隣の芝生は敷居が高い

烏川 ハル

起「10年前」

   

 敷居が高い、という言葉がある。

 不義理があったり、面目ない事態に陥ったりして、行きにくい。……そんな場合に使う言葉だ、と辞書には記されているらしい。

 これを知った時、私は「おや?」と感じた。『敷居が高い』という表現は、私の中では、一見さんお断りみたいな高級店のイメージだったのだ。

 ああ、年甲斐もなく、私は間違って覚えていたのか。そう思ったものだが……。

 ネットで検索してみると、私と同じ感覚で使っている例がいくつも出てくる。それどころか、興味深い世論調査の記事にも行き当たった。

 正しい意味で使っている日本人は50%に満たず、ほぼ同じ割合が「高級過ぎたり、上品過ぎたりして、入りにくい」という意味で用いているそうだ。年代別では、40代が一つの線引きとなり、50代以上では正しく使う者が多く、30代以下では誤用の方が多いのだという。

 再び「おや?」と思う私。もはやオジサンどころか中高年の部類に入る私なのに、こと『敷居が高い』に関しては、まだ若者側なのか……。

 自嘲気味に苦笑しながら、該当記事を読み直す。すると、そこで行われた世論調査は、10年以上昔のものだった。なるほど、10年前ならば、まだ私も30代。世間一般の例に漏れず、誤用の方が多い世代に含まれていたわけだ。


 そして、10年前といえば。

 隣に彼女が引っ越してきたのも、ちょうど、その頃だったと思う。


――――――――――――


 引っ越しの挨拶に訪れた彼女は、第一印象からして、素敵な女性だった。

 セミロングの髪型が似合う、下膨れ顔。いや『下膨れ顔』という言葉を使うと、褒め言葉には聞こえないかもしれないが……。

 80年代のアイドルのような顔。そう表現したら、ポジティブなイメージに変わるだろうか。

 頬の辺りがふっくらとした、やや丸っこい顔立ち。『80年代のアイドル』に多かったのも、愛嬌があって可愛らしいとか、親近感が沸くとか、そんな理由からだったのだろう。

 ただし芸能人の場合、デビュー当時は下膨れ顔であっても、人気が出ると過密スケジュールになるらしく、その疲労からなのか、頬の肉が落ちるケースが多かった。

 当時、私はテレビを見ていて「せっかく可愛かったのに、もったいない」と残念に感じたものだ。私は勝手に「最初からふっくらしていたら、歳をとって少し頬がたるんでも、目立たないのではないか。ならば下膨れ顔は『可愛らしいオバサン顔』と言い換えても良く、むしろオバサンになってからこそ、真価を発揮するのではないか」と想像していた。

 そんな私にとって、お隣さんの笑顔は、まさに仮説を裏打ちするような『可愛らしいオバサン顔』に見えたのだった。


 私よりは少し若いだろうが、それでも彼女は、もう世間一般では『オバサン』と呼ばれる年頃だったはずだ。

 実際、彼女自身が、

「新婚ですけど、晩婚ですのよ」

 と言いながら、ホホホと笑っていたくらいなのだから。

 初対面の隣人への挨拶で、自虐的な冗談を口にするのは、少し非常識ではないか。そうも思ったが、だからといって、印象が悪くなることはなかった。非常識な部分も含めて、むしろ可愛らしいと感じてしまい、この時、私の心の中は華やいでいたのだ。

 だから、つい調子に乗ってしまったのかもしれない。初対面の女性に対して、普通ならば言わないような返しが、私の口から飛び出したのだから。

「いや『晩婚』というには、若過ぎるじゃないですか。本当の『晩婚』の方々に失礼ですよ、奥さん」

「あらあら。そう言っていただけると、お世辞でも嬉しいですわ」

 型通りの挨拶なのだろうが、彼女は、本心から嬉しそうに見えたのだった。

   

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