第参拾漆話:にんげん 三
霧が濃い。豊山町の神社から二十キロ近くも離れて、まだ続いている。薄れるどころか、より一層に。濃くなるというより、粘こさが増したと表すほうがもはや近い。
「これは煙じゃないんよねえ」
「ああ、ただの霧だ」
「ただの、かは疑問だけどね」
何かが燃えていると知って、まずは赤い色を探した。夜であるから多少離れていても、それくらいは見えるかと思って。
しかし見えない。
綿菓子に埋まればこんな様子かという濃密な白が、セルボのヘッドライトの届くだけ纏わる。
「霧のあやかしなん?」
「あいたい、というのが居るわ。誰かに会いたい、傍に居てほしい。そういう想いから生まれたの」
「しかしこいつは、あいたいじゃない」
あやかしの精気を感じない、と二人は頷き合う。
ならばやはり、ただの霧なのでは。そう思うが、ともあれ今は他にやるべきことがある。
「深山くん。竜弥くんと居てあげて」
「どうするんだ?」
「電話を探してくるわ」
至って普通に消防へ通報すると、彩芽は自分の足で駆けていった。これだけ視界が悪ければ、車を動かすのは危うい。
だが付近に公衆電話はあったろうか。電信事業法で一キロ四方に一つと決まっているが、その通り設置されてはいない。
「彩芽さん、隣の家に借りたほうが早いかもしれんよ!」
もう見えなくなった背中に叫んで、気付く。車が危険なら、消防車も遅くなってしまう。
そう考えたせいか、胸に不安が膨らんでいく。公園の遊具を錆が冒すがごとく、動きを鈍く、在るだけで悲しい気にさせる。
何か途轍もなく、嫌な予感がした。
「馳大さん、上から火事を探せんかね?」
「分かると思うが、大丈夫か?」
霧の中に一人で居ても。大鴉の姿をまた見ても。大丈夫とは、どちらの意味か。
――どっちでも大丈夫よ。
誰よりも自身に言い聞かせ、竜弥は力強く首肯した。
「分かった」
言うと同時、地面を蹴る音がした。途端、馳大の姿は消える。要望に従い、飛んでくれたのだ。
遥か頭上で二度ほど、大きな翼の風を打つ音がした。そうしてものの二分ほどで、馳大は降りてくる。
「駄目だ。霧が広すぎる」
「上から見ても分からんほどの厚みなん?」
「それもあるが、まだ火がそこまでじゃないんだろう。建物の中が燃えてるなら、上からじゃ見えん」
たしかに、と記憶を手繰る。火事現場に行ったことも何回かあるが、屋根が落ちるのはかなり燃えてからだった。
「馳大さん、火元を探しに行こ」
「そうするか?」
「何か、嫌な気がするんよ」
直感、山勘の類いを感じたことはあまりない。だのに一瞬ごと、良くないという想いが強まっていく。
これを信じず、いま動かねば後悔する。そんな気持ちで足が独りでに動き出しそうだった。
「でも彩芽さんと逸れてしまうね」
「あいつは問題ないさ。例の石、持ってるだろ?」
「前に受け取ったやつ?」
持っていろと彩芽から預かったのを、馳大が渡してくれた石。職場の誰だったかから貰った、オーストラリア土産の革袋に入れてある。
腰から吊り下げたのを撫で、失くしていないのをたしかめた。
「そいつは彩芽の一部だ」
「え、この石が?」
「そうだ。だから持ってりゃ、お前の居場所くらい彩芽には分かる」
そんな馬鹿なと疑う竜弥でない。付き合いが長いせいもあるし、人の言い分を頭ごなしに否定するのは嫌いだ。
ただ、どういうことか詳しく聞きたくはある。彩芽があやかしで仙狐とは知っていても、石から生まれたとは聞いていない。
「じゃあ臭いを辿っていくか」
「う、うん。そうじゃね」
まずやるべきは、歩き出すこと。先を行く馳大に、二歩遅れて続く。
そもそもは木場を捜しに来た。その為にていねいを呼び出していたら、放火魔が現れた。
火事が起きているなら、何を置いても対処すべきだ。そこへ来て、彩芽の素性の話。
優先順位が、どんどん更新されていく。その中で、石の件は緊急性が低い。
――でも気になるわ。
後からゆっくり、焼き鳥でも食べながら話せるなら、それでもいい。
しかしこの機会に聞いておかなければ、二度と聞けない種類でないのか。そんな気がした。
「気になるか?」
「え、うん。まあ」
人の姿のとき、馳大の感覚は人間と同等らしい。だから霧の中を歩くのも、一歩ずつ探りながらだ。
きょろきょろと周囲を、足元を見回し、すんすんと鼻を鳴らす。竜弥がやっているのと、そっくり同じ。
どうしても進む速度は遅くなり、気付かれてならぬ敵が居るわけでない。
「竜弥が聞きたいなら、教えていいと言われてる。というか、自分では恥ずかしくて言いたくないんだそうだ」
「恥ずかしいんじゃ――」
無理に聞き出す真似はしたくない。言い囃すつもりもないが、知っているだけで同じになることもあろう。
「大した話じゃない、自慢できないってだけだ。俺が思うにはだが、竜弥には知っておいてほしいんじゃないかな」
自分の失態とかいうものを、誰かに知ってほしい。竜弥に覚えのある気持ちではなかった。
だが想像するに感銘を受けた恩師とか、生涯ただ一人みたいな親友とか、そんな誰かにならと思う。要は深い信頼で結ばれた相手だ。
――彩芽さんが、僕をそう思うてくれとるんか? じゃったら嬉しいのう。
そう感じて「聞かせてえや」とすぐに言った。しかし何だか助平心にも思えてきて、早まったかと悔やむ。
「彩芽は百年間、石になってたんだよ。名前はそのまま、殺めの石だ。あいつは千五百年前、人間を殺した。人間との間に生まれた、男の子をな」
「殺し……」
人間の子どもを。彩芽自身の生んだ子を。人との間にもうけた子を。
――殺した? それで石になった?
千四百年前から、仙狐として修行をしていると彩芽は言った。しかし落ちこぼれで、認められないと。
人を殺し稲荷になれない、おさん狐。他人とは思えないと、横暴な人間を目の前に彩芽の洩らした言葉。
「ああ、心配するな。お前の血筋とかいう落ちはない。本当にただ何となく、その子と竜弥が似てる気がした。それだけだとさ」
「僕が、彩芽さんの子に。そうなんじゃ」
心配も何も、そこまで理解が追い付いていない。答えたまま、そうなんだと胸に置くのが精一杯だ。
「何で殺すことに?」
「さあ、そこまでは聞いてない。竜弥なら、聞けば教えてくれるかもな」
理由に納得すれば、もう少し座りのいい情報だったかもしれない。けれども補完されなかった。
「うん、近い。燃えてるのはこの先だ」
ぼんやりと、馳大の背中を追うだけになっていた。その意識に、火事を探す最中という現実が喝を入れた。
「ほ、ほんまじゃ。すごい臭いわ」
こう言っては不謹慎になろうが、いかにも燃えたてという新鮮な香ばしさが増した。
歩む道は次第に登っていく。見覚えのある国道の左右は田んぼで、記憶が定かならばこの先にある建物は一つしかない。
「ここ、神社じゃ」
「神楽をやるっていう――?」
「うん。間違いないわ」
神社の建つ小高い丘の麓。見上げた白いベールの奥に、橙の光がちらと踊った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます