第肆拾肆話:後の祀り  二

 国道二百六十一号線から、県道を挟んで国道四百三十三号線へ。苛部や廣島市内方向へ行くのなら、もっと近い道もあるのに。先導するセルボは、豊山町の中心部へと走る。


「僕は大丈夫じゃけえ。もうちょっと速う走らんと、置いていかれるわ」


 いつになく、DRのエンジン音がおとなしい。何度か急かしてみたものの、時速四十五キロ以上を出させてくれなかった。安全すぎて危険な彩芽が、何度も路肩で待ってくれた。


 ――あれ? 止まらんのんじゃ。

 走行ルートの意図は、木場を家に帰すことだと考えた。しかしあっさり、彩芽は豊山駐在所の前を通り過ぎる。

 竜弥はアクセルを緩めた。DRのせいでなく。

 午前八時前。温まり始めた地面が、夜露を霧に変える。浅く注ぐ陽光にゆったりと立ち昇る気配は、嵐の過ぎ去ったことを示すように思えた。


「頑張る言うたんじゃけえ。見つかりましたいうて、言うてあげたかったのう」


 木場の妻は眠れているのだろうか。今日からはきっと、枕を高くできるに違いない。その点だけは良かったと息を吐ける。

 過ぎようとしたとき、駐在所と家屋とを隔てる扉が開いた。

 誰かが出てくる。木場の妻以外に候補はないが、竜弥はアクセルを回す。なぜか見られてならない気がしたのだ。

 それでもDRが、四十五キロでしか逃走を許してくれなかった。


 木場の身柄は豊山駐在所から二十キロ以上離れた、棲合すみあい駐在所の敷地に置かれた。八時半を過ぎても勤務員の姿がなく、今日は休みなのだろう。

 同じ苛部警察署管内だが、豊山駐在所とは違うグループに属する。顔と名を知っているが、話したことはなかった。

 しかし普通に発見されて、普通に保護されるに違いない。自家用車もあることだし、留守ではなかろう。


「さ、見つからないうちに逃げるわよ」

「悪党みたいだな」

「何ですって?」


 悪党はともかく、当たり前にこそこそと行うのだなと思った。強い力を持ったあやかしなのだから、神通力や魔法のようなもので、スッと出したり消したりできるのかと。

 木場を抱えようとした馳大は、車のフレームに頭をぶつけたりしていた。それがとても、人間くさい。


「竜弥?」

「ううん、何でもないよ」


 馳大の痛がるさまを、うっかり笑いでもしただろうか。緊張感の続かぬことだと呆れた。

 いかにも社会にくたびれた風の、無精ひげの男。気にして顔を覗き込んでくる。


「二人とも置いていくわよ」


 もたもたするなと。今どきのやり手然とした女性が、さっさとセルボに乗り込む。

 ルートの決まった配送業務でもこなすようで、余韻の欠片もない。目撃されれば面倒だとは、もちろん分かるが。


「さよなら、木場さん」


 迷惑をかけた先輩に、目を覚ましてから謝りたかった。けれども当人には、何のことやら分かるまい。

 下手に知らせれば、怖れさすことにもなろう。知らぬほうが良いことも、世の中にはある。

 多少の疲れは見えるが気持ちよさそうに眠る木場に、別れを告げた。


 ――朝ごはんって、どこで食べるんじゃろ。

 苛部の街中に着いたのは、午前九時を過ぎていた。

 飲食店が開くのは、まだ一時間近く後だ。弁当店はいくつかあったが、軒並み無視された。

 それで結局セルボが停められたのは、国道百九十一号線沿い。あの料理屋の近く。


「こんな時間から営業しとってん?」

「してないけど、友だちの店だから。たまに我がままを言うくらい、聞いてくれるわ」


 人間の知人や友人が、竜弥以外にも居る。長く生きる彩芽なのだから、居ないわけがない。

 けれど、もやっとした。素直に「へえ」と返事ができない。

 最初はその気持ちが何だか分からなかった。が、やがて正体に気付き「ああ」と一人、苦笑いする。


「あれ、この辺じゃあ――?」


 住所と店名だけを頼りに探したのは、つい先日のこと。目印に教えられた近隣の店舗は覚えている。

 だのに肝心のあの店がない。同じ場所を何度か行ったり来たりして、やはりここだと思う場所には古びた民家があるだけだ。


「あった?」


 また悪巧みの顔で、彩芽は笑う。だけでなく、馳大も。


 ――絶対ここなんじゃけど。

 そう思って見ると、似た作りにも思える。間口が狭く、奥に長い。入り口はガラス障子でこそないが、二枚引きの引き戸。ネジ式の錠前が、歴史を感じさせる。


