じゃがいも

 彼の体温からそっと抜け出して、私はキッチンに立った。頭上の小さな蛍光灯を点けると、彼が今朝使ったのであろう茶碗が水に濡れていた。廊下の電球は切らしたままで、1Kのキッチンは寒々と薄暗い。

 緑色のゴム手袋を嵌める。肌の弱い私は、食器を洗うときにはいつも手袋が欠かせない。素手で洗剤を触ろうものなら、すぐに荒れて赤切れを起こす。最初にそのことを彼に話したとき、「へえ、大変だね。じゃあ俺がやるよ」と、彼は洗い物を代わってくれた。素手で泡立ったスポンジを掴み、ちょっと強引に食器を洗うその姿を、やっぱり羨ましく思った。肌の強さとか、そんな表面的なものではなく、もっと奥深くにある無骨な強さに憧れたのだ。もっとも、今ではこうして私が洗い物をしている間にも、彼は布団の中でスマホをいじっているのだけれど。

 茶碗を洗い終え、まな板を出す。冷蔵庫の横にあるカゴから、にんじんとじゃがいもと玉ねぎを取り出す。じゃがいもはいつ買ったのか、クリーム色の芽がグロテスクににょき、と伸びている。玉ねぎの皮を剥いて切り、水を張ったボウルにさらす。にんじんも皮を剥いて、切る。彼はあまりにんじんが得意ではないから、なるべく小さく。じゃがいもは洗って土を取り、皮を剥く。背中に彼の体温が近づいた。筋張った彼の腕が私の胸を抱いている。

「なに、危ないよ、包丁持ってるし」

 私の言葉に、「ううん、大丈夫、気にしないで」とよくわからない返事をして、さらに強く私を抱きしめた。

 仕方なく、私は窮屈な体勢でじゃがいもを切った。薄い黄色をした、大きなじゃがいもだった。すっ、と包丁の先がじゃがいもに触れ、すとん、と真っ二つに割れた。山のように平たくなったじゃがいもを、さらに半分に切る。すとん。

「これくらいかなあ?」

 私が聞くと、「うん、それくらいでいいんじゃない」という声が耳元で響いた。

 またじゃがいもを切る。す、と包丁の先が当たる。ぐ、と力を込めたとき、じゃがいもが滑って床に転げ落ちた。

「ははっ、ごめん! 洗って使う!」

 落ちたじゃがいもを取り上げて渡してくれた彼にそう言うと、「もう、不器用だなあ。包丁の持ち方が悪いんだよ」と彼は笑った。

 うるさいなあ、と笑いながら、私はじゃがいもを洗った。彼がまた、私の体を抱きしめた。体温が心地いい。だけど、なんだか悔しかった。

 そうだよ、不器用だよ、私は。

 そう思いながら、でも彼が離れてリビングに戻ってしまったときには、廊下の冷たさがやけに寂しかった。

 

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愛の天秤 藤井太雅 @taiga0918

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