第肆拾話:きのせい   二

 再び眼を開けるまで、どれくらいが経ったのか。

 落下してすぐだったような。ひとしきり眠っていたような。感覚を頼りには、判然としなかった。倒れたまま見えるのは、落ちてきただろう斜面。覆っている樹々と、下草たち。

 それから一本の木が、目の前に。

 天に向かい、大きく腕を拡げている。灰褐色の幹は、あちこち樹皮が剥げて無垢な白に近付いた。

 靴べらにも似た細長い葉は、産毛が柔らかく心地よさそうだ。


「ああ、実が生ったんじゃね」


 植物に詳しくないが、この木のことだけは分かる。ちょうど片手に収まるくらいの、橙色の実がたった一つ。

 枇杷の木だ。


「会いたいと思ったの。あなたは望んでくれたから、実を付ければきっと会いに来てくれると思ったの」


 まばたきをすると、そこへ立つのは若い女性になっていた。

 黒く長い、腰までまっすぐに下りた髪。橙色の着物の下に、赤い腰巻きが覗く。手には手甲、脚には脚絆。時代劇に見る、旅姿。

 女性と竜弥と、二人を囲う霧が濃い。触れれば持ち上げられるのではと思うほど。地面から天頂まで、どこをも塞ぐ霧が、球にくり抜かれた。

 九月に枇杷が生ること。樹木が人間の姿をとること。閉ざされた部屋を霧が作ること。人間の常識に照らすなら、何もかもおかしい。

 しかし竜弥は、何ら不自然を感じなかった。あやかしが云々とも思わず、あるがままを受け入れた。


「僕に? ああ、そうじゃね。毎年、楽しみにしとったよ。枇杷の実って、そんな風に生るんじゃね。何ていうか、可愛い実じゃ」


 卵と同じ形をして、ふわふわと短い毛に覆われて。スーパーで売り物を見たことはあるが、別物に見えた。

 愛おしく、いつまでも眺めていたい。そんな風にさえ思える。


「そんな、それほどでも」


 女性は赤くした顔を、袖で隠す。そうして小さく咳払いめいて息を整え、竜弥のすぐ脇へ正座する。

 それでようやく、横たわったままと思い出した。慌てて起き上がり、あぐらで向かい合う。

 二十メートルほどは斜面を滑り降りたはずだが、どこにも痛みはなかった。


「この土地は寒く、実がつかなくて当たり前。私の足元に休む旅人たちは、誰もがそう言った。無理をすることはない、影を作ってくれるだけで十分だと」


 ゆったり、のんびり。包み込むような声。どこかで聞き覚えのあるような気もするが、ともかく平和な、あくびの出そうな声。


「ああ、そっか。ここは街道沿いじゃったね」


 座ったまま振り向き、数メートル先に見えるはずの国道へ目を向けた。

 しかし見えない。霧に阻まれるのはもちろん、その向こうに何があるとも思えない。世界には、この空間だけ。

 ――そうじゃ。最初から、そうじゃったんよ。


 二人の他、語らうべき相手も居ない。そんな必要はないのだと、たしかに思う。

 この女性と話し、見つめ合うだけの時間を延々と。そうしていれば、くだらぬことに怒ることもないのだ。

 ――あんな奴に会うことも。あんな奴って、誰じゃったっけ?


「タッくん。あなたはどうしていたの? しばらく会えなくて、寂しく思ったの」

「その呼び方、じゃないほうがええね」


 なぜなのか、理由は思い出せない。だがどうにも、蔑ろにされる気がした。


「あ、ああ。そうなのね。あの、その、では何と呼べばいいかしら」

「竜弥でええよ」

「タツヤ。竜弥ね。じゃあ、竜弥くんと呼ぶわ」


 女性は酷く慌てた。しかし竜弥が穏やかに答えると、すぐに安心して態度を戻す。

 怒らせたと考えたのだろうか。だとしたら申しわけない。ただちょっと、ほんの少し、嫌だなと思っただけなのに。


「ええっと、旅人。いっぱい通ったん?」

「そうね。どれだけ居たのか、数えきれないわ。何度も繰り返し通って、顔を覚えた人も居るけれどね」

「そんなにたくさんなんじゃ。でもみんな、優しかったんじゃね」


 できるはずのないことを、無理にやらなくとも良い。枇杷といえばやはり実が生ることだろうに、影だけあればいいとは。

 そう思うことも然り。わざわざ口に出すのが、優しさ以外の何であろう。

 対して自分は、この土地の気候では無理と知らなかった。あまつさえそれを、当の枇杷の木に願った。


 ――やっぱり僕は、酷い人間じゃのう。

 改めて、そう想う。


 ――やっぱり?

