第肆拾参話:後の祀り 一
「僕は……」
霧が晴れ、目の前には枇杷の木が立っている。女性の姿でなく、実も付けていない、どころか葉の一枚さえもない、ただの枇杷の木が。
見回すと、辺りは砂利敷きの空き地だ。十数メートルも先には、薄青色をした国道二百六十一号線がある。
――もう朝なんじゃ。
景色は陽の光に照らされつつあった。
まだそこここに残る闇が陰となり、見ている間にも本来の彩りに輝きだす。葉は緑に、幹は赤茶に、大地は白黄に。
西の空は、まだ夜の裾を引っ掛けたまま薄墨の色。皮肉にも太陽の昇らんとする空が、最も夜の余韻を残している。それも間違いなく、数十分で消え去るのだろうが。
「気のせい、じゃないんよね」
あぐらに座ったまま、振り返る。居ると信じてではなかった。居て欲しいと願ったのは否定しない。
しかし見えたのは一人。白いタイトスーツが眩しい、彩芽だけ。僅か微笑み、疑問の形に首を傾げる。
「ちょっとばかり、難しい質問ね」
向き直り、枇杷の木に向けて手を伸ばした。夏の日焼けにくすんだ肌の色が、視界に入る。
「かくげんさん?」
声に出して呼んでみた。姿はない。
だが、居る。昨夜までは自分で分からなかった、竜弥の胸に。答えてくれる様子もないが、眠っていると分かる。
――思った以上に大きいわ。
それはかくげんさんの隣に空いた、大きな穴のこと。
竜弥にとって、そこにあるとも知れなかったもの。しかしこうして失ってみると、ぽっかりと虚しい隙間が空いたと感じる。
もう使っていない、使い物にならない大きな家具を、やっとのことで捨てた後のように。
褪せていない壁や床の色を見ると、やってはいけないことをした思いに囚われる。
「どういうこと? 難しい質問って」
「竜弥くんの見たのが、本当に存在したのか。という質問なら、答えはノーよ。竜弥くん自身、座っているそこに現れたのは、たった今だもの」
ここでないどこか。いま流れているのと違う時間の中に居た。どうやらそんな話らしい。
多くあやかしと関わってきたが、こんな体験は初めてだ。ただ、でなければおかしいと納得もする。
枇杷の木と対話する前。丘の上から斜面を滑り落ちたのは真夜中だった。あれから六時間前後も経ったなどと、早すぎる。
――ああ、僕は逃げ出したんじゃった。
凍えていた記憶が融けていく。怒りに駆られ、竜弥は放火魔を殺しかけた。
憎しみに我を忘れただけならば、まだ良かった。あのとき「いい気味だ」と、愉悦の想いがあったのを否定できない。
羞恥と己の醜さを今さらに、頭を抱えて身悶えする。
「竜弥くん。あの男は、警察に連れていかれたわ。怪我も大したことなかったし、問題にならない。燃えた建物が切り刻まれているほうが、よほどみたいよ」
案ずるなと彩芽は慰めてくれる。だが竜弥が悔やむのは、その部分でない。あの男は報復に殴られるくらい当然のことをした。ばくちの影響を差し引いても。
だから違うと、力なく首を左右に振った。
「やり過ぎたと思っているの? 死なせてしまうところだったって、後悔しているの? そうなったとして、私は過剰と思わない。むしろかくげんさんを止めたことが、すごいと思うわ」
ここに居るのが馳大でも、同じことを言っただろう。
しかし違う。
慰めに乗って気を取り直すのはできたかもしれないが、誰より竜弥が違うと知っている。
「違うんよ。かくげんさんも、廣島弁じゃったじゃろ」
「え、ええ。そうね、意味の分からない言葉もあったわ」
「廣島弁でワレって。お前、ってことなんよ」
何を言っているのか、彩芽には伝わらないかもしれない。現に悩んだ風で、記憶を手繰っている様子だ。
――かくげんさんは最初に「ワレヲオトシムルハ、ダレゾ」って言ったんよ。それはあの放火魔に、自分を貶めるんじゃないって忠告したんよ。
またその後に、自分を見失うなとも言っていた。怖ろしい姿に似合わぬ、優しい温情に溢れた言葉。
そんなかくげんさんが暴走したと、竜弥は装ったのだ。無意識ではある。けれど意図的でないからこそ、自分が怖い。
