第参拾捌話:にんげん  四

 参道とは名ばかりの山道を登る。道幅二メートルほどの半分は、抉れた地面に大きな石がごろごろと転がった。残り半分は浮いた砂に覆われて、酷く滑る。

 だから結局、足場の悪いガレ場のほうを歩く。灯りがなければ足を取られて然るべきだ。しかし幼いころから慣れた竜弥には、そう難しい仕業でない。


「こいつは難儀だな。爺さん婆さんじゃ登れんだろ」

「そうじゃね。ここを登れんようになったら、畑仕事からも引退なんじゃと思うよ」

「なるほど。都会育ちの俺なんかより、よっぽど強えな」


 馳大も自分の足で歩いた。飛べば直に上へ行けようが、竜弥を一人で歩かせるには不安だったのだろう。口に出したのは「降りたら火の海の真ん中だったってのは御免だ」というものだったが。

 都会育ちが定かかはともかく、革靴での山道は難しい。そう思えば、かなり器用に歩く。十歩に一度も躓かない。


「もうここで神楽舞が見られんようになるんじゃね……」


 百メートルほどの参道を登りきる直前。勝手に口が動いた。

 何者かに憑かれたわけでなく。考えて話すまでもない、竜弥の正直な想いが零れ落ちた。


「ここを抜けたら――」


 椚や椈の並ぶ参道の終わり。両端に、黒松が一本ずつ生えている。おそらく腕を回しても、到底回らぬほどの太い松が。

 互いに手を伸ばすように、高い頭上で枝が触れ合う。天然の門構えのようで、くぐって折れた先に石の鳥居がある。どちらも濃密な霧に囲われて、常の姿を見ること叶わない。

 竜弥の耳に、銅拍子と笛が聞こえるようだった。だがそれは妄想だ。実際に届くのは、木の爆ぜるバチバチという不吉な音。

 いつもなら篝火と電球に織り交ざる、透き通った橙の光で包まれるのに。それも今は赤と黒を多分に孕み、奈落の業火を思わせた。あえて言うなら、かくげんさんの背景に描かれた暗い世界にそっくりだ。


「竜弥、迂闊に近寄るなよ。火と煙に巻かれるぞ」

「う、うん」


 生クリームを左官したような霧の壁。分厚いのに、陰惨な火の色は滲み出る。だけでなく、端から吸い寄せられていった。拝殿の方向へ、火を操るあやかしが餌として喰っているのかと思う。

 だが違う、そこが火元だ。燃える炎が気流を生み、上空へ押し出しているに違いない。

 そうして晴れた霧の先へ、拝殿が姿を見せた。

 穴という穴から。垂木や隅角の先から。吹き出す炎が、祭神の怒りを示すようだ。あちこちに施された古い飾り彫りが焦げて、生涯一度のくっきりとした陰影を見せて消え逝く。

 房の付いた幕はとうに亡く、閂の挿された表扉も倒れつつあった。


「燃える……」


 呆然と。何をも出来ない。いや、何も考えられない。

 過去に見た、我が家の燃える様を目の当たりにした人々は、判で押したように膝から崩れ落ちた。どうにかそうならなかったとして、燃え落ちる家をまじまじと見つめた。

 もっと他に。例えば即座に消火にかかるとか、泣き喚くとかないのだなと思った。しかしそういう行動に出るのは、中に人が残っているときだけだ。物だけが燃えている分には、誰もじっと見つめた。


