(第三稿)悪魔どもが愛の果て

汎野 曜

少女と人形

0. そして雨に消える

 刃が沈み込んで行く。

 立ち尽くす、男の胸元に鋭利な刃が突き刺さっていた。


 降り続ける雨の中で、男は透き通った刃のあるじを見つめて、静かに微笑んだ。無造作に引き抜かれる刃の下、雨と泥の中に男は微笑を浮かべたまま倒れ、そうして事切れた。

 滴る血は黒い雨に薄められて、ゆっくりと溶け消えていった。


 アミルが惨劇に気が付いたのは、未だ雨の降り続ける翌朝の事だった。

 雨を吸って重くなった装備を担いで泥を踏みならし戦場から帰ってきたアミルが目にしたのは、胸に風穴を空けたデリスの遺体と、その前で立ち尽くすリーゼの姿だった。


 見ればその左手、既に結晶化が進み鋭利な一振りのやいばに変わり果てた左腕全体が、どす黒い血で染まっている。

 アミルは声もなくその場に荷袋を取り落とし、駆け寄った。リーゼは既に意識を取り戻しかけているようで、虚ろな目に涙をたたえていた。

 いつかこんな日が来るのかもしれないと覚悟していた。その日がついに来たのだった。


 そこにたおれ伏す男、デリスは姉妹の父親代わりだった。

 魔獣戦争の戦災孤児みなしごであったアミルとリーゼの姉妹は、もとより親の顔など知らずに育った。迫害対象である悪魔族ヴァルグの二人は誰からも忌み嫌われ、助けの手を差し伸べる者はいなかった。

 姉妹は帝国崩壊の残骸のような地街ちがいの薄汚れた路地で物乞いに身をやつし、時に夜の闇に紛れて盗みを働き、どうにか糊口ここうをしのぐ日々を送っていた。


 ふとした気まぐれから二人に手を差し伸べたのがデリスだった。

 デリスは襲い掛かってきた姉妹を素手で軽々ねじ伏せると、たわむれにそのまま気絶した二人を大きな肩に担いで連れ帰った。


 それから二人はデリスの家に暮らす事となった。

 酒を飲めば暴れて物を壊し、酒が無ければ朝から晩まで姉妹を殴る。お世辞にも良い親とは言えなかったが、いつしか二人はうなりを上げて迫るデリスの腕を避け、どうすればデリスから上手に逃げられるかを本能的に学んでいった。


 地街の外れ、小さな土地に古びた家を構えるデリスは、それでも街の中では英雄だった。

 若い頃には凶魔テルスを討ち取り、魔獣戦争での武勇伝は数知れなかったという。それが幾多の戦いの果てに年老いて、そろそろ引退を考え始めるころに目に留まったのがアミルとリーゼであったらしい。