「ああ――言っていたわね。つまり止めてくれたのは、かくげんさんのほうだったってことね。竜弥くんは卑怯にも、彼の暴走を口実にした」
後ろに立つ彩芽の表情は見えない。声から想像するには、薄氷の冷たさと鋭利さを湛えている。
だとすれば次に出る声は、侮蔑の色に染まっているだろう。首を竦め、覚悟した。
「――とりあえず、朝ごはんでも食べない? 私、お腹が空いたわ」
「えぇ?」
こんな最低の人間と、また食卓を共にしようというのか。
反対の立場なら、お願いされても断ったのでは。思いつつ、最後の晩餐や別れの盃というのもあるかなと考える。
「いや、でも」
「どちらにしても、いつまでもぐずぐずしてられないわ。もう少ししたら、警察と消防が見分に来るでしょう?」
「あ、うん。そりゃあ」
大きな火事で放火とくれば、見分は念入りに行われる。暗い中をおざなりにやって終わりとはならない。
となれば竜弥の座り込むここも、警察と消防の車でいっぱいになるはずだ。
「だからまずは移動しましょう?」
「うん……」
それでいいのか。異なる選択肢もないのに、素直に頷けない。
残っていれば、見分に訪れた人々を混乱させるだけだ。火事を消したのは大鴉の作ったカマイタチだなどと言っても、捜査報告書に書けはしない。
「さ、行きましょう」
彩芽の長い脚が隣に立つ。昨日からずっと外に居て、火事にも出遭ったというのに、芳しい花の匂いがする。
差し出された手を握って立つと、脚が痺れていた。ふらつきながらも、倒れるのを堪える。
「まだ何か、大事なことを置き忘れとる気がするわ」
「ないと思うわ」
丘を見上げても、煙は見えない。煤の臭いは風向きで存分に流れ込む。
焼失した神社に、もはや何もあるはずがない。大切なことなど何も。
「あっ!」
「どうしたの?」
思いだした。枇杷の木に乱され、緩やかに海面を揺蕩うようだった記憶が急激に戻る。
「木場さんを捜しに来たんじゃった!」
「何だ。大丈夫よ、行きましょう」
「いや彩芽さん、大丈夫じゃないけえ。神社に居ったんなら、木場さんが――」
彩芽は取り合わず、握った手を放してもくれず、ぐいぐいと引っ張って歩く。冷たく堅い表情で。幼いころから、暮れた景色に慣れたこの道を。
やがて祖母の家の前へ戻ると、赤いセルボに寄り掛かって、馳大が待っていた。
「待ちかねた」
「傷でも付けてたら、弁償してもらうわよ」
「まさかそんなことするわけないだろ」
余裕の口ぶりながら、馳大はそっと車体から離れる。少し揺れた車内に、誰かの後ろ姿が見えた。
「あれ……?」
「起きられても説明が面倒だから、眠ったままにしているわ」
くすっ。と悪戯めいた笑いを、彩芽は洩らした。
「だから大丈夫って言ったでしょう」
「じゃ、じゃあ。あれ」
主語のない問いに、意地悪な狐が頷いた。真っ白な手を振りほどき、竜弥は駆け寄る。
セルボの後席の、小さな窓。揺らさぬよう、音を立てぬよう。それでも頬を擦り付けるように、中を覗く。
彩芽の商売道具にもたれて、血色の良い男は、木場だ。
「木場さんじゃ!」
音量をいっぱいに絞り、感情だけは最高にして、叫んだ。見上げて目の合った馳大が、「俺がな」と発見を自慢する。
「さあさあ、私がお待ちかねよ。何か食べないと、機嫌が悪くなるのもね」
手を叩く音が二度。釣られて見た男二人が、また視線を合わせて苦笑する。
「でも席が足りんね」
セルボは四人乗り。後席は既に、木場と彩芽の荷物でいっぱいだ。誰か一人、余ってしまう。
「心配して迎えに来たみたいよ。冷たいことを言わないであげて」
「迎え?」
事情を知っている者などおさんくらいだが、まさか。疑いながら、彩芽の示したセルボの前に回る。
そこには居るはずのない、友人が居た。
「何で。何で居るんや」
正直な感想に、彼、あるいは彼女が不満を鳴らす。空冷フォーストロークのエンジン音で。
キーも挿さないままのDRは、早く乗れと警告灯を明滅させた。
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