第参拾玖話:きのせい  一

 仏教に伝わる地獄の一つ。身体を永劫に切り刻まれる、等活という苦行があるという。

 見ている現実は、竜弥に親しみ深い神社。今は神主こそ常にないが、草鞋を履いた旅人の時代からずっと土地を見守ってきた。

 それがカステラを切り分けるごとく、縦に横に刻まれていく。


「くうぅっ」


 こうでもせねば、火は燃え広がるばかりだ。本殿までも、果ては周囲の木々をも焼失してしまう。そうなるよりは、確実に良いと分かっている。しかし理屈と感情とは、必ずしも一致しない。

 長年の友が痛めつけられている。そのさまを見せつけられる想いで、竜弥は歯を食いしばった。


「えひゃ。えひゃひゃっ!」


 手を叩いての笑声。酔客が他人を茶化すときの、あからさまな嘲笑。そんなものが放火魔の口から、無責任に吐き出される。


「えひゃひゃひゃひゃ!」


 あれはどこか、おかしくなってしまったのだ。そう思い、堪えようとした。が、弾けた。


「あんたがしたことじゃろうがぁっ!」


 馳大は勢い取り戻そうとする炎を牽制して、手が離せない。

 だから肩を震わせ、怒らせ、仁王立ちする竜弥を止める者はない。


「あんたが――」


 ただ、つかつかと十数歩を歩み寄るのに、口も出さなかった。竜弥の怒りも止むなしと、見逃したのだろう。


 ――殴ったらいけん。

 警察官だから。そんなくだらない建て前は、頭になかった。しかし殴ったところで、何の解決もない。

 それはこの男と同じ、低い位置へ堕ちることと感じた。


「この手が!」


 右の手首をつかむ。捩じ上げると、まだ握っていたライターが落ちた。どこにでも売っている、百円ライター。拾ってまじまじと見れば、また「こんな物で」と憤激が増す。

 地面に叩きつけ、踏みしだいた。


 どう、と。

 拝殿の、最も太い柱が倒れる。既に落ちていた屋根が、岸に寄せた白波のごとく崩れた。


「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」

「何が――!」


 癇に障る洪笑。放火魔を腹を抱え、転がり回る。何がそんなにおかしいのか。問う声さえも、怒気に詰まった。

 ――ワレヲ。


 ズシリ。重い何かが、胸の奥に蠢く。見えるはずはなく、見たこともない。だのに何となく、暗いほうだと想う。影の落ちる、低いどこかへ蹲っていた鬼が。

 憤怒に、目を覚ましたのだと。


 ――かくげんさん。

 竜弥の中に在る、もう一つの人格ではない。掛け軸の本体を失くし、意識だけを遺したかくげんさん。

 彼は叫ぶ。自由を寄越せと。怒りのままに、暴れさせろと。


 ――ええよ。

 その願いに、竜弥は抗わなかった。


「ワレヲオトシムルハ、ダレゾ!」


 発せられた声。現実に空気を震わせた音は、竜弥本来のものとまるで違う。それを竜弥の耳が、一歩退いた虚空で聴く。

 しかし振り上げたのは、現実の右腕。打ち抜き、放火魔の頬を捉えたのも。

 男の口から、そして鼻から、少なからぬ血が吹く。しかし殴り慣れぬ拳もまた、僅か裂けて赤く滲んだ。


「ヒトノヨヲレンゴクトシテ、ナントスル!」


 足先が大きく、土を舞い上げる。家屋を踏み潰すゴジラのように、地面へ伏した放火魔の背を蹴り飛ばす。

 嘘を吐き、人の邪魔をする者を嫌う。かくげんさんとは、そんな存在だと聞いた。だから竜弥の想い出を焼くなど、言語道断。人さまの持ち物を壊すなど、許し難い。


 ――かくげんさんが怒るのは当然じゃ。僕が幼稚なことを言うより、よっぽど正しいお仕置きをしてくれるわ。

 そう、思った。


