1章 此花 美桜
私、階段から落ちただけなんですか?
目が覚めると、視界に入ったのは真っ白な天井だった。
次に窓。外にはつぼみがつき始めた木の枝が見える。……あれは桜だろうか。
そしてその手前にはテレビなんかがあったりして。
そう、ここは————
(病室、だ)
私は今、何故か病室のベッドで横たわっている。
とりあえず上体を起こして見回してみると、そこそこ広い個室だった。
どうして病室にいるのか分からず頭は混乱しているが、十五年生きてきて出来た癖は無意識に手に出る。私の左手は、いつも寝る前に枕元に置いているスマホを探していた。
しかし望みの物は当然あるわけも無く。
時間と日付を確認できる物は無いかともう一度見回してみると、テレビの脇にデジタル時計を発見した。しかも日付表示付きの物だ。
二〇一九年三月二日、十三時二十七分。
私はそこで目を閉じて思考に集中する。
私が最後に覚えているのは、お母さんとお父さんと私の三人で、家族旅行に行こうとしていたところだ。
あれは確かお正月が終わり、まだまだ寒い冬に温泉旅行に行こうという流れになって……。
正確な日にちまでは覚えていないが、一月だったことは間違いない。
つまり、私はこの三月までの一、二ヶ月の記憶が抜け落ちていることになる。
ここで寝ていたのだろうか? ……どうして?
肝心な所が全く思い出せない。
ふと、背中の後ろの壁に、ボタンの付いた棒状の物がぶら下がっている事に気が付いた。ナースコールだ。
(とりあえず病院の人呼ばなきゃ)
そう思い、そのボタンを押し込む。
……押し込んだところではっとして、再びデジタル時計を見る。
「にせん…………、じゅうきゅうねん?」
思わず声まで出た。
私が家族で温泉旅行に行こうとしていたのは1月の事だ。それは間違いない。
しかし、それは何年の事だった?
……そう、確か、あれは、二〇一八年の事だ。
◆ ◆ ◆ ◆
「自分の名前は言えますか?」
「
あれから程なくして看護師さんと先生がやって来て、私は色々と質問をされた。
「此花さんが住んでいる町は?」
「
自分の名前が言えるかどうか。自分の住んでいる町や通っている学校。家族の事や友人の事。そして————。
「じゃあ最後に、此花さんが覚えている最後の記憶を教えてください」
「私は……。二〇一八年の一月に、お母さんとお父さんと温泉旅行に行こうしてて……。準備とかしてて……。そこまでしか、覚えてないです」
「そうですか……」
先生は少し考えるように沈黙する。
私は先生の次の言葉が待てずに口を開いた。
「今は二〇一九年、なんですよね? 私、一年もここで寝てたんですか?」
先生は、その質問に頷きで返してくる。
それを見て、私は続けた。
「どうして、そんな事になったんですか? 私、その肝心な所が全然思い出せないんです」
「此花さんは、家族で旅行に出かけようとしたその日の朝、自宅の階段から転がり落ちました」
真面目な顔で、先生は言う。
それは全く予想していない展開だった。
「え? 私、家の階段から落ちただけなんですか? それで一年と二ヶ月くらいずっと寝てたんですか?」
一年も意識不明になるくらいだから、何か凄い事故に遭ったものだと思っていたのだが。
「落ちただけなんてとんでもない。階段から落ちて、お亡くなりになる方だっています。もっと打ち所が悪ければ、此花さんも危なかったんですよ」
先生の重い雰囲気に、私は思わず息を呑む。
もしかしたら死んでいたかもしれないと思うと、背中に悪寒が這い上がって来るのを感じた。
「階段から落ちる前からの記憶が抜け落ちているのは、事故の衝撃によるものでしょう。なんにせよ、目が覚めて本当に良かった」
先生はそう言ってにこやかな笑顔を見せた後、椅子から立ち上がった。
「ご家族の方には私から連絡しておきます。これからはリハビリや脳の検査などでしばらく入院していただく事になりますが、詳しい事はまた後日に。今日はゆっくりなさってください」
「ありがとうございます」
私はお礼を言いながら頭を下げる。
「ああ、それと」
先生は何かを思い出したかのように顔を上げると、白衣のポケットから一冊の小さめのノートを取り出して、私に差し出してきた。
私はそれを受け取ると、ぺらぺらと中を見てみる。
どうやらこれは日記帳のようだ。
「これから毎日日記をつけるようにしてください」
「日記を?」
「はい。なにせ一年も意識不明だったわけですから。万が一脳に問題があって、これからの記憶能力に何か影響が出るかもしれません。日記があれば、もしそうなっても思い出す手助けになります」
「なるほど……。分かりました」
返事をすると、先生は一礼した後、病室から出て行った。
とても丁寧で良い先生だ。
家族には連絡してくれるって言ってたし、しばらくすればお母さんとお父さんも来るだろう。
ここでおとなしく待ってるのが良いんだろうけど……。
私は、なんとなくベッドから起き上がっていた。
病室の外に出たいと思った。
どうしてこんなにその衝動に駆られるのかは分からないけれど。
床に足をついて立ち上がる。
一年も寝たきりな体がどの程度動くのか心配だったのだが、普通に立てるし、普通に歩けそうだ。
「意外と大丈夫なもんなんだなぁ……」
リハビリとか必要あるんだろうか?
そんなことを思いながら私は歩き出す。
そして病室の扉に手をかけ、静かに開け放った。
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