 何かそう考えることでもあっただろうか。記憶を探ろうとするが、見つからない。間違いなく覚えているのに、手繰り寄せようとすると、ぼやけて行方不明になってしまう。

 頭の中へ、霧がかかったかのごとく。


「優しい人は好き。枝を折っていくような、乱暴な人は嫌い。でも実をつければいいって、もっと好きになれる方法を教えてくれたのは、あなただけだった」

「叶わない、無理難題でも?」

「意地悪で言ったんじゃないと分かったわ。それに私は、実をつけた。たくさん、たくさん、栄養を集めたから」


 不可能と言われたことを覆す。そんな経験は一度もない。そう思えば、凄まじく素晴らしいことだ。


「そうなんじゃ、すごい思うよ。立派な実を見せてくれて、ありがとう」

「いいえ、私だけでは出来なかった。ずっとあなたが栄養を送ってくれたから。だからこの実は、あなたの子でもあるのよ」

「僕が?」


 栄養とは何で、どうやって送っていたか。見当もつかず聞き返すと、女性はまた顔を隠した。恥ずかしいらしい。


「竜弥くんの中に、私が居るから」

「僕の中に?」

「あなたの背丈が、ずっとずっと小さかったとき。竜弥くんが初めて、実が生るのを楽しみにしてると言ってくれたとき」


 言った。言ったが何度も言いすぎて、いつが最初と覚えていない。


「私だけを想いつづけるように、祈りをこめたわ。他の何にも気を取られず、片時も忘れないように。私の木霊こだまの半分を、竜弥くんの精気と混ぜたの」

「僕の中に?」


 胸に手を当て、同じく視線を向ける。紺のトレーナーを透かすことは出来ないが、感じた。

 女性の言う、竜弥の中に在る彼女。そのもの姿は見えぬものの、眠ったように静かな何か。

 脳裏に浮かぶわけでも、視界に映るわけでもない。だが心がまばたきをした一瞬、見える気がした。


「ずっと居ったん?」


 眼の辺りは隠したまま、顎を見せて頷く。上げた袖とは反対の手を伸ばし、竜弥の胸に指を向けた。

 その先と、竜弥の心。細い糸が繋がっている。枇杷の実の色をした糸が、伸びても縮んでも弛むことはない。


 ――あ。

 思い出した。

 あれは小学校にも入る前、きっと五歳のとき。竜弥は女性の声を聞いた。母と二人で居るのに、他の誰かに呼ばれたのだ。不思議なことに、声は母と同じだった。

 しかし母は話していない。声のする方向も違う。それで探すと、語りかけるのは枇杷の木だった。


「必ず願いを叶えるって」

「そう、私は誓った。だからそのときには、竜弥くんも傍に居てほしいと」

「うん、思い出したわ。あれから僕は、あやかしと話せるようになったんじゃ」


 女性は自身を抱きしめるように、両手を胸に当てた。ほんのりと色付く花びらのごとく笑い、頷き、腕を広げる。


「そうよ。ずっと傍に居てほしいの。何も難しいことはないわ。あなたはそこに座って、私とお話していればいい。今度は私が、あなたに栄養をあげる」


 枇杷の木から、地面に亀裂が走る。稲妻を描いて、竜弥の座るすぐ先まで。地中から、根の先が顔を出す。握手を求めるがごとく、毛のように細い根が伸びて脚を覆った。

 いや、握手では留まらない。大海から魚を掬う投網かというほど、根毛はすっぽりと竜弥を包み込んでいく。

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