第肆拾壱話:きのせい  三

「竜弥くんを通して、たくさんの人間を見たわ。どこに居ても、あなたの見たままが見られるの。声も聞こえる。だから人間が、私の知る優しい人間が居なくなったことも知っているの」

「ああ、そうじゃね。人間なんて醜いもんよ。自分の都合で他の誰かを傷付けても、何とも思わん」


 根に包まれた中も明るかった。火も電球もないはずなのに、女性と自分との姿がはっきりと見える。

 何か発光するものがあるのか。それとも既に、幻想の中へ居るのか。判別はつかなかったし、つける理由を竜弥は持たない。


 ――僕はずっと、この人と話すんじゃ。

 竜弥の心の中に居た。その時間が、自身の体験のように思い出される。彼女の見ているのは紛れもなく竜弥の体験で、何だか複雑な心持ちではあったが。


「そうよ。竜弥くんが傷付かないように、私が守っていたの。誰が何を言っても、しても。心が乱れないように」


 幼いころからの想い出と呼べるものが、竜弥にはそれほどなかった。かくげんさんや、神楽舞。彩芽と馳大に纏わることくらいだろう。

 中学校や高校では、口数少なく取っ付きにくい奴だと思われていた。

 友人が居ないのだから、記憶も少なくて当たり前だ。これまでそういう認識であったのが、違うと分かった。

 はっきりと、思い出した。


「そうか、守ってくれとったんじゃ。怖いあやかしに逢ったときも、親戚に悪口を言われたときも」


 そのときの景色が、同時にいくつも。テレビ画面を縦横並べたように頭へ浮かぶ。

 五つや六つの子が見るには、凄惨な姿のあやかしも在った。肉塊に数えきれぬほどの目玉が付いたのや、人間の身体を捲って裏返したようなのやら。

 戦争や争いごとに絡んで生まれた者は、やはり平穏でない。サーベルや日本刀で切られたのも、片手では利かぬだろう。


 ――あやかしを信じてくれる人も居らんかったのう。

 そこに妖精めいた小人が居る。あちらには風を巻いて食う邪鬼が居る。見えているものを口に出してならないなど、思いも寄らなかった。

 自慢をしたわけでもない。今日は寒いね、川の水が多いね。そういう自然の現象を言葉にするのと同じつもりだ。だが、友人になるはずだった子らは皆、気味悪がった。

 最初は面白がる子も居たが、本当に何かが居ると言っている。そう悟ると、彼らも離れていった。

 例外は不用意にあやかしをからかい、何かしらの害を被った者たち。神頼み的に近寄ってきて、用が済めば元の距離に帰っていった。


「そうよ。私が居なかったら、竜弥くんの心は腐り落ちていたの。あなたが頼るのは私だけでいい。他の誰も、竜弥くんが受け入れる必要はないの」


 あの狐と鴉もね、と。低く呟いた声も竜弥には聞こえた。どうして今、特にその二つを並べたのか、理解は出来なかったが。


「ばくちという、あやかし? あれにはお礼を言ってもいいわね。あの子がたくさんの栄養を集めてくれたわ」

「栄養って?」

「決まっているでしょう?」


 妖しく「うふふ」と。空いている両手が竜弥の頬を撫でる。

 手に入れた品物をたしかめる、好事家のように。注意を払いながらも、遠慮がない。


「私は旅人の宿木やどりぎなの。新たな出会い、新たな体験。そういうものに触れた、新鮮な想いが私を大きくするわ」

「そうなんじゃ、それはええね。僕からも、ばくちにお礼を言いたいくらいじゃわ」


 ――でも、ばくちって何じゃったっけ?

 もう思い出せなかった。考えれば分かる気もしたが、そんな手間をかけたくはない。

 目の前の女性だけを考える。この人のことならば、どんなことでも知っておきたい。それ以外はどうでもいいと、竜弥は明確に考えた。


「なるほどね。どうりで竜弥くんは、自分の欲求が薄かったはずよ」


 白く淡い光の中。女声じょせいだが、枇杷の木でない誰か。

 目の前の彼女が「ちっ」と、舌打ちする様さえ麗しい。しかしこの人以外の存在は煩わしく、この場に必要のないものだ。


「要するに竜弥くんが得るはずだった経験値を、横取りしてたってことね。あなた以外に興味が向かないよう、感情も抑制していた」


 どこから聞こえるのか。見回しても、誰かが増えた様子はない。

 枇杷の木は眉根を寄せ、目を吊り上げ、般若もかくやという形相を浮かべる。

 しかしそれでさえ、竜弥には愛おしい。寄った皺の一つずつを、丹念に観察したいと思う。


「そこか!」


 女性の細腕が、唸りを上げて伸びる。そこにあったのは、果たして鞭だったのかというほど。

 柔らかな指先が紐を断ち、竜弥の腰にあった革袋を奪い取る。彼女の手に載ると、それもまた枇杷の実に見えた。


「こんなもの!」


 宙に放り、女性はまた腕をしならせた。今度こそ、獲物を打とうという鞭の動き。笛の音にも似た高い悲鳴が、革袋を裂いた。

 はたはたと、力なく残骸が落ちる。ただし革の切れ端ばかりで、黄土色の石はない。


「こんなもの、どうしたいの?」


 ぼやけた白い光の中に、黄金色の輝きが生まれた。尾を三つに分けた狐が、宙に放られた位置に浮いている。狐といっても、手に乗られるほど小さなものだ。


「ちいぃっ」


 先ほどからの声は、この狐が話していたらしい。女性は苛立ちを声に表し、根を伸ばして巻き取ろうとする。


「無駄よ。私とあなたじゃ、精気が違う。量も性質も、相性も悪いわ」


 実証するがごとく、触れた瞬間に根が燃える。瑠璃色の奥深さを湛えた不思議な炎に。


「くうぅ――でも、竜弥くんは返さない。狡賢いお前の勘から身を隠すのは、骨を折ったの。今さら何をどうされたって、竜弥くんは私のもの」


 必要と言われるのが嬉しい。常の竜弥なら僕なんかをと卑下するところだが、そうとは思わなかった。


「ありがとう、僕もここに居りたい。僕は何をしたらええ?」

「いいのよ竜弥くん。その気持ちだけで十分。あなたはじっと、そこで私を見ていてくれればいいの」


 温かい言葉。過去にこれほど、思い遣ってくれる誰かが居ただろうか。

 居たのかもしれないが、どうでもいい。この温もりを守りたい、そう思った。

 ――じっとなんかしとれん。僕が自分で守らんにゃ。


「この人を怒らせんとってや!」


 怒りや罵倒する感情はなく。ただ強く、そうしてほしいと叫んだ。同時に立ち上がろうともしたが、身体は動かない。


「竜弥くん。やめて、じっとしていて」

「竜弥くん。いいわ、あなたがそう願うなら」


 女性と狐とが、声を重ねる。どちらがどちらを言ったのか、聞き取りそこねた。


「それが本当にあなたの想いなら、私は構わない。よく考えて」

「あなたの為に言うのよ。じっとして、何も考えないで」


 相反する言葉。おそらく一方が、あえて声を被せている。聞くべき想いはどちらか、竜弥自身が考えられるように。


 ――僕は。

 気遣ってくれる誰かの為に、竜弥は決めた。どうするのかを。

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