またここで君と逢いたい
想いを伝えあった夜から約二ヶ月経った、十二月の終わり。
私は足が不自由になり、毎日痛み止めを服用するようになった。
そして美桜は、前回記憶のリセットをしたのが九月に入ってすぐだったので、約四ヶ月も様子が安定していた。
今までよりも長く安定した状態を保てていたのは、自惚れかもしれないが、私と美桜がお互いの想いに気付けたから……、かもしれない。
あの夜以降、私達はその前よりも更に一緒にいる事が多くなった、というより一日中一緒にいた。そのため、美桜は母親の事を気にしてはいたが、私の方に意識を割く割合が多くなっていたのであろう。
さすがに母親がお見舞いに来ない事を不審に思って倒れるようになったのは、十二月下旬の頃だった。
私は足が不自由になったために電動車椅子での生活となっていたが、基本美桜が押してくれていたので、電動の機能を使う事はほぼ無く。
あと二人きりの時には……、まぁ、たまにキスしたりして。私達は女同士で、この関係を周りに気付かれるのは避けたいという気持ちもあり、本当にこっそりとだが。
この二ヶ月間は、そんな生活を送っていた。
しかし、そんな生活も今日で終わり。
美桜の状態が不安定になったら、事故の事を美桜に伝えて、記憶をリセットしなければならない。
だから、今までは和幸さんと先生に任せて私は見ているだけだったが、今回は私が美桜に伝えたいと希望した。苦しむ美桜を見るのは嫌だが、なんとなく美桜の事を私以外の人に任せるのも嫌だったのだ。
「真璃? なんか、顔怖いよ」
美桜が不安そうに私を見る。
お昼過ぎ。美桜の病室で、美桜はベッドに腰かけて、私はベッドの真横に車椅子を付けていた。和幸さんと先生は、病室の外で待機している。
「そうね……。少し、大事な話があるの」
無意識に両手を握りしめて、そう伝える。
思った以上に口が動かない。美桜が苦しむのが嫌だという気持ちも大きいが、それよりも大きいのが、美桜との関係を終わらせる事への気後れだった。
これで美桜の記憶は消えてしまうのだ。私が絶対にまた美桜の想いを引っ張りあげると宣言したが、やっぱり不安はある。
「……そんなに、苦しそうにしないと言えない事なの?」
言いながら、美桜は身を乗り出して私の頬に触れた。そしてそのまま顔を近づけてくる。
おそらくキスをしようとしていたであろう美桜の顔を、私は右手で制した。
だって、今そんなに優しくされたら、多分私は言うべき事を言えなくなっちゃうから。
「真璃……?」
彼女の震える声をかき消すように、私は口を開いた。
「美桜。あなたが何度も記憶を失ってしまうのは、一月に起きた高速道路での事故が原因なの」
その勢いのまま、言い放つ。
「そしてその事故で美桜のお母さんは……、亡くなったわ」
美桜は一瞬固まって、そして両手で頭をおさえ。
次の瞬間、室内に美桜の大きなうめき声が響く。
いつもの苦しげな声。美桜はいつもこうして意識を失う。「いやだ」、「ごめんなさい」とうわ言のように呟いて、倒れてしまう。
私はそれを、目を逸らさずに見ていた。美桜が苦しんでいるのに、私が私の苦しみから逃れるのに目を背けるのは嫌だから。
……いつもとの違いは、美桜のそのうわ言のような呟きが終わった時に起きた。
美桜が目の前にいる私の右腕を、その右手で思いきり掴んできたのだ。
いつもならとっくに意識を失っている頃のはずなのに、美桜は私の腕を痛いくらいに握って、放そうとしない。
「み、美桜?」
おかしい。明らかにいつもと様子が違う。
苦しそうな低いうめき声を上げながらも、私の腕を握って意識を保とうとしている美桜を見て、私は少し期待していた。
もしかしたら、このまま耐えきってくれるんじゃないかって。
その苦しみを耐えきって、記憶を残したまま意識を保ってくれるんじゃないかって。
……そう思った矢先、美桜の手は私の腕から落ち、力の抜けた体が私に寄りかかってきた。
「……そうよね。そんな都合のいい話があるわけが無かったわ」
美桜の体を支えながら、思わず落胆の呟きをこぼす。
これから何日か寝たきりになる美桜へのその後の対応は、病室に入って来た先生に任せた。これは私には出来ない事だから、先生に任せるしかない。
自分の病室に戻りながらも、私は考える。
なんで今回美桜は、意識を失う前にあんな事をしたのだろう、と。
◆ ◆ ◆ ◆
美桜が目覚めたのは、一週間後の、二〇一九年一月上旬だった。
流石に一週間寝たきりだった美桜は、少しやつれてるように見えて、すぐに声をかけに行くのを躊躇した。
二日ほど待ってから今まで通り声をかけに行くと、分かっていた事だが、すぐに仲良くなれる。
最初は私を忘れてしまっている事への申し訳なさもあるようだったが、それも徐々に無くなって。さらに一週間後には、美桜は今まで通りの笑顔を浮かべるようになっていた。
そんな彼女に、私は何のアプローチもせず、これまで通り普通に接していた。
