第肆拾弐話:きのせい  四

「僕は。あなたを、守りたいんじゃ」


 静かに、はっきりと。言葉のひとつずつを練り上げるような心持ちで、置いていく。

 何も考えるなと言われたのには、逆らってしまった。

 そうしようとは思ったのだ。しかし考えまいとしても、放っておけないと衝き上げてくる。どこともなく、奥底から。


「それを知らんふりなんて、できん」


 よく考えろと言われたのに、その通りしなかった。

 そうしようとは思ったのだ。しかし考えるまでもなく、これ以外の答えがないと分かった。

 竜弥の心。魂に刻まれているものを、読み上げただけだ。


「そうね。竜弥くんはその為に、ここへやってきたんだもの」


 小さな狐は、一つ頷いて言った。ただ肯定しただけで、次にどうしろとは言わない。


「くだらないことを!」


 女性の振り上げた両袖が伸びる。竜弥を抱きしめ、蚕のように取り込もうと巻き付いていく。


「言うことを聞きなさい。傍に居たくはないの?」


 囁きに声量は落ちた。けれど早い口調が、焦りをありありと見せる。


「枇杷の木の精さん。あいたいの霧を呼ぶほど竜弥くんを求めたのは、すごいことだわ。一つのことを、それだけ想えるのはね。でも彼にだって、自分の意志があるの」

「うるさい、うるさい。私は竜弥くんと共にあるの。いつだって、これからだって」


 狐は責めない。誤りとあげつらうでなく、互いの都合の問題なのだと。

 枇杷の木は激しく千切れんばかり、頭を左右に振った。巻いた袖を引き絞り、竜弥の呼吸が困難になろうとも緩めない。


 ――違う、僕が大事にしたいんは……。

 首にかかった袖が、意識を刈り取ろうとした。

 それならそれでいい、傷付けるよりは。竜弥は思い、抵抗しない。素より抗おうにも、身体の自由は奪われている。


「ワレ――」


 薄れゆく視界に、青褪めた腕が入り込む。隆々と筋肉を漲らせ、絡まる布を引き千切る。


「はあっ! はあ、はあ……」


 胸に溜まった息が、我先に逃げ出す。不思議なものだ。諦めたというに、空気のほうから勝手に喉へ飛び込んでくる。


「ワレ、シゴウシテクレルゾ!」


 荒ぶる青い肉体は、腕だけで収まらなかった。竜弥の腕から腕が、脚から脚が、胴から胴から浮き上がり、かくげんさんの身体を顕していく。

 単細胞生物の分裂を見るようで。もしか、かくげんさんは竜弥の精神を反映したものかとも思う。

 しかし違う。寸前までたしかにあった胸の重みが、なくなっている。しかも今かくげんさんの動きは、竜弥にも予想がつかない。


「あなた何なの。途中から勝手に居候をして。邪魔をしないのかと思えば、これはどういうこと!?」


 ヒステリックな枇杷の木の叫び。近付こうとするかくげんさんに、振り回した袖を打ち付ける。

 まるで槌であるごとく、かくげんさんは打たれる度に上体を揺らした。しかし愚直にまっすぐ、つかみかからんと手を伸ばす。


「何よ。何なのよ。私は竜弥くんと、永遠に居たいだけなのよ」


 はし、はし、と。かくげんさんの両手が、枇杷の木の袖をつかむ。揃えて千切り、足元へ捨てた。

 すると女性は、着物の裾を振り回し始めた。ひとつ振ると、つむじ風がひとつ。かくげんさんの腕に胸板に、小さな傷を拵えていく。


「ヤネコイコヨ。ドガイニセェトイウカ」


 いいかげんに煩わしくなったらしい。かくげんさんは避けることもせず、裾に添えられた枇杷の木の腕をつかんだ。


「何、やめなさい! 放して!」


 うら若き女性を、猛々しい角を持った鬼が拘束する。画として褒められた光景でない。


「かくげんさん、その人を傷付けちゃいけん!」


 頼む声が枇杷の木に魅入られてのものか。正気を取り戻し、敢えてのものか。判別つかないが、どちらでも関係ないことはたしかだった。

 枇杷の木も狐も、どちらをも上下に考えられない。あやかしというだけで、竜弥には平等に大切なのだ。


「放して! 放して!」

「かくげんさん!」


 喚く枇杷の木を、青い鬼は放さない。もう一度呼ぶと、饅頭のような鼻から太く息を吐いた。


「ショウチ」


 腕と胴をつかんで、八つ裂きにでもしようとしたのだろう。しかし彼は、枇杷の木を横抱きに持ち替えた。

