扇ヶ浜
バス停からそこそこの坂を上った先にある扇ヶ浜高校は、時田愛斗、未原芽衣たちが通う高校だ。周辺の高校の中では偏差値も高く、進学校という位置づけにあることから、以前の愛斗は勉強ができたということが伺える。校門を通り抜けるとすぐに3階建ての校舎があった。
その校舎の中に、愛斗、芽衣、そして茜は入っていく。愛斗は芽衣に連れられ、職員室に案内された。茜も行くと彼女は言っていたが、芽衣にそれを拒否され、断念して自分の3年生の教室に行ってしまった。
職員室を前にすると急に緊張してきた。やはり職員室に入る時は、記憶がなくても緊張するものなんだな。
愛斗は緊張していることを芽衣に言うと、芽衣は
「大丈夫だよ。でも私もちょっと緊張してるかも」
と言って少し強ばった笑顔を見せた。
コンコンコン
芽衣が3回ノックをして職員室の白い扉を開けた。なんだか病室の時のことを思い出す。
扉の向こうにはたくさんのデスクがあって、そのほとんどに先生が座っていた。先に芽衣が入っていって、そのあとをつけるように愛斗も中へ入る。愛斗を見て驚いた顔をする先生、微笑む先生、または見向きもしないでパソコンと向き合っている先生など様々だが、多くの先生は愛斗が学校に来たことに何らかのことを思ったようだ。
その中の1人の若そうな女の先生に芽衣は話しかける。向こうは待っていたかのように元から体をこちらに向けていた。
「おはようございます、時田くん」
「あ、えっと、おはようございます」
「未原さんもおはよう」
「はい、おはようございます」
慣れた様子で芽衣と先生は挨拶を交わした。
「じゃあ私は先に教室に...」
「いや、未原さんもここにいて」
芽衣が先に教室に行こうとすると、先生はここにいるよう指示した。
「私はあなたの担任の
その後20代半ばから後半に見える久城という先生からは、愛斗のクラス、2年3組の担任であり数学の担当、そして芽衣の所属する陸上部の顧問だということを聞いた。まさか、愛斗がこんなにも早く学校に来るとは誰も思っていなかったらしい。
それは、芽衣のおかげだと説明すると結香は感心していた。ただやはり、無理はしていないかなど心配はされた。だが、もうこれからは頑張って生きていくと決めた。芽衣だっている。どうにかなる。学校に来てみて、改めて決意したのだ。
2年3組は2階にある。隣の4組が芽衣のクラスだ。もうホームルームは始まっているが愛斗はまだ廊下にいた。結香に、後から教室に入っていくことを提案されたからだ。担任の口から説明するのが1番いいと判断したのだろう。実際愛斗は、そういうやり方にしてくれてだいぶ気が楽になっていた。
「じゃあ時田くん入ってきてー」
教室の扉を少し開けて、結香が顔だけを出して愛斗を呼んだ。愛斗は1回だけ息を深く吸い、ゆっくり吐く。そして愛斗は教室に1歩、踏み入れた。
40人ほどの男女が僕を見ている。緊張する。目の前が真っ白だ。先生が何か言っているが聞き取れないし胸が苦しい。目眩がする。教室が遠のいていく...あっ...
...
「ん...ここは...」
目を開け、少し考えたらそこがどこだか分かった。保健室だ。ピンクのカーテンで囲まれている。
「あ、愛斗!大丈夫?」
芽衣が心配そうに愛斗を見つめている。
「起きましたか。まだあまり動かないでくださいね」
白衣を着た女性が愛斗にそう言った。
「僕は...」
教室に行って、それから教室に入って...それから......