美桜の中に残っているかもしれない私への想いを引き上げなければならないという気持ちもあったが、ある一つの仮説を確かめたかったからだ。
二月下旬。何事も無く過ごしていた美桜は、母親の事を怪しみだす。
だから美桜に、前回と同じように、私が事故の事を告げる。
しかしその時、美桜は普通に意識を失ってしまい、前みたいに意識を保とうと抵抗するような素振りは見せなかった。
それで私は、私の仮説が正しいかもしれないと思い始めた。
——あの時美桜は、私への想いを忘れたくなくて、記憶を封印しようとする脳の働きに抵抗したのではないか。
そう。『事故の事を忘れたい』と美桜が強く思う事で記憶のリセットがされてしまうならば。美桜が何かを『絶対に忘れたくない』と強く思う事で、その記憶のリセットを食い止める事が出来るのではないだろうか。
精神的要因というが、語弊を恐れずに簡単に言えば、気持ちの問題という事だ。
私と想いを通じ合わせた夜、美桜は泣いていた。忘れるのが嫌だと。
その強い思いが、あの抵抗を引き起こしたのだとしたら。
美桜の心に残っているという私への想いをもう一度引っ張り上げてやれば、記憶のリセットに抗えるかもしれない。
「……日記になってないわね」
二月もそろそろ終わろうとしている日の消灯時間前の夜。病室のベッドの上で、ついぼやいた。
そんな仮説や考えを日記帳に記すようになったのは、今年に入ってすぐの頃からだ。
頭の中だけで整理すると忘れそうになるので、私の日記帳はいつの間にか、その日に考えた仮説についての事を書き殴るノートと化していて。
「どうしよう、これ」
一月からのページをぺらぺらとめくりながら独り言。
美桜についての仮説をこんなに書いてあるのを、もし誰かに見られたらちょっと恥ずかしい。間違っているかもしれないし。
いっそ破ってしまおうか。……ああ、それがいい。これはこれで考察ノート的な感じで日記帳とは別に保管する事にしよう。
そう思い、私は今年に入ってから今日までのページを根こそぎ破り取ると、折りたたんだそれを棚の日記帳を入れている引き出しとは別の引き出しにしまい込む。
美桜もあと二、三日で目を覚ますだろう。そしたら私への想いを絶対思い出させてやるんだ。
そう決意してベッドに横になろうとした時。突然胸が鋭い痛みに襲われた。
——あれ、ちゃんと痛み止めは飲んだはず。なんでこんなに急に痛み出すんだ。
痛みがどんどん大きくなって、息をする事も少しずつ困難になってきている。
まずい、と思ってナースコールに手を伸ばした。
多分、押せたと思う……。
朦朧とする意識の中、ナースコールを押し込んだどうかの判断も怪しいまま、私は意識を手放した。
◆ ◆ ◆ ◆
「……雛本さんの病状は、もう末期です。……誠に申し上げづらいですが、もう病院でも、これ以上は何も出来ません」
次の日の朝。目覚めると、病室には両親がいて。
私が目覚めた事を聞いた主治医の先生が、病室まで訪ねて来てそんな事を言った。
「病院でただ痛み止めを飲んで過ごすよりも、ご両親と一緒に、自宅で最期の時間を過ごす、という選択肢もあります」
お父さんもお母さんも、何も言わないでじっと聞いている。
「自宅療養をする場合、痛み止めの処方の他に、一日に一回は自宅の方にご訪問させて頂いて、点滴などのサポートもします。不安もあるかもしれませんが、最後は自宅でご家族と過ごすという方は多いです」
そうしてお母さん達のいくつかの質問に答えた後、「ご一考ください」と言い残し、先生は出て行った。
先生が去り、少しの間病室は沈黙が流れたが、お父さんがこちらに向き直る。
「真璃。私は自宅療養で良いんじゃないかと思う。……少しでも真璃と一緒にいれる時間が多い方が……、私は良い……」
言いながら、泣き始めてしまうお父さん。お母さんもそれに続いて泣き始めていた。
ああ。思えば、この二人には悲しい思いをさせてばかりいる。いつも私の事で泣いている。
——もう、いいかもしれない。
美桜の事……。せっかく記憶のリセットに抗う手段を見つけたと思ったけど。
もしこのまま私が自宅療養を選べば、お父さんとお母さんと少しでも長く一緒にいてあげられるし。
それに、美桜だってそのまま私の事を忘れられる。
美桜の主治医の先生に、美桜に今までの日記を見せないようにお願いすれば、私は美桜の前から綺麗に消える事が出来るんだ。
どうせ私はいつか死ぬんだから、美桜もそっちの方が辛くないかもしれない。
両親の事も、美桜の事も、どちらの事を考えても、私が自宅療養を選択するのが正解だ。
……それが、正解なんだ。
……言わなきゃ。私の、気持ちを。
「お母さん。お父さん。私ね——」
◆ ◆ ◆ ◆
——絵を、描いていた。
談話室から見える、中庭の絵だ。
鉛筆で、モノクロの中庭をスケッチブックの上に広げていく。