 ――どうにもならん。

 人の手でどうにかなるものでない。多少の何かであれば、危険を冒してまで取りに行く意味もない。どうせ熱で、どうにかなっている。

 事実としてはそうだろうが、理屈でないのだ。

 どうにもならない。と、それ以外に浮かぶ言葉もなかった。あらゆる感情が平坦に動かなくなって、ようやく戻ったのは扉が倒れてからだ。


「何で」


 バァン。と白々しく、盛大に騒ぐ。竜弥が来ていなければ、誰もその声を聞くことはなかった。来る前に、同じように断末魔を残した物たちも多くあったろう。

 そうしてなおさら、炎は猛り狂う。悲鳴に悦ぶサディスティックな悪鬼の手が、拝殿の隣に常設された舞台へも伸びた。


「何でや」


 配線が火花を発して、飾り布が色とりどりの炎に包まれる。ほんの一瞬、眩く光って骸も残さず消える。

 舞台と奥を隔てる分厚い幕も落ちた。臙脂に金の刺繍が豪奢だった。あの前を、やはり金銀に装飾された衣装が舞い、橙の照明を天上の光に見せてくれた。

 父と、母と。良い印象はなくとも、それでも残る親戚たちとの記憶が崩れる。

 許せなくて、竜弥は足を一歩踏み出した。


「何でこんなことするんや!」

「竜弥、危ない!」


 細いけれども筋肉質の腕が、即座に抱き止めた。馳大の声は尖っていて、叱られた気分になった。しかしこの上なく温かくもある。


 ――今一緒に居るんは、馳大さんなんじゃった。

 この境内に居るとき。多くの見物客たちが舞台を観覧し、篝火に集って談笑する。そこここに灯る光だが、どうしても届かぬところもあった。炎の真下や、人の背中、舞台の横手。

 そんな場所へ潜むと、誰より独りだと清々しく思えた。楽しいとかいうことでなく、何だかそうしているのが大人に思えた。

 なぜなら、あやかしたちと出逢えたから。人の手の届かぬ、谷の底へ棲むわけでない。彼らは人の見ている死角へ、平然と在るのだ。

 自分はそのことを知って、何なら仲良くもできる。優越感と呼ぶのが相応しいのかもしれない。


「馳大さん、何でや! 何でこんなことが出来るんや!」

「そりゃあ、ばくちに唆されて――」

「違うじゃろ! ばくちは、あいつのやりたいことを膨らませただけじゃろ! こうやって誰かの大事な場所を壊すのが、あいつの趣味なんじゃろ!」


 責める相手を間違っている。分かっていても収まらない。あの放火魔の趣味だと自分で言って、ますます怒りが増してしまう。


「趣味でこんなことするなや!」

「そうだな」

「悪いのは、ばくちじゃない。悪いのは人間なんよ。あやかしは生まれた理由のまんま居るだけじゃろ。人間が何もせんかったら、あやかしも何もせんのんよ」

「そう思う」


 食ってかかっていたつもりが、いつしか抱き締められた。火事の中でもタバコ臭い、鋼のような胸板。硬い感触が、むしろ安らぐ。この間だけは炎を見ずにすむ。どんなことからも守られる気がして。

 故に、だろう。口にしてはならないと知っていた気持ちが、口を衝いて出た。


「にんげんが一番酷いことをするんよ。人間なんか信用ならん。こんなんなら、いっそ僕はあやかしになりたい思うよ」

「竜弥――」


 死んで、いわゆる霊魂からあやかしになった者はあるという。だからとすぐに死にたいと言ったつもりはない。ではどうしたいのか、竜弥にも分からない。困らせると知っても、馳大に身を任せるしか今は出来なかった。


「ひ、ひひっ」


 しばらく、と竜弥には感じた。だがさほど間もなく、何者かが引き攣った笑いを落とす。


 ――笑われた。

 炎へ背を向けていたにも関わらず、竜弥の顔が熱く燃える。睨みつけた先に居たのは、あの職員の男。

 地面に膝立ちで、頬をひくひくと痙攣させた。一点を見つめる風でいて、どこをも見ていない。明らか精神に異常を来している。


「ひひひっ。いひひっ」


 放火魔が笑うと、拝殿の奥に爆発があった。ドン。とくぐもった音が、地響きを足下まで伝える。社務所のない神社であるから、ガスか何か置いていたのだろう。


「くそっ。神主とかは駄目だな」


 ひと際強く、一すじの炎が吹く。太い柱や梁も、それにはいくらも持つまい。増した熱に顔を庇いつつ、馳大が唸った。


「神主さん?」

「居るだろ、神社なら。俺もこんな中に入ったら、死んじまう」

「いやここには誰も住んどらんよ」


 掃除をしたり、管理には来ていよう。だが住居として、ずっと居る者はない。竜弥には当然のことだったが、馳大には違ったようだ。


「そうなのか? じゃあ消せるじゃないか」

「えっ、どうするん?」


 答える前に、馳大は大鴉へと姿を変える。人の二倍ほどもある両翼がいっぱいに広げられ、今にも羽ばたこうとした。


「こうするのさ」


 片方ずつ。左右の翼が作り出した突風は空を裂き、柱を切った。すると当たり前に、頑丈な天井が落ちる。押し潰された炎を屋根ごと、馳大は風の刃で切り刻んでいく。

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