「まだ寝てるんだろ。構わんから、戸を叩いてみな」

「え、いいん?」


 表札もなく、薄汚れた外観から、人の住んでいるようには見えない。だいいち店でない玄関を、用もなく叩いてどうするのか。

 常識的にはそう思うが、馳大が言うことだ。叩いてみた。


 バンバン。

 手加減したつもりが、古く乾いた建材にはまだ強かったらしい。派手に響いて、竜弥自身がビクッと肩を竦める。


「お、起きたな」

「分かるん?」


 何を見て言ったのか、馳大を振り返って聞くと、答えはなかった。代わりに、前を見ろと指がさされる。


「え……?」


 手を上げればまた戸を叩ける位置に、竜弥は立っている。そこから一歩たりとも、一センチすらも、足を動かしてはいない。

 にも関わらず、古びた民家は赤いアーケードの料理屋に姿を変えた。同じ古くはあっても、瀟洒というのか侘び寂びというのか、風格さえある。


「早く入りましょう。私、お腹が空いたわ」


 少し前にも聞いたセリフ。ならばからかうような真似をせず、率先して店に入れば良いのだ。

 などと思いながらも、ほっとする。

 どういうものだか名を付けづらいが、これが二人との距離感だと。有り体に言えば


 ――構われるのが安心するわ。

 と感じる。


「いらっしゃい!」


 店の主人であろう中年の男性と、先日も居たやはり中年のの女性。今日は揃って、入ってすぐ出迎えてくれた。


「悪いわね、うわばみ」

「いいのよ彩芽」

「また飲まされたのか、おろち」

「人聞きの悪い。嫁さんの晩酌に付き合ったんだ」

「無理するなよ。お前、下戸なんだから」


 ――うわばみと、大蛇おろちって。

 どちらも名の知れた、蛇のあやかし。これまで知り合った中に、この二者は居なかった。


「また来てくれたね、お兄さん。酒が飲めるようになったら、自慢のにごり酒を試してみてね」

「は、はあ。どうも」


 唇を舐めつつ、朗らかに笑ううわばみ。それを大蛇が、「まあまあ」と割って入る。


「こいつの酒を受けてたら、肝臓がいくつあっても足らなくなるよ」

「あら、お前さん。それはどういう意味?」

「お前の酒を飲むのは、俺だけで十分ってことさ」

「あら。もうやだよ、こんな朝っぱらから」


 胸やけしそうな甘い声で、うわばみは大蛇の肩を叩く。どういう夫婦漫才だろうか。いや本人たちは、至って普通に話しているようだが。


「こんな近くにあやかしの店があるって、知らんかったです。また僕一人で来ても問題ないです?」

「もちろんよ!」

「いつでもおいで」


 優しく受け合ってくれた二人は、黙っていれば目付きが鋭く、怖ろしげでさえあった。しかし知り合えば、やはり人間と同じく、それ以上に分かり合える相手だ。


 ――うん、やっぱりそうなんじゃ。

 一連の出来事。ばくちに枇杷の木だけでなく、所長や放火魔の悪事も含めて。

 竜弥は悩んでいた。自分はどこに居ればいいのかを。

 人間は醜く、汚い。竜弥自身を含めて。

 対してあやかしは、美しい。見た目もだが、在りようが。


 ――滝の精の爺ちゃんは、住まわしてくれるじゃろうか。

 それも選択肢の一つだ。おさんや、シイ。馴染みの居る山奥で、仙人のように暮らせるなら理想かもしれない。


 ――馳大さんの家は、二人住むのは難しいんかな。

 嫌だとは言うまい。ただし物理的な問題があるとすれば、無理も言えない。


 ――でもこのまま、警察の仕事を投げ出すのも良うはないよのう。

 人間という存在や、社会に落胆したのは隠しようもない。けれど警察官とは、まさにそういうものを正すのが仕事だ。

 どうにか知られぬよう、木場に報いる方法がないかとも考える。


「何か見繕ってくるので、座っててくださいよ」


 大蛇に勧められ、彩芽と馳大はいつもの座敷へと向かう。

 竜弥も着いて歩きながら、決めた。正確にはこの店に来て決めたことを、反芻した。


「馳大さん。僕が警察官になった理由、はっきり分かったんよ」


 やはり揺るぎない。確信すると、座布団が並ぶのも待たず、竜弥は言った。

 

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