 人間族ヒューミの何倍も寿命が長い悪魔族ヴァルグであれば、自らの跡を継いで立派な戦士になる。そう考えたデリスは、敢えて家の中で暴力の限りを尽くした。

 そうして姉妹が徐々に自分の拳を避ける術を身に付け、いつしか刃物を持って自分に襲い掛かってくるようになった事を喜んでいた。


「そうだ、そうして俺を殺してみろ」

 ごく小さな果物ナイフを手にして、恐れと怒りのない交ぜになった表情で睨みつけてくるアミルと対峙し、野獣のように笑って言う。それがデリスの口癖である。

 姉妹がデリスの望み通り戦場を駆け抜ける女戦士となり、幾多の戦場で「獰猛どうもうなる姉妹」として名を馳せるようになった後も、その口癖は変わらなかった。


***


 やがてデリスが人間族ヒューミらしく年老いて、小さな土地にしがみつくようにして畑作りなどを始めた頃に、悲劇はやってきた。


 ある都市遺跡に隠れ潜んでいた強大な魔人から、リーゼはその身に消える事のない呪いを受けた。それもこの世で最もたちの悪い「死徒しとの呪い」を。


 呪具を使ってリーゼに呪いをかけたのは、冷たい暗闇の中を走り回る巨大な蜘蛛くも、その頭が在るべき位置から女の上半身が生えた姿をした魔人だった。

 血みどろの戦いの果てにおぞましい姿をした魔人はわらいながら消え去り、リーゼは呪いの効果で倒れて動かなくなった。


 気を失いながら小刻みに震え、徐々に強張ってゆく妹の身体を必死で担いで帰る。

 何とか遺跡から逃げ帰り、その小さな身体を狭い寝室のベッドに横たえた時には既にが始まっていた。

 白く美しかった全身の肌には青緑色の結晶質が浮き上がり、剥がれ落ちる。繰り返しそれが続く。高熱を発して横たわるリーゼの小さな身体が、何かと戦い続けているのだという事は、見守るアミルにも分かった。


 アミルはそれから毎日妹の看病に時間を費やし、妹の体調が少しでも回復した時には地街中のあらゆる魔法医を当たった。

 幸いにも戦場での稼ぎが残っていたから生活には苦労しなかったし、デリスもその頃には元の性格からは想像もできない程穏やかになって、しわの増えた顔でリーゼを心配げに見つめるばかりだった。


 それでも半年もするころには、アミルにも理解できた。

――妹はもう、助からない。


 リーゼの身体は今や左半身全体が青緑色の結晶に覆われ、その中で人間族ヒューミの物でも悪魔族ヴァルグの物でもない不気味な組織がうごめいているのが見える。

 日に日にリーゼは悪夢にうなされるようになり、いつしか陽が落ちない内から理性を失うようになった。暴れ出し、部屋の中をズタズタに壊してしまうことも少しずつ増えて行った。


 リーゼに掛けられた呪いは、影の国クレイブ=ヴィスクから来たという死徒ユウヤミの呪い。

 身体が少しずつ魔獣のそれに変わって行く、だった。


 それでもリーゼは己をむしばむ呪いと戦い続けた。必死で理性を保とうと努力した。

 目の前で心配そうに見つめる姉にすら襲い掛かろうとする意識の暴走を抑え込み、無理やりにでも笑顔を浮かべ、大人しくしていようとした。


 そうすると自分の身体に張り付いた気味の悪い結晶が少しだけ剥がれ落ちる。少しだけ悪魔族ヴァルグに戻れる。

 そう信じ続ける事だけがリーゼを辛うじて支えていた。


 そうして苦しみ続け、呪いを受けてから一年が経過した。

 リーゼの左腕を覆い尽くした結晶が剥がれ落ち、中から白く透き通った刃のような組織が現れる。もう手も指も無い、それはただ透き通って鋭利な刃そのものとなった、かつての左腕だった。

 底を突いた妹の治療費を稼ぐためアミルが再び戦場に出ている間、リーゼは痩せこけた顔に薄気味の悪い微笑みを浮かべながら、刃となった自分の左腕を見つめていた。


 部屋に差す陽光が、透き通った刃にあたってきらめく。彼女には自分がいつしかこの刃でまた戦場に戻る姿が見えていた。


 また二人で、姉さんと共に戦場に――


 リーゼに残された僅かな理性は、その声が聞こえてくると同時に失われた。


***


 デリスを殺したんだという事を、リーゼは心の奥で理解していた。もう全身が冷たくて、自分の身体ではないみたいだった。冷たい雨風がそう感じさせるんだと思った。


 あったかい――


 姉が、アミルが自分を抱きしめている。その涙が己の左肩に落ちる、ゆっくりと刀身を伝って、刃となった左手の先から落ちる。リーゼは雨に濡れながらも、その温かさだけを最後に理解した。

「ねえ…さん…」

 この温かい存在だけは傷つけてはならない。例えこの身が魔獣にちようと、悪魔族ヴァルグとしての魂をうしなおうと、この人だけは傷つけてはならない。


「あたし…もう…いっしょ…に…いられ、ない」

 リーゼはそこまで呟くと、荒い息をつき始める。妹の身体の中で何かが震え始めたのを感じ、アミルはより強く抱きしめた。


 だがリーゼの身体の変異はもう止められなかった。その背が醜く膨張して行き、アミルには抱えきれない程膨らんで行く。

「さよ…なら…」

 醜く崩れた声で最後の言葉を告げる、アミルは抱えきれないほど膨張したリーゼの身体を放してしまった。

 するとリーゼは何歩かよろめいた後にふと、雨の止まない曇り空を見上げ、泣き叫ぶかのような悲しげな咆哮ほうこうを上げる。


――ォォォオオオオ!