 当人はあぐらに座り、組んだ膝の上へ女性をうつ伏せに乗せる。尻を突き出した格好に、枇杷の木はまた喚く。


「どうしようと言うの。こんなの恥ずかしくて死んでしまうわ!」

「シヌルモノカ」


 かくげんさんは、呆れていた。なぜこんなことをしなければならないのか、自問する顔だった。

 竜弥の知る彼は、いつも怒っていた。争う人間を、より強大な力で押さえつけていた。


 ――かくげんさんは、悲しかったんじゃね。どれだけ止めても争い続ける人間が。

 描いた画家は、この世の総てが暗いと思ったのだろう。抗い続ける虚しさを、かくげんさんに托したのだろう。

 争いを止めるために闘う鬼。憤怒しか知らない不器用なかくげんさんが、新たな表情を得た。


「僕も見習わにゃあいけんね」


 ぶうん。

 風が唸る。怒りに依らない豪腕が、開いた手を振り下ろす。


「痛い! 痛いわ!」


 パァン、パァン。と振り子でも揺らすように、同じ拍子、同じ位置で、乾いた音は繰り返す。


「やめて!」


 泣き叫んでも、まだまだ許す気はないらしい。しかし加減をしているのも間違いない。

 かくげんさんの剛腕が全力なら、枇杷の木の尻は一度でも張り裂けたことだろう。


「百叩き、なん?」


 尻を叩いてのお仕置きといえば、それが相場かと思う。

 まだ竜弥には、何のお仕置きなのか知れなかった。しかしかくげんさんが誤ってはいない、その確信もなぜだかあった。


「ひっ、ひぃぃ。ひぐっ――もう許して」


 パァン、パァン。

 百回まで、残すところ数回。枇杷の木はぐったりと力を失くし、為されるがままとなった。


「ひぐっ。後で覚えてなさい」


 泣きべそをかきながらも、次には憎まれ口を言う。


 パァン。

 最後の一度。締めくくりということか、かくげんさんは手首にスナップを利かせた。「ひいぃっ!」と、枇杷の木も仰け反って悲鳴を上げる。


「竜弥くん、どうするの?」


 お仕置きの間、黙っていた狐が問うた。女性はまだかくげんさんの腕に押さえられ、そうでなくとも動く気力はないようだ。


「どう、って」


 未だ竜弥の気持ちは、枇杷の木しか見ていない。だが起こった出来事が、不自然だと示している。

 意地悪な伯母が珍しく、好物のお菓子をくれたときと似ていた。


「何か決めんといけんの? どうしても今でないといけん?」


 自分がどうなったのか、さっぱり分からない。そんなで判断を誤れば、悔やむことは必至だ。


「もちろんいいわ。食事の後でも、ぐっすり眠った後でも。竜弥くんが決めるってことだけ、忘れなければね」


 許されなければどうしようか。実はびくびくとしながら聞いた。それが拍子抜けするほどに、あっさりと認められた。

 ――なんじゃ、聞いてみるもんじゃ。


「じゃあとりあえず、ここから出ましょう。枇杷の木の精さん、霧を消してくれる?」

「知るもんですか」


 かくげんさんの脚に顔を埋め、枇杷の木は顔を見せない。もごもごと聞こえにくかったが、どうやら拗ねているらしい。


「そう。それなら力尽くになるけど」

「好きにしなさい」


 呆れたため息を、今度は狐が吐いた。が、それには言わず、振り返って言う。


「深山くん、やってちょうだい」


 小さな狐の後ろには、分厚い霧が壁と立ちはだかっている。当然そこに誰も居はしない。

 けれども依頼はすぐに実行された。研ぎ澄まされた風の刃が、真っ白な壁の向こうで唸っている。


「竜弥くんが決断するまで、あなたを捕まえておかなきゃ」


 ビュウと。ひと際高く、風の走り抜けた軌跡に沿って、壁が切り分けられていく。

 破片が地に付くと、気体だったことを今さらに思い出して散り散りに砕けた。竜弥の頭上にも落ちたが、痛みなどはない。


「何ですって?」


 問い返した枇杷の木の上にも、霧の壁が落ちる。真っ白な、清浄の色をした欠片が。


「空く間術式」


 薄っすら草色の、狐の吐息。女性の身体を包み、霧の欠片と混ざっていく。

 やがて草餅のようになった塊を、金色の狐はひと息で吸い込んだ。

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