「ひゃっ! ひひぃっ!」


 おののき、逃げているのか。それともまだ、笑い転げているのか。放火魔の上ずった声に、判別はつかない。

 鈍い動きで四度ほど転がり、仰向けに息を切らせた。覚悟を決めたのでもあるまい。ただ体力を尽かせたのだ。


 ――かくげんさんがそうしたい思うんなら、すりゃあええ。

 そうしたい、とは。報復に殺すこと。意識の半分をかくげんさんに奪われてなお、竜弥ははっきりと想った。

 それだけのことを、この男はした。だから自分の代わりに、それこそ身体を奪われたかくげんさんなら、その資格も十分だと。


「ワレヲ、ウシナウコトアラズヤ!」


 警察学校の訓練に、ようやくついていく程度の平凡な体力。平均的な体格である竜弥の腕が、放火魔の喉をつかんで吊り下げた。


「ぅぐげっ」


 蛙を潰したような、と。竜弥はそんな声を聞いたことがない。気色のいい姿でないと思うが、潰すのは可哀そうだから。

 しかし想像するには、こんな呻きなのだろう。


 ――このまま絞め殺すか。喉を握り潰すのでもいい。

 竜弥は・・・そう考えた・・・・・


「ぐ――ぅぅぅ」


 醜く笑っていた放火魔の顔が、赤く腫れる。それがやがて、まだらに青く変色していった。

 死ぬ。この男は、死ぬ。


 ――僕の想いを踏みにじったこいつは死ぬんじゃ!

 歓喜。たしかに竜弥は、放火魔の死を歓迎し、笑った。

 咄嗟に気付く。どうして笑っているのか。何を喜ぶのか。報復を良しとするわけでもないが、少なくとも対等ではあったはずだ。

 それがなぜ、と自身に問う。


 ――かくげんさん、やめるんじゃ。殺しちゃいけん!

 竜弥が想いを改め叫ぶのと、馳大が駆け寄ってくるのは同時だった。


「竜弥よせっ! それ以上やったら死んじまう!」


 止められる前に、竜弥の手は放火魔を放した。尻から落ちた男は「ごぼっ、げえっ」と反吐を撒く。

 見下ろす視線。どんな眼の形か、鏡もなしに分からない。しかし力がこもって、憎々しげなものだった感触が残る。


「竜弥――よく、かくげんさんを止めたな」


 放火魔を解放した姿に、ほっと馳大も息を吐いた。

 殺そうとしたのは、かくげんさんの暴走。意識を奪われた竜弥が、どうにかそれを食い止めた、と。そう認識しているようだ。


「違う」

「ん?」

「違うんじゃ!」


 竜弥は逃げ出した。馳大と、放火魔と。信頼する男と、侮蔑する男に背を向けて。


 ――人間が悪いって、そりゃ僕のことじゃろうが!

 炎が消え、白煙に包まれた拝殿。その脇を駆け抜ける。どこか暗いところへ。誰にも見られることのない場所へ。恥ずかしさに、入る穴を求めた。

 霧はまだ、森を囲んでいる。煽っていた炎が失せ、もう一度浸食を始めた。

 走る先。さほど広くもない境内と、その向こうに繁る豊かな樹々。それらが平等に、ただ白い壁に閉ざされて平面と化す。

 竜弥の動かす足の下だけが、ほんの一瞬地面という現実を見せるのみ。


 ――このまま行ったら。

 向かう場所がどこかと、思い浮かべはしなかった。何となく情景は頭に浮かんだが、それがあの世というものか、それともあやかしだけが棲む世界なのか。

 ともかくここに、この世に居たくないと思った。自分自身が醜い人間なのだと、知ってしまったから。


「あっ」


 だが、ここは夢物語の世界でなかった。見えるはずの景色が、単に霧へ包まれただけのこと。

 竜弥は境内の端から飛び出し、丘の斜面を落ちていった。

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