 骨の変形し折れる音を立てながらリーゼの背から人ならざる異形の翼、結晶質で覆われた硬質の翼が生えてゆく。その身体は降り続ける雨粒を弾き飛ばしながら結晶質の鎧で包まれるように変形して行き、その顔は涙紋様の刻まれた結晶質で仮面のように覆われてゆく。

 その目元を雨が濡らし、まるで泣いているかのように彩る。


 そうしてリーゼは怪物へ生まれ変わっていった。


 翼を羽ばたかせ、ふわりと宙に浮かぶ怪物に、アミルは思わず叫び声を浴びせる。

「リーゼ!」

 もうこれで妹とは今生こんじょうの別れだと、アミルは頭のどこかで理解していた。


 でも、そんな現実を易々やすやすと受けれられるわけがなかった。


 アミルはぬかるみに足を取られながら駆け寄り、宙に飛び出そうとするリーゼの足元に必死ですがりついた。

「どこにも…どこにも行くな!お前はあたしの妹なんだ!」


 今やその存在は青緑色の結晶殻を身にまとい、新しい生き物としての形が完成しつつある。

 輝く異形の翼を何度か羽ばたかせると、表面の青緑が払い落とされる。白い結晶質でかたどられ透き通った羽がその下から現れた。


 刹那せつな、アミルは思った。

――きれいだ。


 その一瞬の隙を突かれる。

 かつてリーゼだった存在は、足元にしがみつくアミルを振り払って悠然と飛び立った。


 泥と雨と涙とにまみれたアミルの姿を空中から一瞥いちべつすると、それは二度と振り返る事は無かった。

 そうしてそれは白い翼を羽ばたかせ、曇り空の向こうへ飛び立っていった。


「リーゼ!…リーゼ!」

 いくら叫んでも、その声は冷たい雨の音に掻き消される。それでもアミルは叫び続けずにはいられなかった。

 やがて雨は激しくなり、空は暗雲に覆われてゆく。遠くにそびえる積層都市の灯りがかすかに浮かび上がる以外には、もう何も見えない。


 視界が歪んで行くのが分かった。それは雨が目に入ったためか、涙がとめどなく溢れるためか、もうアミルには分からなかった。


 ただアミルは、薄暗い曇り空の向こうへ、妹の名を叫び続けていた。


 雨に、少女の悲痛な叫び声だけが溶け込んでいった。


***


 女剣士アミルは扉に手を掛けた。


 打ち捨てられたままだったデリスの遺体は穴に埋めた。僅かな家財道具も、デリスが戦場で使っていたという武具も一緒に土の下だ。


 振り返れば、そこにあるのは慣れ親しんだ風景だ。白茶けて埃の積もったテーブルに、よくデリスが赤ら顔で抱えていた大きな酒樽、腐りかけの干し肉を盗み食いしてリーゼと二人、デリスに嫌というほど殴られたこともあった。


 静寂に支配されたデリスの家を見渡しながら、アミルはふと耳を澄ました。


「そうだ、そうしてお前たちは俺を殺した」


 デリスが楽しげに言う声が聞こえた気がした。幼かった己とリーゼとが、デリスに追いかけられて走り回る姿が目に浮かぶようだった。


 デリスの言葉はそうしてになった。


 アミルは扉を開いた。もう振り返らなかった。


 もう一度妹に会いに行く。

 この手で妹を葬る。

 そのために己の剣がある。


 アミルはただ一人の剣士として、そう信じた。

 少女アミルは終わって行く世界へ、その一歩目を踏み出した。

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