすがにここまで近づかれたら顔が見える。お互いに目が合うのを確認した。

「真璃。良かった、起きてた」

 そう言って微笑む美桜を見て、私は体の緊張を解きながら上体を起こす。

「無言で入ってくるのはやめて。怖いから」

「ごめんね。でももし寝てたら、起こすのは悪いなって思って……」

 そこまで言うと美桜は一度沈黙し、何かを考えるようにした後、再び口を開いた。

「あのね。真璃の体の事、真璃のお母さんから聞いたよ。さっき、ご飯の前に」

 ……驚いた。ご飯の前にという事は、お母さんは私の病室から出て行った後、その足で隣の病室にいる美桜の所に行ったのか。

「本当はすぐに来たかったんだけど、どう声をかけようかって悩んじゃって。……結局こんな時間になっちゃった」

 善意に満ちた美桜の言葉だったが、沈んでいる私の心は、意地悪な言葉を返してしまう。

「そう。……で、美桜はこんな私になんて声をかけるの?」

 私の冷めた声を受けた美桜は、ゆっくりと首を横に振った。

「……考えたけど、思いつかなかった。本当はいっぱい声をかけてあげたいけど、今の私の言葉は、多分、真璃にとってはどれも薄っぺらく感じちゃうだろうから」

 私はどこかで期待していた。私の心を開かせてくれた美桜なら、もしかしたら、こんな状況でも私を引き戻してくれる言葉を持っているんじゃないかって。 

 でも、やっぱり美桜でも駄目だった。

 そして、私の口が動く。

「へぇ。わざわざそんな事を言いに来たの?」

 違う。こんな事を言いたいんじゃない。それなのに、私の弱い心が口から漏れ出てしまう。

 ……ほんと、嫌になる。

 自分のどうしようもなさに、美桜から目を逸らして唇を噛みしめていると、突然掛け布団がめくられた。

「何も言えないけど、傍にいる事は出来るから。……だから、今日は真璃と一緒に寝ます……!」

 決意するように言いながら、美桜が私のベッドに入ってくる。

「え? ちょっと、そんな突然——」

 驚きの声をあげる私に、美桜はそれを言わせまいとするかのように声を重ねてきた。

「だって、私が傍にいるだけで真璃の力になるんでしょ? なら私、ずっと真璃の傍にいるよ」

 今度こそ、私は驚きの声すら出なかった。

 だってそれは夏祭りの日、私が美桜に言った言葉で。

 あれから美桜は記憶をリセットされてるはずだから、そんな事を覚えてるわけがないのに。

 驚愕で動けずいる私に、美桜は言う。

「『前の私』の日記に書いてあったの。真璃にそう言われたって。日記に書いちゃうほど嬉しかったんだね、きっと」

 照れたように笑う美桜。

 ……そうか。覚えてるわけではないのか。

 でも多分、あの時花火の音でかき消されて聞こえなかった言葉を、今この美桜は口にした。

「……やっぱり、美桜は美桜なんだね」

 私は、上手く力の入らない足を動かして、ベッドに入ってくる美桜を受け入れた。



 ベッドは二人で寝るスペースは十分あったが、私達はどちらからともなく真ん中に寄って肩を触れ合わせる。

 それだけの事で、あれだけ荒波を立てていた心がいつの間にか高鳴っているんだから、随分現金な心だ。

「ねぇ、真璃。ちょっとこっち向いて」

「……ん」

 美桜に言われて、美桜の方に体ごと顔を向ける。

 すると、美桜は自分の体を少しだけ上にずらし、私の顔を自分の胸に抱くようにして、私を抱きしめた。

 柔らかい膨らみを頬に感じて、心臓が大きく跳ねる。

「み、美桜……?」

「私が不安な時、お母さんがよくこうしてくれたの。だから、真璃にもしてあげる」

 そう言って、赤子をあやすかのように、美桜は私の背中を優しく叩いてくれる。

 美桜の匂いで肺がいっぱいになって、鼓動が更に早くなった。

 ……確かに、不安な心はどこかに行ったけど。その代わり、私の心臓は今別の意味で不安定になっている。

「美桜。私、これ以上されたら、大変なことになるわ」

 色んな意味を込めてそう告げると、美桜は静かに笑った。

「私もちょっとヤバいかも。……ねぇ、私の胸の音、聞こえる……?」

 言われるも、自分の心音がうるさすぎて、美桜の心音がうまく聞こえない。しかし、美桜は言葉を続けた。

「私、今信じられないくらいドキドキしてる。おかしいよね。女の子同士なのに。——でも、もしかしたら真璃も同じなのかなって」

 美桜を見ると、上に体をずらしたために、ちょうど顔が月明かりに照らされている。

 真剣な表情で、耳まで真っ赤だ。

「真璃に会った時からね、不思議な気持ちはあったの。なんか変にドキドキしたり、真璃の動きが気になったり。……でも、昨日、その。……キス、しちゃった時に気付いちゃった」

 私は、その言葉の続きがなんとなく分かって、思わず息を呑んだ。

 一度「えへへ」と恥ずかしそうに笑った後、美桜は私に告げる。

「私、真璃のことが好き。大好き。友達とか、そういうんじゃなくて。これ、恋してるの。真璃に」

 ——美桜も、同じだった。

 私はなんで零れてるかもわからない涙が瞳から流れるのを感じた。

「真璃の事、二ヶ月より前は日記の中でしか知らないはずなんだけどね。ずっと前から好きだったような気がするの」

 美桜が、涙を拭うように私の頬に優しく手を這わせる。

「だから、私考えたんだけど。もしかしたらね——」

 慈しむような微笑みを浮かべて、美桜は言った。


「——記憶が消えちゃっても、想いは消えないのかもしれないね」


「想いは……消えない……」

 そうだといいな、と。私も思って。

「私も、美桜の事、好きよ」

 そのまま、自然とそう言葉が出る。

 美桜はそれを聞いて嬉しそうに目を細めたが、すぐに不安げに眉尻を下げた。

「でも、私、これも忘れちゃうんでしょ? ……どうして忘れるのかは分かんないけど。そろそろだもんね、今までの感じからすると」

 美桜が寂しそうに続ける。

「ごめんね、今は真璃の方が絶対不安なのに。でも、やっぱり私嫌だよ。せっかく真璃と両思いになれたのに。忘れちゃう……っ」

 今度は美桜の頬に涙が伝うのが見えた。月明かりで光るそれは、音も無く枕に落ちる。

「……大丈夫よ。想いが消えないなら。私達はきっとまた両思いになれるわ」

「そうかな……? 私達、また逢えるかな?」

 ——それは、この気持ちを持ってまた逢えるだろうか、という美桜なりの表現なのだろう。

 なら、私が返す言葉は一つだ。

「逢えるわ。私達なら大丈夫。美桜の中にその想いが残ってるなら、私が絶対それを引っ張り上げて見せるから」

「……うん」

 そして私達は、昨日のような事故ではなく、私たちの意思で、唇を重ねた。

 

 これは誓い。

 絶対に私たちが、また逢うための。


 私はもう迷わない。

 足が動かなくなろうと。

 この先に未来が無いとしても。

 あんな黒い感情に呑まれたりなんてしない。

 私の命が尽きるまでは、絶対に美桜から離れない。

 

 だから美桜。

 どうかあなたも、その想いを残してて。


 ——記憶が消えたとしても、想いは消えないかもしれない。

 その言葉を、私は信じてる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る