「愛斗、倒れたんだよ。私その場にいなかったからよくは知らないけど、3組の子が言ってた」
そっか、倒れたんだ。折角、先生も上手く機会を作ってくれたのにこれじゃあ台無しだ。僕の決意も芽衣の努力も何もかも無駄になった。
愛斗は深くため息をついた。
「やっぱり無理してたんじゃないんですか?」
白衣の先生、恐らく保健室の先生だろう。その人が愛斗に向かって鋭い質問を投げかけた。
愛斗自身には無理をしているという自覚はなかった。むしろ楽しみとすら感じていた。だが、それは自覚がないだけで本当は無理をしていたのだ。知らないうちに心の箱に閉じ込められていた「無理」が、あの瞬間、教室に入ったあの時、解き放たれて「倒れる」という形で現れた。
「ごめんね、気づけなくて...」
芽衣が愛斗に謝る。
「違うよ違う。君のせいじゃない」
自分でも気づけていない苦しみが他人に分かるわけがない。これは誰のせいでもない。
「僕も分からなかったんだ。本当に教室に行けると思ってた。それは嘘じゃない。でも無理だった」
「いいんじゃないかな、ゆっくりでも」
「私もそう思います」
芽衣と先生は揃えて時間をかけてもいいと言った。
僕も本当はそれがいいと思っている。だが、焦燥感に駆られる自分もいる。今行かないと、やらないと、未来が不安でいてもたってもいられなくなる。そんな自分がよくなかったのだとは分かっているのだけれど、どうしても背伸びをして、やろうとしてしまうんだ。
「今日はもう、帰ります...」
まだ少し頭がぼーっとしていて、先生にもまだ休んでいた方がいいと言われたが、置いてあった鞄を手に取り、保健室を出た。ありがとうございました、と感謝の言葉だけ残して帰路についた。帰りは来た道を帰ればいい。1人でも大丈夫だ。
愛斗がバス停に着いた時、丁度よくバスが来た。そのバスから、愛斗と入れ替わるように出てきたメイクとヘアセットをバッチリ決めた扇ヶ浜の女子生徒は、早歩きで学校へと続く坂を上って行く。心做しか、その子にじっと見られたような気がした。
遅刻できるほど生活に、心に余裕があるんだな。愛斗は思った。
50分ほどかけて家に着いた。昨日、鞄を整理している時に見つけた鍵で家の鍵を開ける。制服のままリビングのソファーに座り、特にやることもないのでテレビをつける。どこのチャンネルも食べ物のコーナーばっかだ。昼ご飯はわざわざ母が早起きして用意してくれた弁当。まだお昼の時間ではないが、テーブルの上に置いておく。
...あれ?いつの間にか寝てしまったのか。確か帰ってきたのは10時くらいだったはず。でも今は15時。5時間も寝てたのか!?
「あ、愛斗起きた」
母がキッチンに立っていた。愛斗には毛布が掛けられていたが、母が掛けてくれたのだろう。母は2つの皿を持って愛斗のいる方に来た。
「疲れちゃったのね。いいのよ、それでも」
母は多くを言わない。皿の上にあったのはショートケーキだった。美咲には内緒ね、めんどくさいから、と笑いながら言って愛斗に出してくれた。
「やっぱり無謀だったのかな」
「そうでもないと思うよ」
ショートケーキをフォークで崩して口に運ぶ。甘過ぎなくて美味しい。これは確かに妹には言わない方がいいな。
口にあったケーキを飲み込んでから言う。
「また明日も行くよ。今日、お弁当食べなくてごめん。明日は食べて帰ってくる」
寝ている間に片付けられたのだろう。テーブルの上に置いてあったはずの弁当はなくなっていた。
母は少し驚いたような顔をしたものの、すぐに微笑んで
「えぇ、もちろん作るわ。さすがね、愛斗は」
と言った。
僕は諦めたくない。今日が無理なら明日やればいい。明日が無理なら明後日でもいい。そうしていれば必ずいつかはみんなと同じように、普通に通えるようになるはずだ。
夜の7時半、家のインターホンが鳴った。鳴らし主は未原芽衣だった。愛斗はサンダルを履いて外に出る。芽衣は愛斗を見ると顔の筋肉が緩み
「よかった、元気そうで」
と言った。
「ごめんね、逃げるように帰っちゃって」
実は、愛斗は保健室にわざわざ来てくれた芽衣のことが気がかりだったのだ。連絡するより会いに行った方がいいと思っていたのであえてSNSは使わなかった。しかし、芽衣に来させたような状況になってしまったので少し罪悪感が生まれてしまった。
「ううん、しょうがないよ。初めてだもん」
「明日も行くよ、学校。だから明日も一緒に行ってほしい」
「本当?私は大丈夫だけど、愛斗は大丈夫なの?」
「大丈夫かどうかは分からないけど。でもやり続けないとどうにもならないかなって」
「そっか、分かった。明日も今日通り来るね!頑張ろうね、愛斗!」
芽衣は、愛斗の体調を心配していたものの、無理しないでとは言わない。芽衣は、愛斗の決意を真っ直ぐ後押しするつもりなのだ。
芽衣は隣の家に帰っていき、愛斗は芽衣が家に入るまで外にいた。ふと空を見上げると、いつか見たような無数の輝きが広がっていた。
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