第29話「穏やかなる、奇襲」

 僕たちは着替えもそこそこに、急いで露天風呂ろてんぶろをあとにした。

 前を走る季央キオねえの髪から、かすかにシャンプーの匂いがする。まだ濡れた金髪は、まるで光のさざなみみたいに揺れていた。

 そして、五人の姉と僕は、旅館の広い玄関へと飛び出した。

 そこには、ありえない光景が広がっていた。


「おや? おお、高定タカサダ! やはりこちらでしたか……この四京寺愁シキョウジシュウ、お側にと思い駆けつけましたよ」


 そう、そこには愁が立っていた。

 小綺麗こぎれいにブランド物っぽいスーツを着こなし、あの気色悪い狂気の笑みも今はない。だから、ただの好青年のように見えてしまう。

 ただ、その横に立つ小柄な人物は怪しさ抜群だ。

 頭からすっぽりフードを被ってマント姿……多分、カーボノイドの零号ゼロごうだ。

 そう思った瞬間、隣からのドス黒い殺気が肌を刺す。


「ああ、愁……だっけかぁ。こうやってくるんだ……じゃあ、殺すね? 殺ス!」


 楓夜フウヤお姉ちゃんだ。

 もうすでに、龍の力が顕現けんげんしかけている。

 今にも半人半龍の魔神に変貌しそうである。

 だから僕は、慌てて楓夜お姉ちゃんの手を握った。


「お姉ちゃん」

「あっ……リンちゃん? あ、あうぅぅ……ごめんなさい」

「謝らないで。気持ちは同じだから。けど、ここじゃ駄目だ」

「そう、だよね。血塗ちまみれにしちゃったら、お掃除大変だしぃ」

「そ、そういう問題でもないんだけどね」


 唐突に愁がやってきた。

 それも、ちゃんとした客としてだ。

 こちらの作戦が裏目に出た形で、流石さすが翠子スイコ姉様も表情を失っている。もともとクールなお澄まし顔だけど、今日は驚きと動揺があらわである。

 姉様の小さな握り拳は、震えていた。

 手の中に食い込む爪の痛みが、今にも聴こえてきそうである。


「みんな、落ち着いて。季央ねえも、駄目だよ? ここじゃ駄目だ」

「ッ! 麟児リンジクン、でもこれじゃあ」

「今はこらえて。ね? 見てよ、あの華凛カリン姉さんだってちゃんと――!?」


 そう、露天風呂に呼びに来てくれたのは華凛姉さんだ。

 冷静な対処で、よかったと思う。

 やればできる子、それが姉さんなんだと思った。

 今この瞬間までは、そう思っていたんだけど。


「おんどれええええ! 先手必勝、じゃいっ! あたしちゃんっ、パアアアアンチ!」


 

 そのまま愁へと、拳を振りかぶる。

 ロケットパンチを使わないことだけが、僕にとっては姉さんの良心な気がした。けど、あまりにも突然で、でもありえ過ぎる行動だった。

 すかさず、愁の横から矮躯わいくが前に出る。

 華凛姉さんのパンチは、たやすく受け止められてしまった。

 そして、凛とした厳しい声が響く。


「お客様! なにをしておいでですか……どうか館内では、お静かに!」


 振り向くと、この旅館の女将おかみが近付いてくるのが見えた。

 僕たちの祖母、玉子タマコさんだ。

 周囲をぐるりと睨めつけて、女将は小さく溜息ためいきこぼした。


「お客様、大変申し訳ありません……孫が粗相そそうをしでかしたようで」


 それは事実で、見たままの現実だった。

 それを知ってか、愁はまたあのニヤニヤした笑みを浮かべる。

 途端に眉目秀麗びもくしゅうれいな紳士は、いやらしい本性を周囲に振りまいた。


「いやいや、いいんです。私とて、御暁ゴギョウ家の皆さんとは知らぬ仲ではありませんから、ねえ?」

「あら、そうだったんですか。失礼ですが、孫たちとはどういう」

「私は四京寺愁、かつて御暁高定の助手だった人間です。唯一無二の理解者を自負してまして……フフフフフ」

「ああ、あの男の……婿殿むこどのの」

「そうです! 偉大な天才、超越者ちょうえつしゃ! 全てを統べるべき超人、高定のいわば同志」


 華凛姉さんは、舌打ちしながら引き下がった。

 楓夜お姉ちゃんにギロリと睨まれ、視線をそらしながら口笛なんか吹いてる。

 そういう、ステレオタイプの人間臭さはなんか、ロボットとは思えないような自然さだ。でも、まるで漫画やアニメのキャラクターみたいな反応は、インプットされているからという感じもする。