……私は、結局病院に残る事を選んだ。
美桜には私を忘れてもらって、家族と一緒に静かに最期を迎える。
そんな明らかな正解の選択肢を、私は選ばなかった。……いや、選べなかった。
例えば私が何かの物語の主人公なら、そんな大人でかっこいい選択をして、綺麗に物語を閉じるなんて事があっても良いかもしれない。
でも残念ながら、私は意地汚くて欲張りな、ただの恋する女の子だ。
そこまで大人でも、かっこよくもない。
私は美桜に、どうしても忘れてほしくないんだ。私という存在が、ここにあった事を。
美桜以外の誰かに忘れられるならいいけど、美桜にだけは、忘れられたくない。
——お母さん。お父さん。私ね、美桜の事が好きなの。愛してるの——
そう告げた時の両親は、泣きながら驚愕の顔をしていて、今でもすぐに思い出せる。
でも、ちゃんと話したら分かってくれた。……ちょっと戸惑ってはいたけど。
美桜の主治医の先生にも、和幸さんにも、萌果さんにも。私の美桜への気持ちを教えた。
皆、驚きながらもちゃんと理解してくれた。ああでも萌果さんだけは、なんとなく納得した表情をしてたな、そういえば。
そして私がやりたい事も、皆に伝えてきた。
……と言っても、これは出来るかどうか分からないし、実際なかなか分の悪い賭けかもしれない。
乗り越えなきゃいけない壁は二つ。
一つ目は、美桜が私への想いを思い出してくれるかどうか。
もう一つは、その想いで、記憶リセットに抗えるかどうか。
どちらが出来なくても、美桜の記憶リセットを止める事は出来ない。
その時は、私はおとなしく消えよう。
美桜は私の事を忘れて、私は美桜の前からいなくなる。それでいい。
でももしこの賭けに勝てたなら。
美桜の中に、私という存在を残すことができる。
意地汚くてごめんね、美桜。
でも、やっぱり私、あなたにだけは忘れてほしくないの。
だから美桜に私への想いを思い出してもらうために、私は私の全力を出す。
とりあえず、もう嘘はつきたくないわね。最低限の隠し事は許してほしいけど、出来るだけ嘘はつかないようにする。
あと、私がやりたいと思った事を思いきりやらせてもらうわ。もうなりふり構わない。全力のアプローチのをするの。
まずは食事で『あーん』は欠かせない。それと、頬にキスなんかもしてみたい。美桜は真っ赤になって照れるはずだ。絶対可愛い。もし美桜が不安そうになる時があれば、美桜がしてくれたのと同じように抱きしめて、優しく背中を叩いてあげよう。
そして最後に。
いつも笑顔でいる。
美桜が私に笑顔で笑顔を与えてくれたように。私は美桜の前では常に笑顔でいよう。
その笑顔がどんなに大切な物かを、私は美桜に教えてもらったから。
何も難しく考えない。ただ、美桜には私の笑顔を見てもらおう。
考えながら絵を描く手が震える。
この末期の痛みも抑えられるような強い痛み止めは、私の体の感覚を確実に奪っていた。
食事の味は感じないし、たまに手は震えるし。
……自分で分かる。私の体は、もう本当に長くない。下手したら、一週間後に生きているかどうかも分からない。
病気というのは徐々に悪くなるものだと思っていたけど、最後の追い上げは一瞬でやってくるらしい。
息を吐いて、中庭を見た。
桜はつぼみを付けている。咲くまであと一ヶ月。
私は、もう美桜と桜を見る事は、出来ない。
……思わず、泣きそうになる。
駄目だな。今さっき、笑顔でいようって決めたばかりじゃないか。耐えなきゃ。ここで泣くようじゃ、美桜の前でずっと笑顔なんて無理な話だ。
美桜の顔を思い出し、ぐっとこらえる。
ねぇ、美桜。あなたはいつ目覚めるのかしら。そろそろ目覚めても良い頃だと思うんだけど。
お父さんもお母さんも、和幸さんも萌果さんも先生も。
皆に協力しもらって、色々準備は出来てるんだから。
分の悪い賭けだと言ったけど、私は絶対に負ける気はない。
だってあの夜、また逢うって約束したもの。
あの約束を反故になんてしない。
私の、全てを懸けてでも。
——またここで
「こ、こんにてぃは……」
不意に。
横から、そんな声が聞こえた。
随分と懐かしく感じる声。
随分と懐かしい噛み方。
そちらを見やると、緊張した面持ちで、彼女は立っていた。
前は遠くからじっと見つめていたけど、今回はちゃんと自分から来てくれた。
挨拶の噛み方は全く同じだけど。
「……ふふっ」
思わず笑ってしまう。
やっぱり、美桜は美桜だ。
「ごめんなさい。急だったからびっくりしちゃったわ」
——始めよう。私の最後の大勝負を。
「こんにちは。初めまして? で良いのよね」
——あなたともう一度逢うために。
「私は雛本真璃。よろしくね」
——あなたの記憶に、私を残してもらうために。
泣いても笑っても。
これが、私とあなたの、最後の出会い。
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