 とりあえず、暴力反対。

 今は反対……ここでは戦えない。

 そうこうしていると、愁はトランクを仲居なかいさんに預けつつ話を続ける。


「ああ、この子は肌の病気でして……太陽光に当たると身体にさわるんです。こんな格好でしか外に出してやれなくて」

「大丈夫ですよ、四京寺様。お連れ様も問題ありません。是非ぜひ、この翡翠荘ひすいそうくつろいでくださいねえ」


 当然だが、女将は事情を知らない。

 この男は……愁が過去にどんな罪を犯したかを、知らないのだ。

 愁は母さんを、女将の一人娘を手にかけた。

 その純潔を汚し、ただ父さんに愛され選ばれたという理由だけで母さんを犯したのだ。

 僕にも今、決然とした怒りがある。

 けど、ここで一番冷静だったのは翠子姉様だった。


「女将さん、ごめんなさい。私の妹が御無礼ごぶれいを」

「そうだねえ、こっちは客商売なんだ。それに、謝るならこちらのお客様にあやまんな」

「……はい。妹が失礼を……申し訳ありません」


 愁に向かって、翠子姉様は頭を下げた。

 まだ濡れてる黒髪がさらりと流れて、その表情を隠す。

 完全にしてやられた形で、僕はとても悔しい。

 今すぐにでも、愁の奴をブッ飛ばしてやりたい気分だ。

 そして、目元も険しく愁をにらむ、千奈の姉貴の視線にも気付く。

 僕は、意を決して前へ出た。


「どうも、四京寺さん。御無沙汰ごぶさたしてます」


 精一杯の笑顔を作った。

 家族の平和を脅かす男に、精一杯のこびを演じてみたのだ。

 そんな僕の屈辱が面白いのか、愁も態とらしく微笑ほほえむ。


「おお、麟児君だったね。大きくなった! うんうん!」

「お久しぶりです。今日は御旅行ですか? 偶然ですね……僕たちもさっき来たばかりです」

「そうかそうか、ここはいい場所だ。とてもいい……ずっとこのまま、平和であってほしいものだね。穏やかな安らぎを乱してはいけない」


 くぎを差すように、ねちっこく遠回しに脅してくる愁。

 僕は笑顔を絶やさず、苛立ちと怒りを胸の奥に沈めた。

 だが、追い打ちをかけるように愁はカードを切ってくる。

 完全に出し抜かれた形で、僕たちは静かに不快な時間を過ごすしかない。


「そうそう、女将。お孫さんとの積もる話もあるでしょうが……是非、女将にも話しておきたいことがあるんですよ。……高定に嫁いだ娘さん、翡美子ヒミコさんのことでねえ」


 すぐ近くで突然、ビクン! と翠子姉様が身を震わせた。

 それは、憤りが沸点に達する予兆だったのだろうか。

 だが、小さなクールビューティーは瞬時に落ち着きを取り戻す。

 僕はそっと、隣の楓夜お姉ちゃんに耳打ちした。


「楓夜お姉ちゃん、今のは……脅しだよ。僕たちが動くなら、母さんのことを女将にばらすぞ、って意味にも取れる」

鬼畜きちく……う、うんっ、それは駄目だよぉ。鬼畜攻めが許されるのは薄い本だけだもん……やっぱり、殺ス」

「駄目だよ、駄目。どうどう……すぐ対策を考えよう」


 愁はなんて狡猾こうかつで、その上に残忍な男なんだろう。

 自分の目的のためには、モラルというものを平気で捨ててしまう。

 いな、もともとモラルなど持っていないのかも知れない。

 だからこそ、人の良識や常識につけ込んでくるのだ。

 僕はなんとか、女将から愁を引き剥がそうと言葉を探す。


「ああ、そうだ。四京寺さん、また久しぶりに父の話をしていただけないでしょうか。僕はまた、四京寺さんの話を聞きたいですね」

「ああ、麟児君。いいねえ、お互い思い出を語り合おう。なに、時間はあるんだし、この子にも丁度ちょうど友達がほしいと思ってたんだ」

「きっと仲良くなれますよ、僕たち」

「はは、ありがとう。じゃあ、今夜にでも一緒に星を見ながら……どうかな?」

「いいですね、楽しみにしてます」


 そう言って会話を打ち切ると、僕は最後まで「父の知己ちきに対する礼儀」を一生懸命に演じ切った。さっきお風呂に入ったのに、もう全身を消毒したい気分だ。

 そうして僕は、姉たちを促し部屋へと引き返すことになる。

 愁が真正面から真っ直ぐ挑んでくることはない……そう思ってた。

 それはその通りで、卑怯な手段で先手を打たれた。

 客として真正面から訪れる、女将たちを無理矢理巻き込むという、卑劣極まる一手を打ってきたのだ。これは僕たちの迂闊うかつさ、想像力の足りなさが招いた結果かもしれない。


「……ごめんなさい、麟児。私の失敗ですわ。こんな、こんなのって」


 翠子姉様は珍しく、落ち込んでいる様子だ。

 激しい怒りと同時に、その原因を自分で招いてしまったことをいている。

 だから僕は、ちょっと迷ったけど……小さな姉様の頭に、ポンと手を載せる。


「大丈夫だよ、翠子姉様。挽回していこう。僕たち全員で、絶対に翡翠荘を守って……そして、愁には諦めてもらう。諦めざるをえない状況に追い込むよ」

「……麟児、子供扱いはよして頂戴ちょうだい。でも……でも、悪くなくてよ。嫌じゃないの」

「さ、みんなで部屋に戻ってもう一度案を練ろう。なにかいい手がある筈さ」


 こうして僕は、とりあえず姉様たちの部屋にお邪魔して今後を話し合うことになった。

 部屋に入るなり、華凛姉さんが正座させられて、翠子姉様にお説教されたのは言うまでもないのだった。

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